大僧正天海 (299)
大僧正天海 (299) 「佐左衛門が取りたる首のやせたるを見て気を変し、『辛苦せし事を察しぬ』と云ひてわめき、落涙し、来し方のことを悔やみてなげき悲しみ、打ち伏して起きもえざりしかな。」(「細川家文書」) こうして、佐左衛門が取った首が、四郎であると断定されたのである。この四郎の母らも三月には全員斬首となった。 天草四郎時貞、四郎の姉・レシイナ、渡辺小左衛門、有家監物の4人の首は長崎の出島の前に晒された。この頃は、まだポルトガル船が出入りしていたので、その見せしめとしたのである。 最後の総攻めによる幕府側の死傷者が判明した。 細川藩…死傷者2,100名、うち死者270名 黒田藩…死傷者1,900名、うち死者210名 鍋島藩…死傷者800名、うち死者140名 幕府軍総勢…死傷者8,000名、うち死者1,100名であった。 この一揆が発生してから、鎮圧されるまでの幕府側の死傷者は、1万3千人、このうち死者は2,000人であった。 幕府は戦費として40万両(およそ400億円)を諸藩に支払った。幕府としては高額な負担であったが、実態は兵粮分に過ぎず、諸藩の出費はもっと大きかったのである。 続けて信綱は、この度の乱の原因を作った松倉家の取調べにかかったのである。 藩主・松倉勝家は、当初幕府に対して「これは邪教切支丹による不法な暴動である。」と主張し、「切支丹の弾圧は幕府の方針に従っただけである。」と弁明していた。 しかし信綱は、一揆勢から送られてきた矢文や、捕虜にした一揆勢の尋問調書等から、すでに島原領内を徹底的に分析していたのである。 そして、一揆の原因は、単に宗教的な問題だけではなく、 ① 松倉家が過大な年貢を課していたこと、 ② 多様な税により領民を苦しめていたこと、 ③ 過酷な年貢の取り立てを行っていたこと、 ④ 年貢を納められない農民やその家族に対し、水牢に入れるなどの非道な拷問を行っていたこと、等を突き止めていたのである。 「この乱は切支丹の狂信だけが原因ではなく、松倉家のあまりの苛政に民衆が怒りを爆発させたものである。」 信綱は、勝家の屋敷を家宅捜索し、桶の中から拷問された農民の遺体を発見した。これが決定的な物証となったのである。松倉家が日常的に残虐な拷問を行っていたことが、取調べで立証され、ついに言い逃れができなくなったのであった。 諸将は幕府に命令により、小倉に集められた。 4月4日、江戸から若年寄・太田資宗が到着し、諸将の労をねぎらったのである。 この席で、松倉家には改易処分が下され、勝家の身柄は美作国森内記長継に預けられた。 その後、「その所領にて逆徒蜂起せしめしのみならず、平日佞臣を登用し、国民を苦しめし罪軽からず。」として死罪となったのである。 7月19日、勝家は江戸の森川家下屋敷にて首を刎ねられた。 武士として切腹することも許されず、大罪人として斬首となったのである。