韓国への思い...その8
91年初頭。ソウルの街を覆った寒波の凄さをどう表現して良いだろうか。
とにかくものの数分すると鼻の中にツララが出来る。シャリシャリと鼻の中で氷が形成されるのが分かる。一体、氷点下何度くらいだったのだろうか...。オリンピックから3年、急速な発展を遂げた都市の景観を見る余裕も無い...。
ソウルはかつて漢城と呼ばれた。日本統治下には京城と呼ばれ、現在ではソウル。漢字は無い。日本語に訳せば【みやこ】と言った意味を持つ言葉だ。1200万の人口を数え、その人口密度の高さたるや、東京をも凌駕する大都会である。牧歌的風景の慶州からソウルへ...。景観は一変する。
先ず、空を見た。今はどうだか知らないが、その高層ビルを消し去る汚染された大気...。煙の街と言った方が良いかも知れない。10km彼方を見通す事は出来なかった。凄まじいまでの排気ガスの量である。【現代】や【大宇】と言った大手メーカーの作る乗用車は、当時はまだ洗練されたデザインでは無かったが、あらゆる道路を埋め尽くしていた。日本の渋滞どころではない。そして、その当時死亡事故率が世界一と言われた滅茶苦茶な運転(笑)!ナニワナンバーの俺ですら、かなりビビらされた。
かつての漢城の宮殿景福宮を訪ねようとした。
しかし、門を潜ると飛び込んで来たのは国会議事堂を思わせる西洋風の官舎であった。荘厳な石作りの建造物で、巨大なドームを持っている。国立博物館(クンニプチュアンパンムルガン)。朝鮮文化の宝殿と言って良いだろう。貴重な朝鮮青磁の傑作が、歴史を追って展示されている。今から60年以上前、この建物には別の名称が付けられていた。
朝鮮総督府。日本による併合後、全朝鮮半島に睨みをきかせ続けて来た占領政策のシンボルであった。韓国の人には申し訳ないが、この建物の持つ荘厳さには舌を巻いた。歴史的な意味を度外視すれば、その建造物としての価値は相当なものだったろう。ドームを下から見上げた時の圧倒的な空間の広がりは...忌まわしい記憶を宿しているとはとても思えないほどの物であった。
自分たちの側に起こった事として想像してみた。京都御所がある。皇居がある。その敷地のど真ん中に、完全にミスマッチな洋風の官舎を建てられたらどんな気持ちがするだろう。御所の敷地内に国会議事堂があったとしたら...そしてそこを外国人が使用していたとしたら...。こんな屈辱は他に考えられない。それを韓国と言う国は記憶している。
日韓併合は伊藤博文によって為されたが、日露戦争後のこの期間と言うのは日本の歴史の分岐点であったと思う。俺自身は、今日的なプチ民族主義だとか、プチ右翼と言った物には否定的だ。小林よしのりや、他の文化人の復古主義的思想には、昭和の軍国主義時代に帰結しようと言う匂いがプンプン感じられる。俺自身は、昭和の最初の20年間を近代日本史における【異端の時代】と位置づけており、こと軍国主義に関してはその一切を認めていない。その時代のヘソの緒を辿って行くと...原点はこの朝鮮支配に辿り着く。
驕り、と言う言葉が適当であろう。日清戦争で手に入れた筈の利権を剥奪され、怒りの声に後押しされて始まった日露戦争。20世紀に起こった最初の大戦争であった。ロシアが大陸横断鉄道...シベリア鉄道を完成させ、アジア諸国の支配を強めるのは目に見えていた。これに敢然と立ち向かったのは我が国だけである。その南下する先には、我々の住む日本列島も視野に入っており、純粋に国防の為の戦争だったと解釈出来る。江戸時代では考えられぬ程の重税を国民に強い、GNPの50%をも軍事費に投入して日本は勝利した。ロシアの衛星各国、アジアの弱小国はこの快挙に喝采を送った。
日本軍が西洋諸国と対外戦争をするのは初めての事であり、その軍規は徹底的に統制されていた。虐殺、強盗、強姦は言うに及ばず、大陸の人々の心象を悪くする行為は厳に慎まれた。世界デビューしたての日本は、必死に自分達の正当性をアピールしていたのだ。捕虜への対応も紳士的で、暴力、恫喝などは行われていない。第一次大戦後の日本兵とは全く質が違う。
ポーツマス条約で、しぶしぶ終戦協定を結んだ日本であったが、ロシアのプレッシャーが無くなるや態度を豹変。新時代の支配者としてアジアの諸国に臨むようになる...。
その象徴的な建物こそ、この旧朝鮮総督府であった。
隅々まで見た。あらゆる角度から写真も撮った。その場所で感じた事はテープに音声を録音しながら歩いた。戦争と言う形で侵略し、膨大な死者を出した中国とは立場が微妙に違う。韓国はそれが強制されたものであったとしても自ら併合に合意した。そして日本国の一部となった。日帝支配は35年間続いたが、その期間に日本のために戦わざるを得なかった事は不幸ではあるが、法制度的には仕方が無い。日本国なのだから。それを招いた国力の無さ、危機意識のレベルの低さも日本につけ込まれる要因だったわけで、韓国の近世の史家は、その事から十分に学ばねばならないだろう。
これはあくまで私見。
日本はこの半島を35年間支配した。35年である。人生の半分に匹敵する時間を、この国の人々は日本人として生きた。アイデンティティーを剥奪され、行きたくも無い戦争に従軍させられ、押し付けられた外国語を喋らされる。この感覚はいかほどの屈辱を伴っていただろう。残念ながら、日本人には理解出来ない感情である。
李朝の都は、そんな負の遺産を背負いつつ、俺を迎えてくれた。最初の総督府にいきなり頭をガツン!とやられてしまい...景福宮の雅な記憶は全てすっ飛んでしまっている。現在、この国立中央博物館は爆破され、跡形も無い。韓国人自身が、負の記憶を消し去る選択を選んだ。風水によって、最も韓国の力を御しうるポイントに建てられた巨大な官舎...。建っている間に実見出来た事は、意義ある事であった。
こんな風にしてソウルの旅が始まった!
とにかくものの数分すると鼻の中にツララが出来る。シャリシャリと鼻の中で氷が形成されるのが分かる。一体、氷点下何度くらいだったのだろうか...。オリンピックから3年、急速な発展を遂げた都市の景観を見る余裕も無い...。
ソウルはかつて漢城と呼ばれた。日本統治下には京城と呼ばれ、現在ではソウル。漢字は無い。日本語に訳せば【みやこ】と言った意味を持つ言葉だ。1200万の人口を数え、その人口密度の高さたるや、東京をも凌駕する大都会である。牧歌的風景の慶州からソウルへ...。景観は一変する。
先ず、空を見た。今はどうだか知らないが、その高層ビルを消し去る汚染された大気...。煙の街と言った方が良いかも知れない。10km彼方を見通す事は出来なかった。凄まじいまでの排気ガスの量である。【現代】や【大宇】と言った大手メーカーの作る乗用車は、当時はまだ洗練されたデザインでは無かったが、あらゆる道路を埋め尽くしていた。日本の渋滞どころではない。そして、その当時死亡事故率が世界一と言われた滅茶苦茶な運転(笑)!ナニワナンバーの俺ですら、かなりビビらされた。
かつての漢城の宮殿景福宮を訪ねようとした。
しかし、門を潜ると飛び込んで来たのは国会議事堂を思わせる西洋風の官舎であった。荘厳な石作りの建造物で、巨大なドームを持っている。国立博物館(クンニプチュアンパンムルガン)。朝鮮文化の宝殿と言って良いだろう。貴重な朝鮮青磁の傑作が、歴史を追って展示されている。今から60年以上前、この建物には別の名称が付けられていた。
朝鮮総督府。日本による併合後、全朝鮮半島に睨みをきかせ続けて来た占領政策のシンボルであった。韓国の人には申し訳ないが、この建物の持つ荘厳さには舌を巻いた。歴史的な意味を度外視すれば、その建造物としての価値は相当なものだったろう。ドームを下から見上げた時の圧倒的な空間の広がりは...忌まわしい記憶を宿しているとはとても思えないほどの物であった。
自分たちの側に起こった事として想像してみた。京都御所がある。皇居がある。その敷地のど真ん中に、完全にミスマッチな洋風の官舎を建てられたらどんな気持ちがするだろう。御所の敷地内に国会議事堂があったとしたら...そしてそこを外国人が使用していたとしたら...。こんな屈辱は他に考えられない。それを韓国と言う国は記憶している。
日韓併合は伊藤博文によって為されたが、日露戦争後のこの期間と言うのは日本の歴史の分岐点であったと思う。俺自身は、今日的なプチ民族主義だとか、プチ右翼と言った物には否定的だ。小林よしのりや、他の文化人の復古主義的思想には、昭和の軍国主義時代に帰結しようと言う匂いがプンプン感じられる。俺自身は、昭和の最初の20年間を近代日本史における【異端の時代】と位置づけており、こと軍国主義に関してはその一切を認めていない。その時代のヘソの緒を辿って行くと...原点はこの朝鮮支配に辿り着く。
驕り、と言う言葉が適当であろう。日清戦争で手に入れた筈の利権を剥奪され、怒りの声に後押しされて始まった日露戦争。20世紀に起こった最初の大戦争であった。ロシアが大陸横断鉄道...シベリア鉄道を完成させ、アジア諸国の支配を強めるのは目に見えていた。これに敢然と立ち向かったのは我が国だけである。その南下する先には、我々の住む日本列島も視野に入っており、純粋に国防の為の戦争だったと解釈出来る。江戸時代では考えられぬ程の重税を国民に強い、GNPの50%をも軍事費に投入して日本は勝利した。ロシアの衛星各国、アジアの弱小国はこの快挙に喝采を送った。
日本軍が西洋諸国と対外戦争をするのは初めての事であり、その軍規は徹底的に統制されていた。虐殺、強盗、強姦は言うに及ばず、大陸の人々の心象を悪くする行為は厳に慎まれた。世界デビューしたての日本は、必死に自分達の正当性をアピールしていたのだ。捕虜への対応も紳士的で、暴力、恫喝などは行われていない。第一次大戦後の日本兵とは全く質が違う。
ポーツマス条約で、しぶしぶ終戦協定を結んだ日本であったが、ロシアのプレッシャーが無くなるや態度を豹変。新時代の支配者としてアジアの諸国に臨むようになる...。
その象徴的な建物こそ、この旧朝鮮総督府であった。
隅々まで見た。あらゆる角度から写真も撮った。その場所で感じた事はテープに音声を録音しながら歩いた。戦争と言う形で侵略し、膨大な死者を出した中国とは立場が微妙に違う。韓国はそれが強制されたものであったとしても自ら併合に合意した。そして日本国の一部となった。日帝支配は35年間続いたが、その期間に日本のために戦わざるを得なかった事は不幸ではあるが、法制度的には仕方が無い。日本国なのだから。それを招いた国力の無さ、危機意識のレベルの低さも日本につけ込まれる要因だったわけで、韓国の近世の史家は、その事から十分に学ばねばならないだろう。
これはあくまで私見。
日本はこの半島を35年間支配した。35年である。人生の半分に匹敵する時間を、この国の人々は日本人として生きた。アイデンティティーを剥奪され、行きたくも無い戦争に従軍させられ、押し付けられた外国語を喋らされる。この感覚はいかほどの屈辱を伴っていただろう。残念ながら、日本人には理解出来ない感情である。
李朝の都は、そんな負の遺産を背負いつつ、俺を迎えてくれた。最初の総督府にいきなり頭をガツン!とやられてしまい...景福宮の雅な記憶は全てすっ飛んでしまっている。現在、この国立中央博物館は爆破され、跡形も無い。韓国人自身が、負の記憶を消し去る選択を選んだ。風水によって、最も韓国の力を御しうるポイントに建てられた巨大な官舎...。建っている間に実見出来た事は、意義ある事であった。
こんな風にしてソウルの旅が始まった!