しかし、「自然死」と聞くと何か放置されたような気になって不安になる。医療の力を借りずして、痛みや苦しみに耐えることはできるのか?


この不安に対し、中村先生は極めてシンプルに易しく答えておられる。


「何らの医療措置も行なわなければ、夢うつつの気持ちのいい、穏やかな状態になるということです。これが自然のしくみです。自然はそんなに苛酷ではないのです。私たちのご先祖は、みんなこうして無事に死んでいったのです」


先生によると、「自然死」とは「餓死」のことで、その実体は次の通りだ。


「飢餓」・・・脳内にモルヒネ様物質が分泌される。

「脱水」・・・意識レベルが下がる。

「酸欠状態」・・・脳内にモルヒネ様物質が分泌される。

「炭酸ガス貯留」・・・麻酔作用あり。


すなわち、自然死を迎える際には痛みも苦しみも感じなくてすむように出来ているということなのだ。


ボルネオ7番のブログ-バラの花


しかし、病院に運び込まれと事態は変わる。自らの力では食べ物や水分が取れないと分かると、患者さんのお腹に穴を開けてそこからチューブで水分や栄養を補給する「胃ろう」と呼ばれる措置や点滴、輸血など、いわゆる延命措置が施される。人それぞれに考え方があるのだろうが、何をもって「生きている」と言うのか、そういう思想や信条が問われる場面かなと思う。


フランスでは「老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、医療の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事」と言われているそうだ。今の私には想像もできないが、もし自分で食事もできないほど弱ってしまったら、家族の負担を憂慮するより前に、家族にそういう姿を見られたくないと思うだろう。そういう意味では、本人の意志を最優先させて良い事柄のように思う。


以上、どのように死ぬのかを考えさせられる本であったが、それは結局、どのように生きるのか、どのように生きたいのかを問われているのかも知れない・・・・最後にそう思った。

何とまぁ、過激なタイトル。


ボルネオ7番のブログ-大往生


しかし、著者の中村仁一さんはお医者さんだ。

しかも、2012年1月に発行されたこの本、12月に第21刷発行とある。実に良く売れている。ということは、多くの人に読まれ、共感されているということだ。


その中村先生の言葉、

「本来、年寄りはどこか具合の悪いのが正常だのです。不具合のほとんどは老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなるわけはありません。昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです」。


中村先生は、いくら「老い」を「病」にすり替え、最先端医療や再生医療を施したとしても、「老いて死ぬ」という枠内の話だとおっしゃる。その上で、「年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に死んでみせること」と、「自然死」を勧めておられるのだ。


(続く)

ラ・ロシュフコーは1613年に生れたフランスの貴族。


青年期には国内外の戦争に赴いて何度も戦傷を負い、一時は失明の危機にも遭う。又、その間、いくつかのアバンチュールも経験し、これが彼の女性観に大きく影響したと言われている。


やがて、体力の衰えとともに文学に傾倒するようになり、1665年に「箴言集」(しんげんしゅう)を刊行している。そこで扱われたテーマは自己愛、情念、欲望、恋愛、欺瞞、傲慢、知性、運・・・と多岐にわたるが、要は「人間の性(さが)」が辛らつに語られている。


ボルネオ7番のブログ-ラ・ロシュフコー


「思慮分別と愛は愛称が悪い。愛が深まるにつれ、分別は失われる」


「恋する男は女に対する魅力を感じなくなるまでは、その女の欠点を見ることはない」


「幸福は幸福な人のもとに集まりやすく、不幸は不幸な人のもとに集まりやすい」


「人間は世話になった人より、世話をした人の方に会いたがるものだ」


「女にとっての地獄とは、老いである」


17世紀のフランスで多くの文化人から酷評されたとあるが、多分、ラ・ロシュフコーの鋭い観察眼と簡潔な言葉には救いが無かったからだろう。