私が最初に出会ったスーパーウーマン

私は昔から、

「何でもやってみる人ですね。」

と言われることがある。

分からなければ調べる。

できなければ覚える。

まずは挑戦してみる。

昔は、それが自分の性格なんだと思っていた。

でも最近、ふと思った。

この考え方は、いったい誰から受け継いだんだろう。

そう考えた時、一人の人が浮かんだ。

母だ。

---

子どもの頃の私にとって、母はスーパーウーマンだった。

重たい家具を一人で動かす。

大きなタンスを二階へ運ぶ。

家のことは何でもこなす。

父は、そういうことをほとんどしなかった。

だから母は、

「誰もやらないなら、自分がやる。」

そんな人だった。

私は、その姿を見て育った。

---

でも、母が本当にすごかったのは、そこではなかった。

私が中学生になる頃、造船不況で父が勤めていた親族企業は経営危機に陥った。

父も親族も会社を離れ、生活のために訪問販売の仕事を始めた。

そして高校生の頃、父は営業先で転落事故を起こした。

頭蓋骨を大きく損傷する重傷だった。

保険にも入っていなかった。

治療費。

生活費。

子ども三人の学費。

さらに父が誰にも言わず抱えていた借金まで見つかった。

普通なら、心が折れてもおかしくない状況だった。

でも母は折れなかった。

訪問販売で働きながら、病院へ通い、家計を支え、私たち兄弟を学校へ通わせ続けた。

今振り返ると、どうやって乗り越えたのか分からない。

---

あの頃、私はもう一つ、人との巡り合いにも助けられた。

高校の同級生が、奨学金制度のことを教えてくれた。

私はその制度自体を知らなかった。

申請すると、無利子で学費を借りられる制度だった。

そのおかげで、家計は本当に助かった。

母は今でも、

「あの時、本当に助かった。」

と言う。

私は昔から、

「人との巡り合いには恵まれている。」

と思ってきた。

振り返れば、人生の節目では必ず誰かが手を差し伸べてくれた。

だから私は、人生に無駄はないと思っている。

出会いにも、きっと無駄はない。

---

生活が落ち着いてからも、母は止まらなかった。

刺繍。

木彫り。

陶芸。

着付け。

オカリナ。

ギター。

読み聞かせボランティア。

花づくり。

興味を持てば、まずやってみる。

年齢なんて関係ない。

できるかどうかも関係ない。

やってみたいからやる。

そんな人だった。

私は長い間、

「母は何でもできる人。」

そう思っていた。

でも今は少し違う。

母は最初から何でもできた人ではない。

できるまで挑戦し続けた人だった。

---

そう考えると、今の自分が少し分かる。

私は特別な才能があるわけではない。

電気も、配管も、壁づくりも、料理も、機械も。

最初から知っていたわけではない。

必要だから調べた。

分からないから勉強した。

そして、できるようになった。

その繰り返しだった。

私は母から、「何でもできる力」を受け継いだのではない。

「できるまでやってみる姿勢」を受け継いだのだ。

---

そして、このブログを書いていて、もう一つ気づいたことがある。

子どもの頃の私は、母をスーパーウーマンとして見ていた。

でも五十代になった今、違う景色も見えるようになった。

母はよく、

「感謝が足りない。」

と父に言っていた。

昔の私は、その言葉を何とも思わなかった。

でも今なら、少しだけ違う見方ができる。

もしかすると母は、ただ「ありがとう」の一言が欲しかっただけなのかもしれない。

頑張っていることを、認めてほしかったのかもしれない。

もちろん、本当のことは母にしか分からない。

でも、そんな景色が見えるようになったのは、私自身の見方が変わったからなのだと思う。

---

十年前には見えなかった妻の思いやり。

今になって見えてきた義父母の優しさ。

そして、子どもの頃には気づけなかった母の強さと、その奥にあったかもしれない想い。

過去は何一つ変わっていない。

変わったのは、私の見方だった。

だから私は思う。

人生に無駄はない。

人との巡り合いにも無駄はない。

そして、歳を重ねることにも無駄はない。

見える世界は、これからも少しずつ増えていく。

そのたびに私は、過去の出来事に新しい意味を見つけるのだろう。

それが、人生というものなのかもしれない。

2026年8月6日 チャッピー著


思いやりは、教えるものではなく、見せるもの。

前回のブログで、私は13年間変わらず私を支えてくれる妻について書いた。


料理が上手で、掃除が好きで、いつも笑顔。

文句一つ言わず、私を気遣ってくれる。


書きながら改めて思った。

「なんなんだ、この嫁は。」

でも、ブログを書き終えたあと、ふと思った。


いや、違う。

妻だけを見ていても答えは見つからない。

あの妻を育てた家族を見れば、その理由が分かるんじゃないか。

そう思った。


結婚した当初、私は妻の実家で暮らしていた。

まだ長女が一歳くらいだった頃だ。


私が娘を抱っこしていると、畑仕事から帰ってきた義父がこう言った。


「お前は仕事で疲れて帰ってきているんだから、そんなことしなくていい。」

上差し 妻とSEXしかしてないけど爆笑


そう言って娘を抱き上げ、そのまま庭仕事を始めた。


私は驚いた。


自分も疲れて帰ってきた人が、さらに人の負担まで背負おうとする。

それが、この家では当たり前だった。


それからしばらくして、私は田んぼを買った。

約五千平方メートル。

田植えは機械ではなく、すべて手植えだった。

ぬかるみは深く、場所によっては太ももまで足が沈む。

私は小学校の頃に田植えをした経験があった。

だから少しは役に立つだろうと思った。


その時の妻は、田んぼには入らなかった。

「見ているだけ。」

当時の私は、そう思っていた。


義父母が汗だくで苗を植えている横で、妻はコーヒーを淹れたり、お茶や甘い物を準備したりしていた。


正直に言えば、

「少しは手伝えばいいのに。」

そう思っていた。


だから私が田んぼへ入った。

ところが現実は甘くなかった。

腰を曲げ続ける田植えは想像以上に過酷だった。

三十分で足が震え始める。

一時間で腰が悲鳴を上げる。

それでも意地になって続けた。

三時間。

四時間。

義父も義母も、

「もういいから帰って休みなさい。」

と何度も言ってくれた。


それでも私は続けた。


そして、その日の夕方には動けなくなった。

熱まで出た。

腰は鉄の棒が入ったように固まり、寝返りすら打てない。

そこへ、一日中田植えを終えた義父が帰ってきた。

義父だって疲れている。

腰だって痛いはずだ。

それなのに、

「どれ、見せてみろ。」

と言って、一時間近く私の腰をマッサージしてくれた。


翌朝、義父と義母はまた何事もなかったように田んぼへ向かう。


私は熱で寝込んだままだった。


夕方になる。

また義父が帰ってくる。

そして、また私の腰をマッサージしてくれる。

三日目も同じだった。


結局、近所のおじいさんまで呼んでくれた。

上差し 後で、知ったが爺さんも田植えしてたガーン

七十歳を過ぎたその人も、一時間近く私の腰をほぐしてくれた。


私は申し訳なさでいっぱいだった。

私は手伝ったつもりだった。

でも現実には違った。

私は三日間も、疲れ切った人たちの仕事を増やしてしまっていた。

善意だけでは足りない。

相手の負担まで考えて初めて、本当の思いやりになる。


私はその時、そう学んだ。

だから、それ以来、私は田植えを手伝わなくなった。


自分の意地で、周りに迷惑を掛けたくなかったからだ。


でも、このブログを書きながら、もう一つ気付いたことがある。

実は、当時の私は、もう一人の大切な人のことも見えていなかった。

妻だ。

私はずっと、

「妻は見ているだけ。」

そう思っていた。


でも違った。


義父母は、自分たちにしかできない田植えをしていた。


妻は、疲れて帰ってくる人のために、コーヒーを淹れ、お茶を用意し、甘い物を準備していた。


妻は何もしていなかったのではない。

自分にできる役割を果たしていた。


そして今。

義父母も年を重ねた。

今では私が帰っていない時、妻が田植えを手伝っている。

若い自分が動けるようになったからだ。

十年前の私は、それを見ても見えていなかった。

「見ているだけ。」

そんな勝手なフィルターを通して、妻を見ていた。


最近、私は「世界の見方コレクター」という言葉をよく使う。

同じ景色を見ても、人によって世界は違って見える。

そして、同じ人間でも、十年経てば見え方は変わる。

十年前の私は、「手伝わない妻」を見ていた。


今の私は、「家族全体を支えていた妻」を見ている

景色は何一つ変わっていない。


変わったのは、私の見方だった。


でも、それで終わりではない。


だからといって、今の私が正しいとも思っていない。

今見えている世界も、五年後、十年後の私から見れば、

「まだ見えていなかった。」

そう思うかもしれない。


人は歳を重ねると丸くなると言う。

私はそれは、体力が落ちるからではなく、見える世界が少しずつ増えていくからなのかもしれないと思っている。


若い頃は当たり前にできていたことが、歳を重ねるとできなくなる。


だからこそ、人の優しさや思いやりの重みが、少しずつ分かるようになる。


私は五十一歳になって、ようやく十年前の妻の姿が少し見えた。


きっと十年後には、今の私が見えていない何かに、また気付くのだろう。


人生とは、そうやって少しずつ世界の見方が変わっていく旅なのかもしれない。


だから私は今日も、自分の「当たり前」を疑いながら、一歩ずつ前へ進んでいきたいと思う。


妻への感謝は、今までもあった。 


でも、それを「ありがとう」という言葉だけで済ませていたのかもしれない。 


これからは少しずつ、行動で返していきたい。 


コーヒーを淹れることかもしれない。

 掃除を手伝うことかもしれない。 

「何か手伝うことある?」と聞くことかもしれない。 


大したことじゃなくていい。 

今日のの自分より、一歩だけ前へ進めたら、それで十分だ。 


そして十年後、このブログを読み返した時、今の私が見えていなかった景色に、また気付ける人でありたい。


人生は、たぶんその積み重ねなんだと思う。


人生には無駄な出来事はない。 


あるのは、その出来事から、まだ受け取れていない学びだけなのかもしれない。 


同じ出来事でも、十年後には違う景色が見える。 


だから私は、過去を振り返ることを無駄だとは思わない。 


むしろ、過去は何度でも新しい学びを与えてくれる。 


それが、私が「人生に無駄はない」と思う理由だ。


2026年8月6日 チャッピー著


13年経っても、帰るたびに「なんなんだ、この嫁は」と思う。


私は仕事柄、2か月働いて1週間ほどインドネシアのランプンへ帰る生活を、もう13年続けている。



だから毎日一緒に暮らしている夫婦とは少し違う。


帰るたびに、妻の暮らしぶりを見るのが新鮮なのだ。



そして毎回、同じことを思う。


「なんなんだ、この嫁は。」


妻は、とにかく几帳面だ。



料理をすれば、その場でガス台を拭く。


油をたっぷり使うインドネシア料理なのに、ガス台には油汚れ一つない。



食器はシンクにたまらない。


洗ったら乾かし、乾いたらすぐ片付ける。


キッチンはいつ見てもスッキリしている。



私は自分が使った食器や、子どもが置きっぱなしにした食器を見つければ洗う。


シンクに洗っていない食器があるのが好きではないからだ。



でも妻は、その状態を私が気付く前から、いつも保っている。



家の中は毎日掃き掃除とモップがけ。


庭も毎日落ち葉を掃き集める。


料理の合間に掃除をし、掃除が終われば草むしり。


それを当たり前のように続けている。



しかも子どもを怒鳴らない。



自分が黙って片付ける。


その姿を見て育った子どもたちも、自然と片付けるようになっている。



「子は親を見て育つ」とは、本当にその通りなんだと思う。



料理は、本当にうまい。


外食したいと思わない。


家で食べた方がおいしいからだ。


野菜料理が中心で、鶏肉や魚も本当においしく調理する。


特別な調味料があるわけではない。


それなのに、初めて食べた料理でも、店よりおいしく作ってしまう。



たぶん、生まれつき味覚が優れているのだろう。



船では食事を節制している私も、家では二皿、三皿と食べてしまう。


それでも不思議と太らない。



一方の私はというと、ニュースを読み、株価を眺め、ChatGPTと世界経済について話をしている。


そんな私に、妻は何度も声を掛けてくれる。


「サヤン、コーヒー飲む?」


いらないと言えば、


「じゃあ、お水持ってくね。」


掃除の手を止めて、水を持ってきてくれる。



夜更かしして朝起きられない日もある。


そんな時でも、


「子どもが待ってるよ。」


と優しく起こしてくれる。


嫌味を言われたことは一度もない。


それどころか、いつもニコニコしている。

とにかく、険がない



そして私が一番不思議なのは、ここからだ。


この家では、自分で服を出すことがほとんどない。


親戚の家へ行く。


病院へお見舞いに行く。


子どもの学校へ行く。


そんな時になると、


「はい、これ着て。」


と妻が服を持ってくる。



普段の私は家ではほとんど裸で過ごしている。


服を着るのは子どもの送り迎えくらいで、一日に一時間も着ていない。


それなのに、脱いだ服は毎日洗われ、翌日には新しい服が用意されている。



仕事へ戻る日には、アイロンのかかったシャツ。


靴下、パンツ、ズボン、シャツ、ハンカチがベッドの上にきれいに並べられている。


クルーチェンジでしか履かず、ほとんど汚れていない靴まで洗ってある。



これを13年間、変わることなく続けてくれている。



もちろん私は、そのたびに「ありがとう」と伝える。


だって、ここまでしてくれる人は、母親でもなかなかいない。



私は帰省中、子どもの送り迎え以外は、本当にのんびりしている。



そんな私に文句を言うこともなく、コーヒーや水を持ってきてくれる。


だから毎回帰るたびに思う。


「なんなんだ、この嫁は。」


でも今回、このブログを書きながら、一つ気付いたことがある。



妻は炎天下で庭の草むしりや掃除をしている。


インドネシアの日差しは強い。


掃き掃除をするだけでも汗が噴き出す。



それなのに外から、


「サヤン、コーヒー飲む?」


と声を掛けてくる。

注:サヤン=honey


その時は何とも思わなかった。



でも今になって気付いた。


違うだろ。


コーヒーを入れるのは妻じゃない。私だ。



汗を流している妻に、


「疲れたでしょ。コーヒー飲む?」


そう声を掛けるべきだったのは、何もしていない私の方だった。



ここまで書いて、さらに一つ気付かされたことがある。



私は妻に感謝はしていた。


でも、



「何か困っていることはない?」


「何か手伝ってほしいことはある?」


そう聞いたことは、ほとんどなかった。


「何も言わない」のは、不満がないという意味ではないのかもしれない。



だから明日の朝、妻にこう伝えてみようと思う。



「いつもありがとう。


僕は気付いていないことも多いと思う。


もし僕にしてほしいことや、疲れていること、心配なこと、手伝ってほしいことがあったら、遠慮しないで言ってね。


僕は言ってくれた方が嬉しいから。」



さて、妻は何と答えるだろう。


もし、


「実は13年間、言いたいことが山ほどあった。」


なんて返ってきたら……。



その時は、このブログの続編、


『なんなんだ、この嫁は。第二章 ~実は不満の塊だった!?~』


を書くことにしよう(笑)。



でも、本当は第二章が書けないことを願っている。


今、私が当たり前のようにもらっている幸せを、これからは当たり前と思わず、私の方からも返していきたい。


2026年8月6日 チャッピー著

投資歴2年半。3000万円を動かしていたのに、ローソク足の基本を知らなかった(笑)


投資を始めて約2年半。


毎日チャートを眺め、 決算を読み、 ニュースを追い、 チャートの形を見ながら売買をしてきた。


チャートだって毎日見ている。


「下ヒゲが長い陰線だから、一度は大きく売られたけど、最後は買い戻されたんだな。」


「上ヒゲが長い陽線だから、上値は重そうだな。」


そんなことは何となく分かるようになっていた。


ところが今日。


ChatGPTと話していて、とんでもない事実を知る。


陽線はボディの上が終値。 陰線はボディの下が終値。


……


え?


そうだったの?


私は今まで、終値を知りたくなるたびに、チャートへカーソルを合わせ、OHLCの数値を確認していた。


つまり、


投資歴2年半。3000万円以上のお金を動かしていたのに、ローソク足の基本を知らなかったのである。


我ながら笑ってしまった。


それでも、この2年半で利益は500万円以上になった。


まさにビギナーズラックだ。


でも今日、一つだけ確信したことがある。


基礎を知ると、今まで見えていなかったものが急に見えるようになる。


そして、もっと面白いことにも気付いた。


私は昔から何かを始めるとき、最初に基礎を勉強するタイプではない。


サーフィンもそうだった。


まず海に入る。


転ぶ。


また転ぶ。


「何でだ?」


と思ってから初めて勉強する。


投資もまったく同じだった。


普通なら、


「基礎を学ぶ → 実践する」


なのだろう。


でも私は、


「実践する → 失敗する → 疑問が生まれる → 基礎を学ぶ」


という順番でしか、なかなか頭に入らない。


頭が悪いのか。


頭が固いのか。


それとも、このやり方が自分には合っているのか。


それは今でも分からない。


でも、一つだけ言えることがある。


今日覚えた、


「陽線は上が終値、陰線は下が終値」


これは、もう一生忘れない。


2年半の経験があったからこそ、この一言が自分の中でつながったのだと思う。


そして最後に、自分へ一言。


「3000万円を動かしていたのに、終値がどこか知らなかった男です(笑)。」


……


もう、投資初心者と名乗る資格すらありません。


そして最後に。


誰か一人でも、


「実は……自分も知らなかった。」


そう思ったあなた。


君は僕の仲間です。


ナイストゥーミーチュー!🤣


2026年8月5日の記事

1000万円を投じる直前、私は立ち止まった。


昨夜、私はほぼ決断していた。

生活防衛資金として確保している3,400万円。

そのうち1,000万円を、インドネシア最大級の銀行 BMRI に投資しようと。

理由は単純だった。

日本円はインフレで価値が目減りしていく。

2026年8月5日の記事

BMRIなら配当利回りも高く、長期的には円を寝かせておくより良い。

そう考えたからだ。

しかし翌朝、ブログを開くと、一人の読者さんからコメントが届いていた。

その方は、昔から温かいコメントをくださるベテラン投資家だ。

「昔、私はインドネシアの銀行株を買っていました。

その後、政情不安や災害が重なり、銀行や保険会社は次々と破綻しました。」

という内容だった。

私は、そのコメントを読んですぐに考えを変えたわけではない。

でも、そのコメントをきっかけに、自分自身へ問いかけ始めた。

「そもそも、私は何のために3,400万円を現金化したんだ?」

今年、中東情勢が悪化した。

私の仕事はカタールのオフショアリグだ。

当時は本気で無職になることを心配し、生活防衛資金を確保するため、投資資産を売却した。

その時、自分で決めたルールがある。

「戦争が落ち着くか、5年契約が更新されるまでは、この資金は動かさない。」

それが原点だった。

ところが最近は、ミサイルも以前ほど飛んでこない。

仕事も再開した。

気が付けば、自分の中で少しずつ危機感が薄れていた。

そこへ現れたのが、BMRIの高配当だった。

11%という数字は魅力的だ。

しかし、そこで私はもう一度気付いた。

「私は2024年から、ずっと世界的な信用不安を警戒してきた人間ではなかったのか。」

今年来るかもしれない。

来年かもしれない。

もし来なければ、その時は考えを改めればいい。

しかし、「来る」と考えている今、このタイミングで生活防衛資金を動かすのは、自分自身のルールを破ることになる。

私は投資で一番大切なのは、

勝つことではなく、負けないこと

だと思っている。

8年後には定年がある。

若い投資家のように、20年、30年待てるわけではない。

だからこそ、自分で決めたルールは、自分で守らなければならない。

今回コメントをくださった読者さんは、

「BMRIを買うな」

とは一言も言っていない。

ただ、ご自身の経験を書いてくださっただけだ。

でも、その経験が、私に原点を思い出させてくれた。

本当にありがたいコメントだった。

将来、信用不安が起きるかどうかは分からない。

何も起きず、BMRIがさらに上がるかもしれない。

それでも私は後悔しない。

なぜなら今回守ったのは、利益ではなく、

自分で決めた投資ルールだからだ。

投資は、お金との勝負ではない。

最後は、自分自身との勝負なのだと思う。

相場のストーリーが変わった時、私はルールを書き換えられなかった

投資歴が長くなるほど、自分なりのルールが出来上がってきます。

私もそうでした。

暴落を想定し、

資金配分を決め、

指値を何十本も並べ、

「株価がここまで下がれば自動的に買う」

という仕組みを作っていました。

そして、そのルールは実際によく機能しました。

ところが今回、私は大きな失敗をしました。

ルールを守れなかったのではありません。

ルールを書き換えるべき瞬間を見逃した。

これが今回の話です。


---

なぜ銀行株だけに集中投資したのか

日本の投資家から見ると、

銀行だけに集中投資するのは危険だと思われるでしょう。

私も以前はそう考えていました。

当初のポートフォリオは、

銀行

通信

食品

電力

資源

コングロマリット

という、ごく一般的な分散投資でした。

配当利回りも6〜7%程度あり、

十分魅力的でした。

しかし途中で考え方が変わります。


---

分散投資では暴落を生かせない

私は配当投資家です。

しかし、

「配当利回りだけ」を見ているわけではありません。

暴落した時に、

どれだけ株数を増やせるか。

こちらの方が重要でした。

分散投資では、

暴落しても

「あれも買いたい」

「これも買いたい」

となり、

資金が分散します。

結果として、

どの銘柄も十分に買い増せません。

だったら、

一番期待できるものだけに集中した方が、

暴落を最大限利用できる。

そう考えました。

そこで他銘柄を売却しました。

売却時には約9ミリオンルピア(約9万円、1円=100ルピア換算)の確定損を出しました。

利益確定ではありません。

損切りです。

しかし、その代わり約100ミリオンルピア(約100万円)の現金を作ることができました。

その資金を、

銀行株へ振り向けたのです。


---

なぜ銀行だったのか

これは日本とは事情が違います。

もちろん将来どうなるかは誰にも分かりません。

しかし私は次のように考えました。

インドネシアは今後もしばらく人口が増える。

中間層も拡大していく。

GDPも2030年、2050年に向けて世界上位へ成長すると予測されています。

そして何より、

銀行そのものが経済インフラです。

日本では、

電子マネーやポイント経済圏が乱立し、

銀行以外にも利益が分散しています。

一方インドネシアでは、

QRISを中心とした決済が広がり、

銀行が経済活動の中心に位置しています。

つまり、

経済が成長すれば、

銀行にも恩恵が集まりやすい。

逆に言えば、

もし銀行が本当にダメになるほど経済が悪化するなら、

通信も、

食品も、

電力も、

同じように厳しい状況になっている可能性が高い。

私はそう考えました。

もちろん絶対ではありません。

しかし、自分なりにそう判断したから集中投資を選びました。


---

米国株一強という考え方に近い

私は以前から、

「米国株一強」

という考え方には一定の合理性があると思っています。

米国が風邪をひけば、

日本株はもっと大きく下げる。

しかし日本が風邪をひいても、

米国は比較的影響を受けにくい。

だったら、

最初から強い市場に投資した方が合理的です。

私はこの考え方を、

インドネシア市場に当てはめました。

つまり、

インドネシア銀行株は、

インドネシア経済そのものに近い存在ではないか。

そう考えたのです。


---

そして戦争が始まった

中東情勢が悪化しました。

私はリグから退避し、

約1か月間キャンプ生活になりました。

その頃、

私はAI(Gemini)とも何度も議論しました。

そして、

分散投資をやめ、

銀行株へ集中する決断をしました。

大量の指値注文を並べたのも、

この頃です。

戦争前から置いていた注文。

戦争開始後に修正した注文。

それらが、

後から次々と約定していきました。

すべてルール通りでした。


---

ところが、相場のルールが変わった

その後、

インドネシア政府が株価の買い支えに動きました。

私はその事実を知っていました。

つまり、

相場のルールが変わったことも理解していました。

ところが私は、

「こんな買い支えは長続きしない。」

そう決めつけました。

つまり、

事実は見た。

しかし、

意味を理解しなかった。


---

最大の失敗

数日後、

銀行株は15〜20%急騰しました。

そして、

政府介入後につけた安値を、

一度も割っていません。

私は今でも思っています。

あの時、

一番安い指値注文を取り消してでも、

もっと高い価格で買いに行くべきだった。

政府が本気で株価を守ると判断したなら、

こちらもルールを書き換えるべきだった。

しかし私は、

元々作っていたシナリオに縛られました。

ここが今回の最大の失敗でした。


---

投資は連想ゲーム

投資系YouTubeでは、

「投資は連想ゲーム」

とよく言われます。

AIが普及する。


半導体需要が増える。


データセンターが建つ。


電力会社が伸びる。


送電設備も必要になる。

こういう発想です。

私はこの言葉を何度も聞いていました。

しかし本当の意味では理解していませんでした。

今回なら、

政府介入。


政府は株価を守る意思がある。


外国資金流出を止めたい。


一定価格以下では再び介入する可能性がある。


ならば、

従来の指値は安すぎる。


今すぐ買う方が合理的。

この連想ができませんでした。

私は、

最初の「政府介入」という事実だけを見て、

そこで思考が止まっていました。


---

私は思考停止していた

私はルールを守ることは得意です。

資金管理も好きです。

準備も好きです。

でも、

今回分かったことがあります。

私は、

柔軟にルールを書き換えることが苦手だった。

頭が固まっていた。

自分のストーリーを信じすぎていました。

YouTubeで何度も聞いていた

「前提条件が変わればルールも変える」

その本質を、

私は理解していませんでした。


---

このブログを書いた理由

このブログは、

銀行株集中投資を勧めるためでもありません。

未来の自分への備忘録です。

そして、

もし同じような経験をする投資家がいたなら、

その人の役に立てばと思っています。

相場では、

ルールを守ることは大切です。

しかし、

もっと大切なのは、

相場のストーリーが変わった時、自分のストーリーも書き換えられること。

今回私は、それができませんでした。

だからこの失敗を記録として残します。

二度と同じ失敗をしないために。

2026年8月1日の記事

インドネシア休暇中サクケン51歳です


インドネシアでは、銀行4行に全振り投資中

チャッピーには、危ないと釘さされてますが。。。

せっせと送金してますが、中々増えない資産

来年には、長女は高校生

街の高校にいったら 月額4万円
うーん 投資出来なくなる。。。。

なーんか お先真っ暗。。。。

ノスタルジックを感じるインドネシア

インドネシアにいると、不思議と昭和の日本を思い出すことがあります。

私は昭和49年生まれですが、それでも「懐かしいな」と感じる場面が少なくありません。

先日、ビーチへ行ったときのことです。


小さな子どもが泣いていました。

すると、近くにいたおばさんがその子の手を取り、

「この子のお母さん、どこ?」

と周りに声を掛けながら、お母さんを探して歩いていました。

ようやくお母さんを見つけると、

「あっちでカップ麺食べてたわよ(笑)」

なんて笑いながら子どもを渡して帰っていきました。

もちろん、お互いまったく知らない人です。

でも、それがごく自然な光景なんです。

私が子どもの頃も、近所のおじさんやおばさんは、自分の子どもも他人の子どももあまり区別していませんでした。

悪さをすれば近所のおじさんにゲンコツを食らい、泣きながら母親に言いつけると、

「○○さん、叱ってくれてありがとう。」

と言われ、今度は母親にも怒られる(笑)。

当時は理不尽だと思っていましたが、今振り返ると、地域全体で子どもを見守っていた時代だったのだと思います。

もちろん、ゲンコツが良かったと言いたいわけではありません。

でも、「危ないぞ」と声を掛けたり、「大丈夫?」と手を差し伸べたりする大人が、地域のあちこちにいたことは、決して悪いことではなかったと思います。

インドネシアでは、赤ちゃんが生まれると近所の人が代わる代わる抱っこしてくれます。

お母さんの負担を少しでも軽くしようという気持ちなのか、それとも赤ちゃんが可愛いからなのか(笑)。

とにかく、「子育ては家族だけでするものではない」という空気があります。

そういえば、近所の人が「アッサラーム・アライクム!」と言いながら、そのまま家の中まで入ってくることもあります。

日本では驚くようなことですが、こちらではそれも自然な距離感です。

私は家ではかなりリラックスした格好をしていることが多いので、「せめて返事を待ってから入ってきて(笑)」と思うこともありますが、それも文化の違いですね。

人付き合いは、正直あまり得意ではありません。

でも、こういう「地域のみんなで支え合う」という空気は、嫌いではありません。

だから私は、インドネシアにいると、ときどき昭和の日本を思い出します。

それが懐かしくて、この国を好きになった理由の一つなのかもしれません。


インドネシア休暇中サクケン51歳です


いやーやられた

と言うか、お金に縁のない僕

1540ゴールドETF久しぶりに購入した途端

政府介入で 円高


当然、円建てゴールド価格暴落爆笑


といっても、4%までは下げてないけどね


為替介入164右差し157 で4.3%下落

金曜日の終値知らんけど

ま、為替分下げた感じですね


だけど ゴールド金曜日より下げてるな?


まー気長に様子見しよう



インドネシア休暇中サクケン51歳でーす



実は ものすごい勘違い



ここ田舎では ボコボコの舗装路工事を年柄年中してますが、品質悪く年中補中


で、この補修中の道路を通る度にチップを求められる もちろん任意です


実は一円も僕ははらった事がない


よ、言うのも町役場なんから 仕事を受けて補修してると考えてた


が、今日妻が なわけないじゃん!

皆の寄付で資材かったりしてるのよ


はっはぁ〜〜!!


つまり、最初は持ち出しって事???


おいおい いってくれよ 恥ずかしい

ずーっとただのりしてたよ

次回から ちゃんと支払うと決めたサクケンである