大僧正天海 (182)
「(寛永十一年)六月朔日仙台中納言政宗卿御さきに、上洛すとて首途す。
二日松平越前守忠宗御先にのぼる。
三日上杉弾正大弼定勝出立す。
四日佐竹修理大夫義隆発足す。
五日小石川邊に御馬にてならせらる。この日南部山城守重直出立す。
六日加藤式部少輔明成首途す。」(「大猷院殿御實紀」)
家光上洛の先陣を飾ったのは伊達政宗である。「独眼竜」と呼ばれた政宗もすでに68歳となった。健康には人一倍気を付けていた政宗であったが、この頃から、食欲不振と体調不良に悩まされていた。
家光は、この老将が殊の外お気に入りで、よく秀吉や家康の思い出や合戦の話をさせた。政宗は晩年に有名な漢詩を作っている。
「馬上少年過 世平白髪多
残躯天所赦 不楽是如何」(「酔余口号」)
戦場を馬で駆け抜けた若き日々はとうに過ぎ去り
泰平の世になって、この白髪は増えるばかりだ
老いたこの身を、天がまだ生かしてくれるなら
これを楽しまなくて、どうするというのか
二番手の伊達(松平)忠宗は、「守成の名君」と評された陸奥国仙台藩2代藩主である。何事も派手な父・政宗の影に隠れて、いささか地味ではあるが、藩政の基盤固めに務めて大いに功績を残した。
三番手は上杉定勝である。20歳で家督を継いだ定勝も32歳になった。
寛永3年(1626年)には、左近少将に転任したが、弾正大弼如元(弾正大弼を兼務)と記録されている。
弾正大弼とは従四位下相当で、律令の官職で主に「風紀監察」を司る役職である。今の官庁で言うと検察庁や会計監査院にあたり、役人の不正などを取り締っていた。長官を「弾正尹」、次官を「弾正大弼」という。
大幅減封となった上杉家の財政は、依然として厳しく、領内総検地を実施し、質素倹約、文武忠孝に徹した。また、果実栽培を奨励し、桃(福島)、柿(梁川)、林檎(館山)等が特産品となった。
「他家の風をまねすることなく、万事質素律儀作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に励むこと。」と定勝は命じている。
定勝の時代、米沢藩は表高(30万石)に対して50万石以上の実高があったという。この定勝の治世が、後の上杉鷹山による「藩政改革」の手本になったといわれる。
南部重直は陸奥国盛岡藩の第2代藩主である。重直も若く30歳である。寛永9年(1632年)に初代藩主利直が逝去し、家督を継いだばかりであった。
加藤明成は、陸奥国会津藩(40万石)の加藤嘉明の嫡男で、寛永8年(1631年)に家督を継いだ。この時、すでに43歳である。大坂冬の陣に父に代わり参戦し、大坂夏の陣では190の首級を取ったという。
かつて会津を統治していた蒲生氏郷は切支丹であったため、領内に多くの切支丹がいた。幕命を受けて、明成も厳しい切支丹弾圧を行っていて、多くの切支丹を処刑した。
明成は苛烈な性格で、領内統治は安定しなかった。後に「会津騒動」を引き起こすことになる。
伊達政宗
