大僧正天海 (185)
【家光上洛②】
「(寛永十一年六月)十日松平式部少輔忠次先達て上洛するにより、御馬をたまふ。この日、秋山修理亮正重、宮城甚右衛門和甫、道途のこと沙汰すべしとて、御先まかる。」(「大猷院殿御實紀」)
家光上洛の先達として出立したのは、榊原(松平)忠次である。しかし、忠次は「式部大輔」であり、「式部少輔」ではない。ただ他に該当する人物が見当たらないので、ここは榊原忠次で間違いないであろう。
榊原家は、徳川四天王の一人・榊原康政の家系である。
慶長11年(1606年)康政の死後、三男の康勝が上野国館林10万石を継いだ。ところが、慶長19年(1614年)大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで奮戦し、持病の腫物が破裂して、26歳で死去したのである。
康政の長男・忠政は大須賀家を継いでいたが、慶長12年(1607年)に27歳で死去、その子・忠次(3歳)が遠江国横須賀6万石を相続していた。
康勝には継子がなかったため、榊原家は断絶の危機となった。これを惜しんだ家康は、大須賀忠次に「榊原家」を継承させ、榊原忠次とした。そして一代限りで「松平姓」を与えたのである。
この忠次と本多政遂、前田利孝が一番供奉であった。
12日には、二番供奉として酒井忠行(忠世の子)、土方雄次、北条氏重、堀直升、戸澤定盛、松平重成が出立した。
13日には、三番供奉として板倉重昌、戸田重種、鳥居忠頼、山口重政、水野重仲、酒井忠貞、永井直重、坂部廣利、近藤重堯、八木守道、酒井忠正、堀利長、安部信之、松平忠昭、秋元忠朝、米津田盛が出立した。
14日の四番供奉は、土井利勝(その子・利隆が代行)、保科正之、酒井忠當、諏訪頼水である。
15日、五番供奉として石川忠總、16・17・18日は馬廻衆が先発した。
19日、阿部忠秋、土屋利直、近藤貞用が出立したのである。
「廿日、御出城。未刻神奈川御殿にやどらせたまふ。」(「大猷院殿御實紀」)
6月20日、ついに家光が江戸を発った。この度の上洛は、総兵力30万7千人という空前絶後の規模である。
例えば、慶長8年(1603年)家康将軍宣下の上洛は5万人ほどであった。秀忠が、元和9年(1623年)に上洛した時でも17万人であったという。
徳川家の威信をかけた上洛とはいえ、30万余の兵力は異常である。宿場町だけでは兵士を宿泊させることができず、野営や近隣の農家を借りたという。
この軍事的示威行動は「もはや徳川家に対抗できる勢力はない」ことを朝廷以下、日本国内に知らしめたのである。
土井利勝は江戸を発つにあたり、江戸城留守居となった酒井忠世に挨拶に出向いた。
「いよいよ、でございますな。」と忠世が言うと、利勝は満足そうに頷いた。
「はい、これで向う百年、徳川家に歯向かうものはいないでしょう。」
利勝は秀忠薨去以来、家光政権の権威付けのため、様々の手を打った。加藤家を改易し、忠長を自害にまで追い込んだ。
忠世はその満足そうな顔を見て『やはり家康公に似ている。』と思う。本人は強く否定するであろうが、その横顔は瓜二つであった。
榊原忠次
