相撲界での事件が、お取引先と商談していると話題になる。たまたま、私が体育会ラグビー部の出身で、体育会には体罰があってもおかしくないというイメージがあるのか、体罰に対する意見を求められることが多い。

私自身は先輩から体罰を受けたことなど一度もないし、そういう場面を見たり聞いたりしたこともない。だから、私に体罰を加えたことがあるのは亡くなった母だけだ。しかし、そんな母も頭は大切な場所だから、と決して叩かなかったし、かと言ってお尻は鈍感で効き目がないから、と祖父の写真の前に正座させられると、太ももの内側を平手で強く叩かれた。その体罰もあって今の私があるのだから、愛のムチは相手によっては必要かつ有効だと思っている。

ただ、小学校3年生になった頃か、母から「もう口で注意したら言うこと聞くな? それとも、まだ叩かれな分からへんか?」と尋ねられ、「言われたら分かる」と返事して以降、ピタッと体罰がなくなったから、たとえ愛のムチのつもりでも、言葉が通じる相手で説明もできるなら、それは限りなく暴力に近いように思う。

もう一つ、良く受ける質問に、体育会とか運動部というのはそもそも閉鎖的なんじゃないの、というのがある。これには反論がある。

(続く)

(東大駒場キャンパスの黄葉。きれいだ。)



地域起こしの成功には次の人材が欠かせないそうだ。

ーよそ者
ー若者
ーばか者

立命館アジア太平洋大学の次期学長に選ばれた出口治明さんが雑誌のインタビューに答え、そんなことをおっしゃっていた。出口さんは日本生命に勤務された後、ライフネット生命保険というネット直販型の生命保険会社を創業された方だ。その出口さんから見ると、大学にも改革が必要で、それは地域起こしにも似ているから、私が次期学長に選ばれたのは、よそ者、若者、ばか者の要素を持っているからかも、という趣旨で話されていたように思う。

大学に限らず、企業も役所も世の中の変化に応じた改革が求められると思うし、その改革が成功するかどうかは、結局のところ、そこにいる人が変われるかどうかに掛かっているように思う。しかし、人はなかなか変われないから、よそ者、若者、ばか者の規格外のエネルギーが必要になるのだろう。

自分自身を改革するにも、よそ者、若者、ばか者の要素が必要になるのだろうから、先ず「よそ者」については、どんどん新しい世界に足を踏み入れることで自分をよそ者にしよう。次に「若者」だが、身体はさすがに若くないから、せめて心だけは若く保とう。最後に「ばか者」だが・・・これはこれまで通りで大丈夫か(笑)
来年1月14日に催される演奏会の案内チラシを頂いた。いよいよだ。実感が湧いてきた。


初めて練習に参加させてもらったのは今年の6月で、その時は回りの方々の歌声を聞いているしかなかったが、その後、楽譜を見ながら繰返しCDを聞く内に少しずつ歌えるようになってきた。だから、経験者の方々と比較するとまだまだ心許ない実力だが、半年前の自分と比較して良いなら胸を張れる。

トルストイもこんな言葉を残していた。
「人間にとって最高の幸福は、一年の終わりにおける自己を、一年の始めにおける自己よりも遥かに良くなったと感ずることである。」

ゴルフや料理は頓挫したが、合唱やバイオリンはその通りのように思うし、いろいろ試してみて本当に良かった。「遥かに良くなった」とは感じられないが、少しでも上達したと感じられればそれが励みになる。この際、自画自賛の能力も身に付け、厚かましく続けさせてもらおう。

先生、経験者の皆さま、引続き宜しくお願いします。