幾松のある木屋町通りは、読んで字の如く、材木屋が建ち並ぶ通りだったとのこと。幾松もその中の一軒だったが、江戸時代の末期になると、木屋町通りに討幕派の志士が集まるようになったらしい。その理由だが、当時の鴨川は150年ほど放置されて葦が伸び放題の荒れ地で、その鴨川を背にして建つ幾松にいれば、幕府方に急襲された場合、ひとまず鴨川に逃れ、隠れることができたかららしい。納涼床ののどかな風景からは想像し辛いが、そういう厳しい時代だったのだ。

 

(現在の鴨川と納涼床)

 

桂小五郎と幾松さんが過ごしたという部屋にも案内してもらった。大きくて立派な長持が置かれていたが、新選組がいきなり踏み込んで来た際、幾松さんは桂小五郎にこの長持の中に隠れるように言い、その前で三味線を弾き始めたらしい。そこにやって来た近藤勇が長持の中を検めようとすると、幾松さんは「屋敷を検めて私に恥をかかせた上、もし、この中に誰もいなかったら、近藤はん、ここで切腹してくれはりますか」と詰め寄ったらしい。近藤勇は長持の中に桂小五郎がいると察しながらも、幾松さんの愛情と度胸に胸打たれ、その場から去ったらしい。

 

(この中に桂小五郎を隠し、幾松さんがその命を救った)

 

かように幕府方の探索を受けることが避けられなかったため、この部屋には覗き穴や抜け穴など、さまざまな工夫が凝らされていたとのこと。又、天井は「吊り天井」になっており、仕掛けられた綱を引けば、天井裏に隠されていた二つの大きな石が落下し、天井そのものが落ちるようになっていたらしい。明治23年に石は撤去されたとのことだったが、思わず天井を仰いでしまった。

 

(続く)

5月に秩父宮で第100回同志社・慶應義塾ラグビー定期戦が行われた。その応援に来ていた慶應義塾ラグビー部の同級生と久し振りに再会し、その懐かしさから「一緒に同期会をやろう。第1回は京都でどう?」という話が盛り上がった。

我々がラッキーだったのは、同級生のOBに京都で旅館業を営むケメがいて、仕事柄、京都に詳しく顔も広いことから、京都生れ京都育ちの我々までもが堪能できる楽しい夜を手配してくれたことだ。

ケメが予約してくれたのは、木屋町の幾松。桂小五郎、後の木戸孝允と松子夫人が暮らした家だ。背に鴨川があり、そこに突き出した納涼床で食事をすることになった。



(続く)

ミャンマーの経済や産業に関する勉強会に参加した。ミャンマーは古くはビルマという名前の国で、太平洋戦争の舞台となったところだ。「ビルマの竪琴」という日本軍の兵士を主人公にした映画を観た記憶があるし、多くの犠牲者を出したインパール作戦もビルマから進軍が開始され、多くの敗残兵が取り残されて亡くなり、やがて白骨街道と呼ばれるようになった退却路もあるとも聞いた。

 

そういう不幸な時代もあったミャンマーだが、最近は民主化も進み、投資の対象やアジア進出の拠点として考えられるようになったとのこと。そういう資料がテーブルに置かれていたのだが、最初に目に付いたのは「ビルマ仏教」というタイトルのコラムだった。 

 

ビルマ仏教は上座部仏教で、簡単に説明すると多くの人が救われるとした大乗仏教に対し、厳しい修行を修めた人のみが救われるとする考え方で、大乗仏教の立場からすると小乗仏教と呼ばれる仏教のようだ。ただ、ダンマニーティという、人が社会で生きていく上で指針や教訓とすべき詩集があり、これが今も多くの人々に愛され、重宝されているらしい。


その中の一つの言葉、

「人は他人の欠点をゴマ粒ほどの大きさでも見つけるが、自身については椰子の実ほどの欠点でさえ見えない」

頭をガーンと殴られたような衝撃があり、直ぐに手帳に書き移した。直す努力をしようと思う。