南光坊天海 ⑳
南光坊天海 ⑳ 重利の嫡男・重元(藤右衛門)も熊本藩(細川忠利)に仕官したようだ。重元の長男・重次(百助)は、熊本藩の重臣となり、次男・重之も熊本藩士となっている。 さて、重行の娘婿に休庵という医者がいたそうだ。この三宅休庵の家系は島原で代々医師を生業としたという。 幕末のころ、その子孫に三宅艮斎という医者がいた。14歳にして長崎で蘭学を学び、江戸に出て医院を開いたのである。その後、堀田正睦家の藩医となり、外科手術等を担当した。また艮斎は趣味で鉱物の研究もしていたようである。 文久元年(1861年)シーボルトに師事し、医学や薬草などを学んだ。この時、艮斎が収集した鉱物標本を、シーボルトがヨーロッパに持ち帰ってしまったというのだ。 文久2年(1862年)には、艮斎は医学所の教授となる。 慶応4年(1868年)、まさに、明治維新の最中に艮斎は52年の生涯を閉じたのである。 艮斎の長男・秀(ひいず)が遣欧使節団としてマルセイユに行ったとき、父の収拾した鉱物標本の返還を求めたが、拒否されたという。 因みに、この三宅秀も医師で、日本で初の医学博士であり、東京帝国大学名誉教授であり、貴族院議員でもあった。この家にも自分たちが「明智光秀の子孫」であるとの家伝が残っている。 「慶長十四年七月五日島津陸奥守家久(忠恒)琉球を征し、其王を生擒せしよし注進するにより、其軍功を賞せられ、家久に御書を給ひ、三位義久入道龍伯幷に兵庫頭義弘入道惟新にも、同じく御書を給ひ褒せらる。 七日 大御所より島津陸奥守家久に、琉球の軍功を賞せられ、その地を家久に下さる。凡琉球の税額十二萬石餘といふ。」(「台徳院御實紀」) 関ケ原の戦いの後、本領安堵を勝ち取った島津忠恒は、次期薩摩藩主の立場を揺るぎないものとした。これで小うるさい二人の父親(実父・義弘と義父・義久)から小言を言われなくても済むようになったのである。 本来、忠恒は義弘の三男で、島津家の家督を継ぐ立場ではなかった。当主の義久に男児がいなかったため、義弘の次男・島津久保に大きな期待が寄せられた。(長男は早世している。)久保は優秀で、将来を期待された逸材であったのだ。そこで、二人は、久保と義久の娘の亀姫を結婚させ、この血統を島津家の正当な血筋とするつもりであった。 それに比べ、三男の忠恒は、誰からも期待もされず自由奔放に生きてきた。ただただ、酒と女と蹴鞠があれば幸せだったのだ。そんな自堕落な忠恒に、突然転機が訪れる。文禄の役で巨済島に出陣していた久保が病死するのである。 そこで義久、義弘は、亀姫を忠恒のもとに再嫁させ、これを島津家の後継としたのである。二人は同時に自堕落に生きてきた忠恒の再教育を施さなければならなくなった。 義弘は慶長の役で忠恒を朝鮮に連れて行ったが、忠恒が最初に取り組んだのが、「蹴鞠場」の建設であった。義弘が怒ったのも、もっともな話である。それでも戦場では、猛将として活躍するも、我儘で横暴な忠恒は家中でも評判が悪かったのである。 義弘、忠恒親子は、泗川の戦いを五大老に激賞され、忠恒は左近衛少将に任じられ、「薩摩少将」と呼ばれるようになる。 三宅艮斎『桔梗 : 三宅秀とその周辺』,編纂 福田雅代,1985.6.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12192899 (参照 2024-09-30)