大僧正天海 (158)
大僧正天海 (158) 「又、金地院本光国師崇伝遷化す。崇伝は一色式部少輔晴具が孫にて、紀伊守秀勝が子なり。」(「大猷院殿御實紀」) 崇伝は永禄12年(1569年)、一色秀勝の次男として京都に生まれた。一色氏は清和源氏義国流・足利氏であり、家紋は「足利二つ引」である。 足利将軍のもとで、九州探題や侍所所司に任じられ、いわゆる「三管領四職」といわれた名家のひとつであった。 応仁の乱以降は、一色家は衰え、丹後一色家(宗家)、兵部一色家、一色右馬頭家、式部一色家、宮内一色家等に分かれた。 崇伝の祖父は「式部一色家」の一色晴具で、将軍・足利義輝から領地を賜っていった。その長男・藤長は義輝に近習していたが、永禄8年(1565年)に義輝が暗殺されてしまう。そこで藤長は細川藤孝(幽斎)らと共に足利義昭擁立に奔走するのであった。 元亀4年(1573年)、信長によって義昭が追放され、室町幕府が滅亡すると、藤長らは義昭に従って紀伊国に落ちた。 一色秀勝は藤長の弟で、崇伝はその次男である。崇伝は重臣・平賀清兵衛とともに京都に残り、南禅寺にて僅か5歳で出家したのであった。 崇伝は始め玄圃霊三に師事し、牧護庵に住んだ。鷹峯金地院の靖叔徳林の法を嗣ぎ、その後、醍醐寺三寶院で学んだという。 天正19年(1591年)には早くも「秉仏」(儀式において仏具を持つ僧)を務めた。 文禄3年(1594年)、26歳にして公帖(公式辞令)により出世(住職)を賜り、摂津国福厳寺に住居した。のちに相模国禅興寺、慶長10年(1605年)に鎌倉五山の建長寺、さらに臨済宗五山派の最高位である南禅寺の270世住職となり、帝から紫衣を賜っている。まさに驚異の出世である。 相国寺の西笑承兌は長く外交・宗教政策に携わっていたが、自身の後継として崇伝を推挙した。 慶長13年(1608年)家康に召されて駿府に出仕、外交往復文書などを担当した。これ以降、閑室元佶とともに幕政に関わることになる。 崇伝は外交事務に長けていた。この時代は明・朝鮮との国交回復、東南アジアとの交易、西欧諸国との交流が続いていたので、外交文書の起草や朱印状貿易に関する事務が崇伝の担当になった。 現代に置き換えると、天海は宗教担当の内閣参与であり、崇伝は外務大臣等の重要閣僚である。権力は崇伝の方が遥かに上であった。 慶長15年(1610年)には駿府に金地院を建立し、京都と駿府を往復する日々が続くことになる。 慶長17年(1612年)元佶が入寂すると、崇伝と板倉勝重が、幕府の宗教政策を担うようになる。創成期の幕府にはこれに匹敵するほどの人材がいなかったのである。 慶長18年(1613年)になると基督教禁教の起草を命じられる。 家康は当初、西欧との貿易を重要視していたが、岡本大八事件等から基督教に脅威を感じるようになっていった。崇伝の起草は承認され、「伴天連追放令」として発令されたのである。 これは幕府にとって初めての公式の禁教令で、直轄領に対して発したのであるが、諸侯は幕府の意向に従い、同様の施策を実施した。これが幕府の基督教禁教の基本法となったのである。 以心崇伝 [著] ほか『異国日記 : 金地院崇伝外交文書集成 影印本』,東京美術,1989.12.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/13200883 (参照 2026-01-08)