大僧正天海 (193)
「(寛永十一年閏七月)三日土井大炊頭利勝、板倉周防守重宗を御使として、院の御料七千石加へて一万石進めらせ給ふ御旨を聞え上給ふ。よて勅使、院使まうで御謝旨を傳ふ。勅使は直垂、院使は狩衣なり。
四日、院の召によて、仙洞へ参らせ給ふ。御直垂にて施薬院へわたらせ給ひ。御衣冠にて院参し給ふ。」(「大猷院殿御實紀」)
「寛永11年閏7月3日、土井利勝と板倉重宗を御使として派遣し、上皇の所領に7千石を加えて、1万石とする旨を申し上げた。これを受けて、天皇からの勅使と上皇からの院使が訪れ、謝意を伝えた。勅使は直垂、院使は狩衣を着用していた。
4日、上皇のお召しによって、仙洞御所(上皇のお住まい)へ参上した。家光は直垂姿で施薬院へ向かい、そこで衣冠に着替えて上皇に拝謁した。」
この度の家光上洛は、将軍の権威を示すだけではなく、紫衣事件以来傷ついた朝幕関係を修復する狙いもあった。このためにも後水尾上皇との関係改善は必然であった。
これは、これまで朝廷を力で押さえつけてきた幕府が、『十分な経済支援を与えつつ、幕府主導の秩序の中に組み込むという方針』に移行した画期的なものであった。この結果、朝幕関係の枠組みが完成し、その権威が幕末まで継続したのである。
「(閏七月九日)此日薩摩中納言家久卿、琉球の使佐鋪王子幷王城、金武を引つれ、二条城二丸にまうのぼり拝せしむ。」(「同上」)
閏7月9日、家光の上洛に合わせて、薩摩藩主・島津家久(忠恒)は琉球王国の使節を伴って二条城に上った。これは幕府が琉球を「自国の支配下にある異国」として演出し、その支配力を天下に誇示するための極めて重要な外交儀礼であった。
この琉球使節は、家光の将軍職継承を祝うための「慶賀使」であった。
「佐鋪王子」とは、当時の琉球国王・尚豊王の次男であり、「慶賀使」の正使を務めた。後に琉球王国の摂政となる重要人物である。
「王城」は、個人名ではなく、「王族」を指す言葉である。この使節団に加わっていた王族を総称していた。
「金武」とは、金武王子朝貞のことで、尚豊王の弟である。佐鋪王子の叔父として、また経験豊富な王族として同行した。総勢は約100名であったという。
中山王尚豊からは、太刀、銀300枚、糸500斤、天鵝絨50反、結仙香3箱、香餅2盒、竹心香3箱、焼酎5瓶が献上された。また王子からは、太刀、馬代銀50枚、羅紗11間、芭蕉布50反、官香10把、金1枚、王弟・金武からは、唐布30枚、銀30枚が献上された。
家久は、琉球使節にわざと中国風の唐衣裳を着用させ、異国風の音楽を奏でながら行進させたという。
使節団が奏でた中国風の吹奏楽である「路次楽」は、その独特の音色から京都の人々を魅了し、「長崎くんち」や各地の山車行事などのお囃子に影響を与え、各地で琉球風の音楽や装束が取り入れられた。
家光が琉球使節を正式な儀礼として受け入れたことは、幕府が「島津氏による琉球支配」を公式に認め、支援していることを天下に示すことになった。
これにより島津家は、琉球に対する特権が公式に認められ、琉球を通じた対清貿易による利益を独占することになった。これが後の薩摩藩の財政基盤を支える大きな要因となったのである。
大島延次郎 著『日本交通史論叢』,
国際交通文化協会,昭14.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263589 (参照 2026-02-13)
