百名山に行く前に
百名山の人
深田久弥伝
田澤拓也
- 田澤 拓也
- 百名山の人―深田久弥伝
中高年の登山の目標になっている「百名山」。
これを著した深田久弥の伝記です。
口数少ない人にも自分にも厳しい山男、と思っていましたが、少し違いました。
昭和一ケタのころ、深田も当時流行していた文学に傾倒し、東大卒業後改造社に入ります。
そこで文学賞の下読みをしているときに読んだ原稿に心を打たれ、遠距離恋愛後、その女性と結婚することになります。
小説家として自立したい深田久弥。
机の前で、幾日たっても原稿を書けない深田に代わって、奥さんが筆をとり、それを深田が推敲し、深田の名前で発表するようになります。
奥さんには「今回だけ。次回はきっと書いてくれるはず」と考え、まったく気にしていなかったそうです。
周りの友人にも明かさず、深田の作品は世に受け入れられていくようになります。
しかし、そこに問題が起こります。
深田に愛人ができたのです。
そして離婚してしまい、もとの奥さんは「あれは私の作品」と公言するようになります。
深田は愛人と再婚し、北陸の田舎に引っ込んでしまいます。
ほそぼそと文筆業でくらし、しばらくしてほとぼりが冷めたころ、また東京に戻ります。
そしてぼちぼち山の仕事がはいるようになり、かつて行っていた山関係の仕事を見ていた若い編集者から、「百名山」の原稿を依頼されるのです。
いやぁ、人生ってやっかいだなぁ、と思いました。
もう、山が好きで好きで、っていう人なのに、こんなにもややこしい人生だったなんて。
あれだけ人気がある作家なのに、作品が少ないわけも肯けました。
でも山関係の作品は、登山黎明期の豪快さがあって結構面白いです。
事実として驚いたのは、編集者として中島敦の原稿を読んだのは、深田久弥が初めてで、一読してのその才能を認めたのですが、いかんせん、不倫中だった深田久弥は手元に原稿を半年ほど置いてしまっていて、その間に中島敦の病状は悪化し南海
に旅立って・・・。不倫が悪いとは言いませんが、編集者なら原稿ぐらいちゃんと読んでくれ、といいたいですが、そういった箸にも棒にも、という原稿は数多あるのでしょうね。
本の中では「深田の真贋を見る眼と誰にでも愛される人柄」が中島敦を作家にしたとフォローしていますが、その原稿のなかにはあの「山月記」も入っていたのです
。そんなもん、誰が読んでもその価値はわかると思うのですが。
しかし、素人の原稿のなかから「山月記」を見つける驚きというのは、どんなもんなんでしょう。
中島敦の遺作は「李陵」。今まではきれいに清書された原稿をもらっていたのですが、この作品は清書がされないまま、裏まで書き込みがあった原稿を中島夫人から手渡されたそうです。タイトルはなく、できるだけ淡白な題を選び「李陵」となったとのこと。
私も李陵でいいと思います。
- 中島 敦
- 李陵・山月記
信頼ならざるカズオ・イシグロ
わたしたちが孤児だったころ
カズオ・イシグロ
- カズオ イシグロ, Kazuo Ishiguro, 入江 真佐子
- わたしたちが孤児だったころ
前回「日の名残り」でずっとオチを期待して読んでしまったミスを取り返すべく、いかにも読みやすそうな「探偵小説」的要素があるという「わたしたちが孤児だったころ」に挑戦です。
1930年、ロンドンで、ケンブリッジ大学を卒業後、主人公は念願だった探偵をはじめようとします。
世の巨悪に立ち向かうためなのですが、大本には上海での両親の失踪事件が絡んでいます。
幼いころ幸せな日々を上海で送っていた主人公一家は、突然、父がいなくなり、そして母もいなくなったのです。
探偵になった主人公は、活躍を続け、ロンドン社交界でも有名になったところで満を持して上海に向かいます。
そう、父と母を探し出すために。
そうして、現実が少しずつ歪んできます。
周りからは、世界大戦の危機が迫っている上海の状況を救うべく期待され、ロンドンでは相手にもされなかった社交界で有名な女性にも付きまとわれるようになり、そして最後の最後で両親の居場所をつかむのです。
しかしそこは交戦地帯。
探偵の腕力を生かし、無理やり両親がかつて捕らえられていたらしい地点に近づいていきますが・・・。
さて、またわたしはやらかしてしまいました。
最後まで読んでの正直な感想は「なにが言いたかったのだろうか」ということです。
読みきれていないようです。
そこでいくつか謎解きです。
まずカズオ・イシグロの作品で必ず話題になる「信頼ならざる語り手」の問題。
これは、書いてあることすべてが事実ではない、という共通認識を読者と共有する小説手法です。
効果としては、明らかにおかしな主人公の認識は、そうせざるを得ない出来事が主人公にあったことを感じさせ、書いてあること以外への重み付けが可能になります。
では今回はどのあたりから・・・最後の最後本当に両親を探し出す時・・・上海に行ったとき・・・、個人的には探偵になろうとしたときから、というのもありえるのではないかな、と思っています。
霧深いロンドンで、安楽イス上での妄想。
カズオ・イシグロの発言
「社会について本当のことを何も知らされず社会にでることは、まるで孤児のように感じる」
「5歳で日本を離れた後、色々な情報や想像でわたしの日本を作り上げた」
のようなことをいっており、あながちすべて妄想というのも間違いではないかな、と思います。
ま、しかしそんなことは実はどうでもよいのでしょう。
不安定に揺れ動く現実世界との違いも含めその小説世界を楽しむことが、カズオ・イシグロの小説の求めていることなのでしょう。
たしかにその丁寧で落ち着いた筆致は読むのに心地よく、いつまででも読んでいられそうな気分になります。
2作目で大分読み方が分かってきたようです。
また次の作品はもっとリラックスして、少しだけ「信頼ならざる」を意識して読んでみたいと思います。
そうすれば今回も異国情緒溢れる探偵物語として読めたのではないかなと思います。
しかし色々考えていくうちに気になったのは、日本のいわゆるセカイ系といわれる作品との相似性です。
自分が死んだら世界がなくなるような、自分のセカイとそれ以外の世界という認識の「セカイ系作品」に非常に近いような気がしました。
セカイ系の作品の題材と筆致を高級にしたら、カズオ・イシグロになるのではないかという気もします。
まぁもちろんそうだったとしても、セカイと世界のずれを作品にしてしまうしたたかさは、全然違いますが。
焚き火とコーヒーとカウボーイ
すべての美しい馬
コーマック・マッカーシー
- コーマック マッカーシー, Cormac McCarthy, 黒原 敏行
- すべての美しい馬
書評家?の豊崎氏の薦めがなければきっと読まなかった本です。
今回の世界文学の旅は、コーマック・マッカーシーに出会えただけでも幸運でした。
テキサスに住み、馬が好きでに牧畜以外にしたいことのない主人公の少年。
祖父の死により、牧場は売り払われてしまい、さらに父も母も牧場には興味がありません。
そこで少年は、友人と二人で馬で南に向かいます。
国境を違法に越えメキシコへ。
そこで厄介な行きずりと出会い、厄介なことになり、さらに進み、理想の大牧場を見つけカウボーイの仕事をはじめます。
しかしそこで牧場主の娘に恋をして、更なる厄介なことに巻き込まれてしまいます。
久々にハードボイルドものを読みました。
これだ徹底しているものははじめてかも。
最初から状況の説明はありません。
会話と風景描写で重ねられていく物語は硬質で、何にもおもねらない主人公の姿勢は、痛々しく、瑞々しく、不器用というよりも決めたらけして変わらない一途な思いは、どんな状況に置かれていても変わりません。
途中ついあとがきを読んでしまい、この作者はこの作品で6作目で、その前の作品は、天涯孤独の殺人者が、人を殺して洞穴の中に死体を溜め込む話や、近親相姦の子供を兄が捨て妹が捜しに行き、森をさ迷い歩くうちに強盗殺人犯に出会い、というグロテスクで神話的な話など。そのほかにもピカレスク小説のようなものも書いていますが、なんにせよなんでも起こりうる作家なんだな、と思って読んでいくと非常にスリリングでした。
アメリカ南部の荒野の描写や、体の一部のようになっている馬の描写などが非常に美しく、また、遠くまで見渡せる荒野で、焚き火に当たりながらトルティーヤと豆とコーヒーの食事をとる場面では、そうか、コーヒーはこのように飲むものでもあるんだな、としみじみ思いました。
スタバばかりがコーヒーではないと。
この本を皮切りに、国境3部作として、まだ2冊あるそうです。
これは楽しみ。
ハードボイルド好きの方なら、メキシコの牧場へいくまでの最初の100Pほどがなんとかのり越えればられれば、あとは波乱万丈の災厄と真っ向勝負する重く刃こぼれすることのないような鉈のような精神が楽しめます。
そういえばその昔、コーヒーの豆を買ってキャンプに行き、バンダナに豆をまいて石で砕いてそのままお湯につけてコーヒーを造ったことがありました。
すごく薄かったので、よく覚えています。
うーん、カウボーイはみんなコーヒーミルを持っていたのでしょうか。
横展開と縦展開
ティンブクトゥ
ポール・オースター
- ポール・オースター, 柴田 元幸
- ティンブクトゥ
個人的に「ムーンパレス」「沈黙の音楽」「リバイアサン」 の3作が非常に気に入っている作家の新作。
犬のミスターボーンズからみた飼い主である、現代アメリカの放浪詩人、中華料理屋の息子、中上流家庭の主婦、を描いたもの。
放浪詩人に成犬になるまで育てられ、生きることとは世間に反し自分の思うがままにし放浪すること、とともに生きていくうちに学び、ぶつぶつとしゃべる詩人の言葉を期家いるうちに人語を理解できるようになった、ミスターボーンズ。
飼い主と主に送るしんどい毎日は、しかし逆に飼い主との絆を深め、すぐにお互いにとって必要な存在となってきます。
しかしそこでポールオースター流の展開が訪れ・・・
うーん、犬版ムーンパレスとでもいうのでしょうか。
しかしそれにしても、物語の横展開の想像力の高さは流石ですが、よりテーマを深く掘り下げていく縦展開はしていないように思えます。
前作、「ミスターヴァーゴ 」もそうでしたが、最近の作品はどうも縦展開が弱い。
古川日出男 にもそういったものを感じますが、縦展開、というのは作家にとってある時期(たとえば初期)にしかできないしんどい作業なのでしょうか。
だとしたらちょっと残念です。
「偶然の音楽」などで掘った穴を、もう少し広げて欲しかったのですが。
表紙の犬もかわいいし、物語も読みやすいので、入門書としては良いかもしれません。
ミスターボーンズの一途さは日本人にはきっと堪えるでしょう。
ちなみにティンブクトゥは、アフリカのマリ共和国の地名で、かつてのアフリカの物流の集散地。
ヨーロッパ人にとってはるかかなたの地の話として、「異境」などの意味で使われるそうです。
感動分析気質
少年カフカ
村上春樹
- 村上 春樹
- 少年カフカ
書評のブログを書き始めてもう2年が立ちました。
他の人の書評を読んだり、自分の書いたものを読み直したりして、色々考えて書くようにしていますが、ここ最近気をつけているのは、「あらすじ、分析、感想」の3要素をいれようとしていることです。
書評を読んでいてやっぱり面白いのは、書評を書いた人が、どこに心を動かされたかという、感想部分。
しかし、「なんだか気持ちの底の方が癒されたような気がします」というだけではやっぱりなんだか分からないので、最低限のあらすじ入れる。
さらにいれたいのが分析部分。
これは自分でもなにをやっているかよく分からないのですが、感動部分の自分なりの理解と、技術論のようなことをやっているのだと思います。
なんでこんなことを言い出したかというと、村上春樹の「少年カフカ」を読んで、すぐには書評が書けなかったからです。
この本は、村上春樹の「海辺のカフカ」について、村上春樹とメールで交流できる限定サイトがき、8000通あまりのメールのうち1220通に返事を書いたものをメインコンテンツとした本です。
前から読もうとしていたのですが、ほかにいくつかある読者との交流本のノリにはいまいちついていけず読んでいないかったのですが、これについては、きっと読者から真摯なメールが来るであろうこと、そういったメールには村上春樹は真剣に返事を書くであろうこと、そしてこれだけ大量のメールに返事を書くとやはり疲れてきて、対読者用の建前や軽妙な返し以外に、つい本音が出てしまうのではないか、そういった部分に期待して読み始めました。
結論からいうと、やはり本音的な部分が垣間見えるようになります。
特に後半は、返答も長くなることが多くなり、幾分感情的な回答もでてきます。
とくに個人的に感心を持ったのは、No.954「次なる大作への助走でしょうか」というメールです。
内容としては、「本書は、近年の社会的病根(オウムなど)をとりこんだメッセージという印象」「しかしその意欲が空回り」「新たな作品のための経過的な作品というのが正直な感想」ということでした。
これは私自身もそう思っていたことなのですが、村上春樹は「同じ本の話をしているとは思えない」「15歳の孤独な少年が魂の救済のようなものを求めてさすらう物語」「助走なのではなく、全身全霊を注いだ作品」との回答でした。
これはこの本のなかで一番と言っていいほどの批判的な回答で、なんでこんな回答になってしまったか不思議なのです。
あらためて全体的な様子を考えると、「感想」的なメールには好意的に回答しています。
村上春樹は、今のいる位置から少しでもずれるような「感動」する作品を目指し、また読者も「感動」しそれを伝えそれにさらに答える、という形です。
そこには「分析」的な内容はでてきません。
そう、作品があって、感動すれば、そこに書評は必要なのだろうかと考えてしまうのです。
文学論自体は否定はしませんが、個人的な分析というのは、なにか意味のある行為なのかと考え込んでしまいました。
個人的にはこう考えました。
小説は、メタファーです。
比喩的に語ること、多くのロジックを内包できます。
そして、それをメタファーのまま咀嚼できる人もあれば
実際の実例に落とし込み、1つのロジックとすることで理解したい人もいます。
このスープ美味しいね、と深い感動を胸に染み込ませる人もいれば
だしの深みと野菜の新鮮さがこのスープの驚きの原因だ、と理解して納得する人もいるのではないのでしょうか。
そして分析する人は、つい感動を忘れ分析に拘泥してしまい、だしのタイミングや種類についていろいろ意見してしまうのです。しかし、それは感動を忘れてしまうと空虚な理論になりがちです。
そういった、だし論に嫌気のさしていた村上春樹は、つい、過剰反応してしまったのではないかな、と考えました。
また、自分の中の物語をそのまま書き出して世の中のメタファーとするタイプの村上春樹は、その逆の「メッセージ→メタファー→物語」という理解のされ方にも、我慢がならなかったのでしょう。
なんにせよ、書評の位置付けが自分の中で再確認できました。
感動の分析を行い、ロジックとしての落とし込み、再利用がしたいのだと。
あぁ、感受性をむりやり補っているようですね。
そうそう、この本自体は村上春樹という人に興味がある人と、村上春樹一流のユーモアと軽妙さが好みの方は、読み進めることができますが、それ以外の方にはなかなかしんどいのではないでしょうか。
1220通もあれば感じ方も色々かな、と思いましたがじつは大体予想の範囲内で、むしろ読んでいる人の現実の広がりの方が以外でした。
それこそ中学生からおじいちゃんおばあちゃんまで。思春期の方、病気の方、海外にいる方,外人。
また、批判的な内容を書いてくる人は、読み方が甘い方が多かったですね。まぁよくないと思った作品をそんなに読み込めないのも確かですが、でも有効な批判になっていないことが多く、そういった批判は何の訳にも立たず、「メールなんて出さなきゃいいのに」と思っていました。
類書もなく、意欲的で、筆者自体のやりたかったことはできたのだと思いますが、さて作品としてはどう位置付けたものかと考えてしまう作品でした。
あぁ、長文でまとまってないですが、思考メモとして読んでいただけたらと思います。
- 村上 春樹
- 海辺のカフカ (上)
- 村上 春樹
- 海辺のカフカ (上)
- 村上 春樹
- 海辺のカフカ〈下〉
足で体を掻く米国人/ニューファンドランドの物語
シッピングニュース
E・アニー・プルー
- E・アニー プルー, E.Annie Proulx, 上岡 伸雄
- 港湾(シッピング)ニュース
現代米国文学の特徴といえば、登場人物の多くが常になにかに文句をいっている、と個人的には思っています。
それは、犬が足で体を掻いて自分が犬だと認識するように、米国人が文句を言ってコミュニケーションを行い人生の機微を楽しんでいるのだと思うのですが、どうもその部分は、本や映画ではピンとこないで興味が薄れてしまうことがあります。
そういった意味でこの「シッピングニュース」では、米国人の自己認識である世の中にはきかける文句は山のようにあります。
しかしそれだけではない作品です。
主人公は、体は大きいけれど、不細工で不器用で、人間関係に疎く、少年時代は「青春」というものに恵まれませんでした。
大人になるとさらに困難はまし、結婚して2児をの娘を授かった後、妻に家を捨てられ、仕事もなくなり、おばと先祖の故郷であるカナダのニューファンドランドで再出発をし始めます。
まぁ、文句を言うにはちょっとつらい人生で、再発の地は田舎であり過酷な自然な自然であり、文句もいう余裕もないのが実情です。
その地でかわいいくも不安げな娘と訳知りで頑固で有能なおばと過ごす日々を淡々と書いた作品で、地元の新聞の記者として、厳しいニューファンドランドの海の様子や天候、入稿する船たち、漁業にかかわる人々の暮らし、交通事故・性犯罪・海外情報、などと接し、田舎だからといって純朴というわけではないけれど、どこか他人との接点が感じられる生活で、少しずつ主人公は悪夢的な人生から、まともな実感のある人生にシフトする様子が描かれています。
主人公の人生に対する姿勢を「文体」と呼ぶなら、「文体」で読ませる作品です。
全米図書賞、ピュリツァー賞などを受賞。
映画化もされています。
- アスミック
- シッピング・ニュース 特別版
しかし、ニューファンドランドなんて、メルカトル図法の地図で
「こんな北の地に日本が何個も入る大きな島があるけど、この島なんだろう」
と思って以来の接触でした。
ここが痛烈に面白い、というわけではありませんが、積み重なっていく日常に、あわ立つ水面が静まるりゆっくりと流れ出すような心地よさが感じられる作品です。
そういえば同僚の旅たちの宴の、人々の酔っ払いぶりは、なかなか激しく、面白かったです。
欧米人は酔うとああいうことしそう、という偏見をつい持ってしまいます。
自己紹介バトン
基本的に他の方のバトンを読むのは好きでしたが、よもや自分でやることになるとは思いませんでした。
しかも理工書系でいつも興味を刺激いただいて、コメントもよくもらっているnanikaさんからのお誘い。
http://ameblo.jp/nanika-possible/entry-10020493935.html
なんとかやってみます。
せっかくなんで、できるだけ本にからめて。
1.回す人を最初に5人
最近コメントを書いたり書かれたりする方で受けていただけそうな方を選びました。
tsuna11さん、スフィンクスさん、よろしくおねがいします。
お二人とも多読家です。
ほかには突然頼めるような方はいませんでした。
できればあとtakam16さんにお願いしたかったんですが。
2.お名前は?
bookbathです。
最近やっとなじんできました。
ちなみにそんな単語はないと思います。
3.おいくつですか?
最近歳を取ったといえば団塊世代に「まだまだ」といわれ
まだまだ若いとおもっていると携帯世代に愕然とするような、そんな歳です。
小さいころは学研の「科学」と「学習」を読んでいました。
4.ご職業は?
平均週に1回ほどスーツを着るような生業。
5.ご趣味は?
今は散歩ですね。
家の周りが中世の出土物があるような地域だと最近知り、たまに遠くに思いをはせています。
読書は趣味というには、日常化しすぎていいにくいですね。
朝食が趣味です、といいにくい感じと同じです。
6.好きな異性のタイプ
好きな本は、何度でも読めて、発見のある本です。
7.特技は?
料理でしょうか。
自分勝手につくっていますが。
最近きにいっているのは、チャーハンとリゾットの間のような食べ物です。
本方面では、読みながら寝てしまうと、夢でかってにストーリーをつくっていってしまうことです。
ありがちでしょうか。
8.資格は何か持ってますか?
持っていましたが、最近更新手続きを忘れて失効。
落ち込んでいます。
書評の資格なんか、本の雑誌かなんかで作ってくれないですかね。
何度も受験しちゃいそうです。
9.悩みとかありますか?
仕事でつかっているPCのHDが壊れました。
まいっています。
本の悩みは、お金と時間、といってもなんなので、みなさんが面白いって言っている本を楽しめないことがあること。
無念です。
10.好きな食べ物と嫌いな食べ物は?
これが書きたくてこのバトンを書いています。
嫌いなものは、熟れていない生トマト。
まず、外側のセロファンみたいな皮のギシギシという歯ざわり。
次に、スポンジ状の崩れるような気味の悪い食感。
そして鼻水のようなゼリー状粘液の野菜臭い酸味。
最後に、なぜかいらだたしい存在感のある種。
トマト好きの方、すいません。
熱したトマトならOKです。ピザもパスタも、中華の炒め物食材にも使ったりします。
でも生トマトはダメなんです。
きっと欠陥のある人間なんです私は。
何度「朝もぎ取りたて丸かじり」みたいなことをやっても、おいしくないんですよぉぉぉ!
すいません、興奮してしまいました。
好きなものは、素材の甘味と香ばしいもの、だし味。
上述のチャーハンとリゾットの中間生成物はそんな感じです。
11.貴方が愛する人へ一言
愛している本に。
出会えたことに本当に感謝しています。
12.回す人5人の紹介文を簡単に
2人ですが。
tsuna11さんは、多くのジャンルで大量の本を楽しんで読まれている方です。
物語系が多いですが、生き物系も読まれていて、興味をひかれる本が多々あります。
また、いつも好意的で巧みなコメントのファンも多いのでは、ないでしょうか。
ブログ自体も色々工夫されていますし、TSUNA11さんのブログを見本の1つとして勉強させていただいています。
日常&読んだ本log http://ameblo.jp/tsuna11/
スフィンクスさんは、最近アメブロをはじめられたようですが、ガンガン純文学とノンフィクションの感想を書かれています。
その本流の古典系の本と真っ向勝負の書評は、いつも襟を正して拝見させていただいています。
この二つのジャンルはどうも読者層も少ないので、私もがんばって盛り上げていきたいと思っています。
愛とまごころの書評 http://ameblo.jp/celine5345/
バトンって、SNSでの話題作りに始まったものなんでしょうか。
であれば、特にそのまま答える必要もないかな、と思い自分なりに「本関連」でアレンジしてみました。
知り合いも少ないので紹介先も必然的に少なくなってしまいましたし。
そのままでもよし、変えてもよし、やりたいようにやる、でいいかなと思いました。
オーストラリアの義賊とオリンピック
ケリー・ギャングの真実の歴史
ピーター・ケアリー
- ピーター ケアリー, Peter Carey, 宮木 陽子
- ケリー・ギャングの真実の歴史
ブッカー賞受賞作品。
ケリー・ギャングとは、1854ー80年オーストラリアに実在したネッド・ケリーのことで、日本での国定忠治や石川五右衛門、イギリスのロビンフッドのような、大衆に人気のある義賊・ギャングとしてオーストラリアで知らない人はいない存在のようです。
ただ人気があり過ぎて、史実的な内容ははっきりとしられておらず、今回できるだけ史実に基づいて書かれた小説が、『ケリー・ギャングの真実の歴史』です。
オーストラリアの開拓の歴史が始まる頃、ネッドは生まれます。
アイルランドの移民としてオーストラリアにやってきたケリー家ですが、父は警察に目を付けられ、母は男好き。そんな一家をネッドは長男として一生懸命ささえていこうとします。
木を切り、板を作り、家を建て、柵を作り、牧畜を行い、農地を耕す。
そうして少しずつ開拓地の生活が向上していくように見えたとき、家畜や土地が地域の有力者やその手先の警察に奪われていくのです。
ネッドは猛烈に怒りますが仕方ありません。
するとある日山賊の一人のお供をすることになってしまいます。
オーストラリアの開拓地での、開拓民を味方にしながら強盗を行い、広大な荒野各地の隠れ家を点々とする生活。
しかし結局山賊生活も嫌になり、家が心配になって戻るのですが、馬泥棒の共犯のぬれぎぬをかぶせられ、投獄。
出所後、はじめて恋に落ち結婚をしますが、やはりなにかと警察はなにかと嫌がらせをし、家族を投獄しようとします。
そしてある警官から名誉を傷つけられたケリーは、ついに警官に敵対し、ギャングとして各地を点々とするようになります。
ギャングとしての活躍よりも、精神的肉体的に過酷な開墾生活の中、家族のために身を粉にして働き、しかし自分の名誉のために後先をいとわない、というタフさに、アイルランド系の生きざまを感じました。
もちろん、荒野と町の行き来や、開拓民の味方という荒野のギャングの特性や、オーストラリアの生活そのものも興味深かったです(猟で普通にカンガルーをしとめていました)。
しかしいつの時代も、持つ者の気分1つで持たざる者が略奪される姿は、腹立たしくやりきれなくなります。
そんな過酷で不条理な運命に自分を曲げずに真っ向から立ち向かったケリーだからこそ、一介のギャングが、シドニーオリンピック開会式のオーストラリア史のセレモニーの一人として登場したのでしょう。
ブッカー賞受賞というのわりに・・・という部分はありますが、それは口伝で聞くオーストラリアの話を知らないからでしょう。
全編、ケリーの娘への手紙、という形式も、最後の方は胸に迫るものがあります。
いや、十分楽しみました。読んだ後、表紙もいいなと思い直しました。
短編は切れ味
停電の夜
ジュンパ・ラリヒ
- ジュンパ ラヒリ, Jhumpa Lahiri, 小川 高義
- 停電の夜に
もう少し世界文学の旅が続きます。
- 今期待されるインド系アメリカ人のデビュー短編集です。
久々に切れ味のある短編を読みました。
まず、本のタイトルにもなっている『停電の夜に』
登場人物はNY在住の印度系の二人。
結婚してしばらくして、いつの間にか何となく会話のなくなってきました。
ある日、住んでいる通りが工事のため、1週間、毎日8時から1時間停電になります。
最初の夜、キャンドルの下、めずらしく二人で食事をとって、あるゲームをします。
それは、今まで秘密にしていたことをお互いに言い合うことです。
「アパートに最初にいったとき、住所録を見て自分の名前があるか確認した」
「最初のデートのとき、店員にチップを渡し忘れ、次の日に渡しに行った」
久しぶりに二人で話し込み、付き合い始めた頃のことを思い出し、親密な雰囲気になっていきます。
毎夜同じように食事をとり、昔の秘密をお互いに語り合い、そして停電最後の夜・・・。
『三度目で最後の大陸』は、インド人青年が主人公。
見合いで結婚が決まり、同時にアメリカでの仕事が決まります。
先にアメリカに行き、初めての土地で数週間働き、妻を呼び寄せます。
アメリカで一人で過ごしていたときの住まいが、ある高齢の女性が経営する下宿でした。高齢者特有の堅い調子のやりとりがありますが、主人公は母を亡くしていることもあり、敬意を持ってその老人に接します。
そして妻がやってきて、下宿を出て、アメリカでの生活が始まりますが、なれないアメリカと妻との生活に、息苦しい日が続きます。
そして1週間後、ふと、下宿の老人に会うことを思い付き妻と出かけます。
そして老人と出会い・・・。
ほかにもインドでの情緒不安定な女性の生活を、人の生の複雑さを感じさせる最後の1行のために淡々と描いた「ビビ・ハイルダーの治療」など、読む価値のある短編が満載です。
その人の生が鮮やかに浮かび上がる場面場面を、静かな筆致で描き出す。
その場面設定と人の思いを丁寧に扱う技は、見事に短編というフレームにあっています。
今後はその技でなにを描き出していくかが楽しみです。
切れ味は良くとも後味の悪い作品もあったので。
短編!、というのを読みたい方は、お勧めです。
下記は文庫です。うーんなんで表紙変えたんだろう。
- ジュンパ ラヒリ, Jhumpa Lahiri, 小川 高義
- 停電の夜に
ずーとこの本を映画化したと思っていたのですが、
これと間違えていたようです。
いやぁ、『停電の夜に』がとても邦画化してうけるとは思ってなかったので、謎が解けました。
誰も読まないであろう本の書評
果てしなき大地
J・アマ-ド
世界文学の旅が続いています。
J・アマ-ドさん、ブラジルの山本周五郎とでもいえばいいのでしょうか。
カカオの耕作地を巡る血なまぐさい争いを描いた1942年ごろの作品です。
地方のジャングルを、2人の首領が用心棒と弁護士を使って、カカオのために土地を自然と他人から奪います。
夢の地として、チャンスを探すギャンブラー、極貧の地方からやってくる農民、更なる金と名声を求めてやってくる弁護士、多くの思いを持ちこの地にやってくる人は、しかしこの血で肥えた土地の犠牲になっていきます。
感心したのはさすがラテンの地、人前で馬鹿にされたら必ず相手に復讐する、キリストを信じる、愛も重要事項、などです。
古い本なのですが、ジャーナリスティックになりすぎず、カカオにまつわる人々の思いを書き込んであり、胡散臭い高尚な信念よりも、普遍的な人々の欲とそのなれの果てが描かれ、なかなか読み応えのある本でした。
中世のような武力も現代のような法も必要な国取り合戦で、現代でも場所によってはこんな地域もあるんだろうな、と思ってしまいます。
しかし、文庫にもなっていないので、アマゾンにもありませんね。
ブログ検索でもいないし、文学専攻の学生以外は読んだりするのかなぁ、と思ってしまいます。
ブラジルの旅行にいくなら読んでも面白いかも。
誰も読まないであろう本の書評っていうのは、書いてしばらくするとなんだか妙な気分になります。
でも、やっぱり誰か読んでいたりするんですが。
この本
「アンダスン短編集」
「ワインズバーグ・オハイオ」
シャーウッド・アンダスン
の書評を書いたときも、誰がこの本を読むんだろうと思ってたりしましたが、コメントがついて驚いた覚えがあります。
まぁ、文庫になっているので、アマ-ドさんの本よりは読まれているかと思いますが。


