今日は78回目の「原爆の日」。
1945年8月6日に広島に原爆が投下された日であり、8月9日の長崎への原爆投下とともに、後世にその悲惨さと核兵器廃絶の思いを伝えねばならないが、もうひとつ後世に語り継がねばならないのが「本土決戦」「一億玉砕」の一歩手前、日本存続の危機までにまで陥った愚かな歴史です。
- 大平洋戦争終盤では「本土決戦」「一億玉砕」という事が言われ、日本は二度の原爆投下を受け、さらにポツダム宣言を受諾してもなお、陸軍は強硬に戦争を継続しようとしました。
- 1945年8月9日深夜からの御前会議において、昭和天皇はポツダム宣言受諾の意志を表明し、10日の閣議において宣言受諾を正式決定。
- しかしポツダム宣言受諾が決まってもなお徹底抗戦しようと、陸軍将校たちは時の総理・鈴木貫太郎暗殺を企て、また別動隊は皇居を襲い、日本最後のクーデター「宮城事件(玉音盤事件)」を起こしました。
この愚かしい歴史はあまり語られないが、本土決戦・一億玉砕を目指した将校たちも彼らなりの愛国心・正義感に基づいて行動したのであろう。
しかし何と愚かしい愛国心か・・・・・。
彼らは誰のために本土決戦をしようとしたのか?
誰を守るために一億玉砕をしようとしたのか?
国体護持(この場合は天皇制維持)は国民の命、家族や友人知己、大切な人の命を犠牲にしてまで守るべきものなのか?
国とは何か?・・・・欧米では人権は神によって等しく与えられ、それらを守るために国が作られるとされるが、日本人にとって国とは何か?、人権とはなにか?、
国は国民のためにあるのかそれとも国民は国のためにあるのか?
戦争を知る人の多くは鬼籍に入り、戦後っ子も今や70台。
歴史は忘れ去られて行くが、決して風化させたり美化したりしてはいけないと思う。
1945年7月17日から8月2日 、ベルリン郊外の ポツダム において、米(トルーマン大統領)英(チャーチル首相)ソ(共産党書記長)3カ国首脳により第二次大戦後の戦後処理 について話し合われたポツダム会談が行われました。
ポツダム宣言とは、その期間中の7月26日に米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石主席の共同声明として発表された降伏勧告文書である。
7月26日「ポツダム宣言」を受け最高戦争指導会議(首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍指令部総長)では「拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」とする外務大臣と「徹底抗戦」を主張する陸海軍が対立。
ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された。
- 7月27日:政府は宣言の存在を論評なしに公表した。
- 7月28日:新聞各紙は「笑止、対日降伏条件」「自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」等の強気の戦意高揚報道。
陸軍からは政府が宣言を無視することを公式に表明するべきであるという強硬な要求が行われ、首相鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」と表明。
蛇足だがトルーマンは日本がポツダム宣言を受諾しないと確信し、原爆投下を決めていたという。
また捻くれて考えると長崎に投下されたファットマンこそが米国の本命であったが、技術的に難しいインプロ―ジョン方式のファットマンは必ず爆発する確信が無く、技術的に容易で確実に作動するリトルボーイが先に投下されたとも考えられる。
1945年8月6日午前8時15分、ウラン型(ガンバレル型)原子爆弾「リトルボーイ」が広島市に投下されたました。
この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされます。
また原爆投下後に市内に入った事による被爆者も含め、56万人が被爆したとされます。
1945年8月9日午前11:02、プルトニウム型(爆縮型:インプロ―ジョン方式)原子爆弾「ファットマン」が長崎市に投下されました。
これにより長崎市の24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。
原爆によって戦争の終結が早まったのは事実かもしれない。
しかしだからと言って原爆投下を正当化することはできない。
それを言えばソ連の対日参戦も残虐な戦争犯罪もみな正当化されてしまう。
一方で日本政府、特に軍部が国民の命よりも国体護持を大事としていたことも、強く非難されねばならない。
8月9日未明ソ連対日参戦。
日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始、ポツダム宣言に参加した。
同日、ポツダム宣言受諾をめぐり本土決戦を主張する阿南惟幾(あなみこれちか)陸相や陸海軍統帥部と受諾を求める東郷茂徳外相、米内(よない)光政海相らは対立し、閣議は深夜まで紛糾しました。
8月9日深夜からの御前会議において、昭和天皇はポツダム宣言受諾の意志を表明し、10日の閣議において宣言受諾を正式決定。
その御前会議が行われたのがここです。
しかし、この後も軍部は強硬に徹底抗戦の主張を続け、「本土決戦」「一億玉砕」の危機は続きます。
- 8月14日の御前会議において終戦の詔勅(天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書)が発せられました。
- しかし陸軍は納得せず、14日夜から15日未明にかけて首相官邸を襲い鈴木貫太郎首相を暗殺しようとし、別動隊は玉音盤(天皇陛下の終戦放送盤)奪取を企て、そして15日未明宮城を襲い、日本最後のクーデター‟玉音盤事件(宮城事件)”を起こします。
- この時宮城を守る森たけし近衛師団長は反乱軍に加わるようにとの誘いを断り殺害されます。
8月14日の御前会議において終戦の詔勅(天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書)が発せられました。
しかし陸軍は納得せず、畑中少佐ら6人の陸軍将校を中心として、ポツダム宣言を拒否し戦争を継続しようとしました。
- 同日夜から15日未明にかけて首相官邸と私邸を襲い、鈴木貫太郎首相を暗殺しようとしました。
- 別動隊は玉音盤(天皇陛下の終戦放送盤)奪取を企てました。
- そして15日未明宮城を襲い、日本最後のクーデター‟宮城事件”を起こします。
この時宮城を守る森たけし近衛師団長は反乱軍に加わるようにとの誘いを断り殺害されます。
8月15日午前0時過ぎ
- 陸軍将校らにより 玉音放送の録音 を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏祇情報局総裁及び放送協会職員など数名が拘束、監禁される。しかし彼らは玉音盤を持っていなかったため、宮内庁に押し入るが玉音盤は発見されない。
- 森赳(たけし)近衛師団長らは蜂起に加わるようにと言う説得に応じず殺害される。
官邸の阿南陸軍大臣の元には、畑中と志を同じくする竹下中佐が訪れ、一晩中賛同を求めた。
8月15日午前4時30分頃
- 首相官邸は徹底抗戦を叫ぶ佐々木大尉率いる20数名の部隊に襲われる。
- 官邸に首相が不在だと知ると丸山町の私邸へ向かったが、鈴木は警護官に間一髪救い出された。
8月15日未明、森赳(たけし)近衛師団長の死を知った阿南は切腹をする。
8月15日早朝、東部軍と田中大将自らが皇居に乗り込み、鎮圧される。
8月15日午前11時20分、主犯の二人が自決する。
8月15日午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。
8月15日正午過ぎ
- ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が行われ、戦争は終結。
- 但し本当の終結は9月2日東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治朗及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。
歴史を知る人が減るにつれ、社会は勇ましい声に扇動されやすくなり、大事な事が見失われてゆきやすくなります。
どうか歴史を風化させずいつまでも受け継いで欲しいと思います。