大僧正天海 (181)
「(寛永十一年五月)二日大僧正天海御前に召て御酒を賜ふ。井伊掃部頭直孝、松平下総守忠明これに侍す。」(「大猷院殿御實紀」)
天海もついに99歳となった。いわゆる「白寿」である。
室町時代以降に、日本で「喜寿」や「米寿」などの祝いが誕生した。「白寿」も「百」から一を引くと「白」になるという文字遊びから生まれた文化であった。庶民には、江戸時代に一般化したようである。
高虎、崇伝と共に長く国政に参与していた天海であったが、この頃になると幕府の体制も固まり、宗教行事以外は国政に関わることはなかった。
家光の相談役は、「大政参与」となった井伊直孝と松平忠明が務めたのである。
それでも家光は、しばしば天海を招き、褒美を与えたり、饗応したりしている。そして今日は、大政参与の直孝と忠明が接待したのである。
「神料及び日光山領下野国の内二十二村、合わせて七千石は、先規の如く寄附せらる。御供、常燈、祭祀、年中行事、修理費、門跡、撿挍幷衆徒、一坊、社家、楽人以下、悉く所管たるべし。」(「同上」)
ここで天海は、「日光東照社領及び条約」の御朱印を賜ったのである。日光東照社の所領は7千石とあるから、大身旗本並みである。また、領内のほとんどを所轄し、不輸不入の権も認められている。ただし、国法違反の徒については、この限りではない、という。本文を読むと、天海に対して、絶大な権限が与えられていたことが分かる。
なお「東照社」が、この時代の正しい呼び名であり、「東照宮」になったのは、もう少し先の正保2年(1645年)である。このブログでは「老中」等と同じように、紛らわしいので「東照宮」で表記している。
「又松前志摩守公廣に仰下されしは、各国より松前地方へ出入の商売等、公廣がもとに告ずして、蝦夷とひそかに売買せば曲事たるべし。公廣に告ず渡海し、販買する者あらば速にうたふべし。」(「同上」)
当時の松前藩は、稲作ができず「石高」がなかった。そのため、家臣には土地を与える代わりに、特定の場所での「アイヌとの交易権」を与えていたのである。
この交易拠点を商場(場所)といい、家臣はその場所で得た毛皮、サケ、鷹の羽などを和人の米や道具と交換し、その利益で家計を支えていた。
またこの頃、渡島半島の知内川や大千軒岳で大量の砂金が取れ、これを求めて、奥羽を中心に「金掘り」(山師)が大量に押し寄せていたのである。
第2代藩主・松前公廣が幕府から交易の独占権を再確認された背景には、この「砂金」も深く関わっていた。
「松前藩を通さない勝手な商売は厳禁」と念押ししたのは、この金掘りたちがもたらす「秩序の乱れ」を警戒したためでもあった。
砂金を求め大勢の和人が、蝦夷地の奥地まで入り込んだため、松前藩の目の届かないところでアイヌと直接取引するものが跡を絶たず、時には他国商人が砂金を安く買い叩くこともあった。
当時、幕府は基督教弾圧を強めていて、切支丹が「金掘り人足」に紛れて蝦夷地の山奥へ逃げ込むことも警戒していた。金掘り人足を通じて基督教が広まることや、それが海外勢力と結びつくことを強く警戒していたのである。
事実、寛永16年(1639年)には、幕府の命を受けた松前藩が、砂金場に潜伏していた切支丹106人を処刑している。
今田光夫 著『ニシン漁家列伝 : 百万石時代の担い手たち』,幻洋社,1991.8.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13278345 (参照 2026-02-01)
