大僧正天海 (197)
大僧正天海 (197) 「大将軍家光は、八月朔日参内御暇を乞ひ、同じ五日を以て武州に下向したり。大僧正も駕に陪して東に帰錫するや、行李を解くの遑なく、直ちに日光に登山したりき。是れ九月十七日参詣あるべき、将軍の駕を迎ふる必要ありければなり。」(「大僧正天海」須藤光暉) 往路は別行動であった天海も、帰路は将軍に従って下向したようである。 さて、家光から下された「特別な輿」とは、どの様なものか、少し考えてみよう。 輿は身分によって使用できる種類が異なっていた。 最高位は、当然のことながら天皇・皇后等が乗る「鳳輦」である。乗物の頂点に天皇を表す「鳳凰」の飾りが付いている。同様に葱花の宝珠をつけた「葱花輦」もある。屋形の下に長い二本の轅と、五本の担ぎ棒がついていた。 上皇や摂関・公卿・高位僧等は「四方輿」のを用いた。これは屋形の四方を「網代」という薄い板を編んだ簾に囲まれた輿である。 この度の上洛は夏であったので、恐らく高齢の天海は風通しの良い「四方輿」を用いたのではないかと思う。他には、少し高級な「網代輿」や木造の「塗輿」「板輿」もあった。 そもそも輿に乗ることができたのは、朝廷では天皇、上皇、法王、皇后、女御、公家などである。 武家では、将軍家、御三家、(後に御三卿)、国持大名(加賀家、前田家、島津家、池田家等)、その他僧侶(門跡、国師、上人、紫衣を得た僧侶)等であった。 江戸幕府が定めた「輿に乗れる僧侶」は、「独礼乗輿」と呼ばれた。 「独礼」とは住職一人だけで将軍に拝謁できる僧侶のことで、「乗輿」とは、江戸城門内まで輿に乗ったまま入場できる高い身分の僧侶の事を言う。 具体的には、将軍家の菩提寺である増上寺、知恩院、寛永寺の住職、天皇家や将軍家の祈願所である善福寺や浅草寺等の住職、他には由緒ある寺院の住職等であった。 「(寛永十一年)九月朔日江戸府内の町人を、大手の広庭にめしあつめ、土井大炊頭利勝仰を伝へ、大目付、町奉行伺公して銀五千貫目下さる。城櫓にならせられてそのさま御覧あり。」(「大猷院殿御實紀」) 「9月1日、江戸府内の町人たちを江戸城の大手門前の広場に召し集め、土井利勝(老中)が将軍の命を伝え、大目付や町奉行も列席する中で、銀五千貫目を町民に下賜した。家光公は城の櫓に登り、町人たちが喜ぶその様子を見学した。」 京都で銀五千貫目(現在の価値で数百億円)をばら撒いたことで、京都の人々を感悦成らしめた。 そこで江戸では、銀五千貫目を土着して20年の者には3枚、それ以前から住む者には5枚づつ、最近の者は2枚づつ施しを与えた。 「土人年中遊楽して絃歌の聲絶えざりしとぞ。」(「同上」) これに喜んだ町民は、湯島、浅草あたりで「金の祝い」を催した。江戸の町人たちは、その年、一年中遊び楽しんで、三味線や歌の音が絶えることがなかったという。 (旅行のため暫く休載します。)歴史に親しむ会 編『日本歴史大図鑑』,百年社,1977.5.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12205467 (参照 2026-02-17)