大僧正天海 (263)
大僧正天海 (263) さて、もう一つ気づくことは、天草勢の少なさである。 本渡の戦い8,800名、富岡城攻めでは12,000名であった天草勢は、島原勢の救援部隊2,300人を引いても、9,000余名はいたはずである。それが、原城に籠ったのは、たった3,000人であった。 しかもその半分以上が女子供となっている。籠城軍を37,00人とすると占有率は10%未満である。多くの農民にとって、海を越える決断は難しかったのであろう。この籠城出来なかった人々が、後に隠れ切支丹になったのかも知れない。 次に城内の組織編成を見てみよう。これにも諸説あるので、一先ずWikipediaを参照すると、 総大将 - 天草四郎時貞 本丸大将 - 有家監物入道休意(有馬氏旧臣) 評定衆 - 益田甚兵衛好次(小西氏旧臣) 評定衆 - 蘆塚忠右衛門(有馬氏旧臣) 評定衆 - 駒木根友房(三会村金作)(小西氏旧臣) 評定衆 - 渡辺伝兵衛(天草 元庄屋) 評定衆 - 赤星内膳(加藤氏家臣の子) 惣奉行 - 森宗意軒(小西氏旧臣) 本丸番頭 - 山田右衛門作(有馬氏旧臣・松倉氏御用達南蛮絵師) 浮武者頭 - 大矢野松右衛門(小西氏旧臣)となる。 これにも諸説ある。四郎を「首領」とし、甚兵衛、伝兵衛らを「評定人」として、忠右衛門らを軍奉行、宗意軒らを「惣横目(目付)」としているものもある。その他、山善左衛門らが二の丸の番頭、田崎刑部らは二の丸出丸の番頭等となっている。 どうやら宗意軒は、評定人ではなく、実務家を取りまとめる惣奉行のような立場になったようである。 一方、『島原天草の乱:ドキュメント』(志岐隆重:著)では、 総大将…天草四郎 本丸大将…山田右衛門作 評定衆…益田甚兵衛、渡辺伝兵衛、馬場休意(有家監物)、赤星主膳他 軍奉行…蘆塚忠右衛門、有家監物、 相津玄察、松島半之丞他 目付……志岐義安、森宗意軒他 二の丸大将…有馬重正、山善左衛門 三の丸大将…大矢野松右衛門、千束善右衛門、となっている。 この山田右衛門作は、有馬晴信・直純に南蛮絵師として仕え、松倉家に見出され、お抱え絵師として扶持を受けていた。 一揆が勃発した時、妻子を人質に取られ、無理やり一揆勢に引きずり込まれたという。この人物が本丸大将というのは、いささか頷けない。これまでの経緯から、有家監物を本丸大将とした方が、納得できるのではないか。 「 一、一揆方の女ならびに子供、この方へ敵対なさざる者、きるまじき事。 一、一揆ども、御味方に参るべきよし申すにおいては、差し通すべきこと。 極五日 石谷 十蔵 板倉内膳正」 (「細川家史料」) 12月5日、ついに板倉重昌と石谷十蔵が島原城に入城した。鍋島藩2万人とも合流している。いよいよ、本格的な戦いが始まろうとしていた。