生まれた環境は、その人にとって「世界のすべて」になる。
幼い頃は、その世界しか知らない。
だから、その世界に馴染めない自分を「おかしい」と思ってしまう。
本当は、自分がおかしかったのではない。
世界のほうが、小さかっただけなのかもしれない。
櫛木理宇さんの『悲鳴』と、映画『トゥルーマン・ショー』に触れて、そんなことを考えた。
『トゥルーマン・ショー』では、真実を知らないのはトゥルーマンだけだった。
周りの人はみんな真実を知り、それぞれの役を演じている。
だから彼が感じる違和感は、何度も「気のせいだ」と打ち消される。
けれど、その人たちが悪人だったわけではない。
その世界では、それが「普通」だったからだ。
心理学には「エコーチェンバー現象」という言葉がある。
同じ価値観の中で言葉や考え方が繰り返されることで、「これが普通」「これが正しい」という感覚が強化されていく現象だ。
SNSだけの話ではない。
家庭も、学校も、職場も、地域も。
閉じた世界は、いつでもエコーチェンバーになり得る。
その世界しか知らなければ、その価値観が世界のすべてになる。
だから人は、生きるために空気を読み、笑い、周りに合わせる。
それは弱さではない。
その環境を生き抜くために身につけた、生きる知恵だった。
でも、その心の奥では、ずっと違和感が悲鳴をあげている。
悲鳴は、声が小さいから届かないわけじゃない。
周りの人もまた、自分の悲鳴を押し殺して生きているからだ。
「我慢するのが普通。」
「みんなそうだから。」
「気のせいだよ。」
そんな言葉が繰り返されるほど、誰かの悲鳴は雑音として埋もれてしまう。
そして一番怖いのは、自分自身まで、その悲鳴を聞こえないものとして扱い始めることだ。
でも、違和感はわがままではない。
悲鳴は弱さでもない。
それは、魂の「不快」。
魂が、「ここは本来の私の居場所じゃない」と知らせてくれている、小さなサインなのかもしれない。
反対に、理由は説明できなくても心が安らぐ場所がある。
時間を忘れて夢中になれることがある。
何も飾らなくても、自分らしくいられる人がいる。
それは、魂の「快」。
人生とは、魂の快・不快を思い出していく旅なのかもしれない。
映画の中で、トゥルーマンに真実を伝えようとした女性がいた。
シルビアは、「あなたの世界だけがすべてじゃない」と伝えようとした。
人生にも、ときどき「シルビア」のような存在が現れる。
本。
映画。
恩師。
友人。
あるいは、何気ない一言をくれた誰か。
閉じた世界の外側があることを教えてくれる存在。
でも、その人は人生を代わりに歩くことはできない。
扉を開けることはできても、その扉をくぐるのは自分自身だ。
だからメンターとは、答えを与える人ではない。
自分の魂の声を思い出させてくれる存在なのだと思う。
算命学もまた、魂の声を思い出させてくれるメンターの一つなのかもしれない。
算命学は、「こう生きなさい」と人生を決めるものではない。
宿命という檻をつくるものでもない。
命式は、「あなたはこういう人です」と決めつけるためにあるのでもない。
魂が感じている快・不快を信じる勇気を与えてくれるもの。
「その違和感は間違っていない。」
「その心地よさを大切にしていい。」
そう静かに語りかけてくれる。
だから命式を読むとき、大切なのは「当てること」ではない。
その人の魂が感じている快・不快に耳を澄ませること。
誰にも届かなかった悲鳴が、たった一人に受け止められた瞬間、人は安心して自分を生き始めることができる。
違和感は、あなたを責める声ではない。
それは、魂から届いた手紙。
「あなたが生きる場所は、ここだけじゃない。」
そう知らせるために、魂は何度でも違和感という形で語りかけてくる。
違和感は、魂の不快。
心地よさは、魂の快。
その快・不快に耳を澄ませることが、自分の人生を生きるということなのかもしれない。
魂は、いつも答えを知っている。
だから今日も、その小さな声を信じて歩いていこう。



