丸紅で一緒にラグビーをしていた同期入社のMが亡くなった。彼とはなぜかウマが合った。あれは夏合宿に向かう道中のことか、はたまたラグビー部で海水浴に行ったときのことか、私はMの愛車、カローラレビンの助手席に乗り、Mの運転で高速道路を目的地に向かって走っていた。当時はエアコン付の車は未だ珍しく、我々は窓全開で「暑いなぁ」とボヤきながら走っていた。

(goo.netさんから借りました)

その時、先輩の運転するセダンが隣の追い越し車線に来て並んだ。見れば、窓が閉まっているのに、乗っている4人は快適そうだ。どうやらエアコン付の車のようだ。助手席の先輩が何か話し掛けて来たようだが、窓が閉まっているから聞こえない。しかし、我々には「エアコンが付いていないと暑いだろう。気の毒に。」と言って走り去ったように思えた。

Mは「閉めるぞ!」と言うなり窓を閉め、私にも窓を閉めろと言ってベンチレーターをフル回転にしたが、こんなもので涼しくなる訳がない。車内は瞬く間にサウナ状態になって我々は汗だくになったが、Mは「先輩を追うぞ」とスピードを上げて追い付くと並走し、私に「笑って手を振れ」と命じた。言われた通り、窓の内側から手を振って笑いかけたが、汗が額から流れ落ちてくる。「アカン、もう限界や、追い越せ!」とMに頼んだ。

先輩の車から離れたところで窓を開け、しばらく風に吹かれて汗が引くのを待った。
「お前、アホちゃう?」
「止めないお前もバカだよね」
「お前に彼女がいない理由が分かったよ」
「そう言うお前もいないじゃん」
「せやな、ハハハ・・・」
「だろ? ハハハ・・・」

Mが亡くなったと聞き、最初に頭に浮かんだのがこの思い出だから、Mがそれを知ったら、「あのさ、俺の華麗なステップとかトライとか、そういうのを思い出せよ」と怒るだろう。でも、仕方ない。M、ごめんね。僕はこの経験を生かし、僕が亡くなった時にはもうちょっと良いことを思い出してもらえるよう、これから注意するよ。

合掌
39回目の結婚記念日を迎えた。結婚式は同志社高校のチャペルで挙げ、牧師でもあった高校ラグビー部の顧問、田中先生が司式を務めて下さった。「愛という字は心を受けると書きます。互いに相手の心を受け、愛を育んで下さい」という祝辞を頂いた。

披露宴は京都ホテルで開いた。ラグビー部を中心とする運動部の同級生たちが準備に準備を重ね、讃美歌の合唱、ピアノの弾き語り、コント、そして手品までが飛び出す盛り沢山の芸に笑いと拍手が絶えない賑やかな宴になった。

お仲人は大学ラグビー部の岡先生ご夫妻にお願いしていたが、岡先生も司会のマイクを奪い、「こいつらの学年が弱かった理由が今になって分かりました。お前ら、ラグビーでなはなく、芸の練習ばっかりしとったんやな」と上機嫌だった。


それから39年、岡先生も田中先生も亡くなってしまわれたが、もし目の前に出てこられたら何とおっしゃるかなと考えた。多分、こうだ。「もっと楽しめ。ノーサイドの笛のときに止まっているような選手にだけはなるな!」もちろん「はいっ!」です。
「新小岩」と聞くと、頭と心の一部が反応する。結婚して最初に住んだ町で、三人の娘が生まれ、五人家族になるまでの七年間を過ごした。いろんな懐かしい思い出のある場所だ。その新小岩にある葛飾区の施設で同志社混声合唱団の練習が行われたので、ちょっとドキドキしながら新小岩駅で降りた。

南口にルミエールというアーケード商店街がある。そこを五分ほど行ったところに小さなマンションがあり、そこに住んでいた。元は銭湯があった場所だと聞いたが、雨でも傘は要らないし、いろんなお店はあるし、皆さん庶民的で幼い娘たちに声を掛けて下さるし、とても便利で過ごしやすい町だった。


そのアーケード商店街を歩き始めたが、記憶にあるお煎餅屋さん、カメラ屋さん、バッグ屋さん、靴屋さん、金物屋さん、お肉屋さん、パン屋さん、トンカツ屋さんがなくなっている。魚屋さんとお米屋さんは残っていたが、当時の面影が感じられないほど大きく変わっていた。それを淋しく思ったが、住んでいたのは30年以上も前のことだから、当然と言えば当然だろう。

それでも「変わり過ぎや」という思いで歩いていたが、かく言う私も当時はラグビーの現役選手だったのが、今やバイオリンを背負い、ヘンデル「メサイア」の重い楽譜を持って現れたのだから、もし、ルミエール商店街に目と口があるなら、「ボルさんだって変わり過ぎでしょう」と言われたかも(笑) お互い、これからも変化を続けましょう。