恋散如花 -4ページ目

散るも覚悟なりっ!

「人やしるしる、人や知るべき、人や知る、浮世の人にそしられて、うれしと夜半にいくそ度、血に泣声を人や知る」 これは愛を誓い、それが破綻して一ケ月も絶たぬうちに他の女と結婚した山田美妙に作った悲痛な田沢稲舟の詩ですね。田沢稲舟、彼女の名前を目にする機会は滅多にないですかね。だから、書いてみる。知らない事を知る事は財産なのでw

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田沢稲舟

田沢稲舟は、明治7年鶴岡五日町に生まれます。家庭環境は極めて恵まれており、自由奔放の少女期を過ごしています。かなり早熟な文学少女で東洋のシェイクスピアと呼ばれた山田美妙に強い憧れを抱きました。美妙の作品 「胡蝶」を繰り返し何度も読んだようです。ここで、ふと重なるのが そう樋口一葉なんですね。一葉は明治5年生まれ、歳もほぼ同じで彼女の幼少期も大変恵まれており、自由奔放な少女期を過ごしています。一葉が小説を志して半井桃水と出会うのが明治24年 19歳の時かな。一方、稲舟は17歳の時に文学修業の為に上京します。

一葉が桃水を訪ねたように、上京した稲舟は憧れの存在であった山田美妙を訪問します。ここでも一葉同様、文学的思慕から恋愛的感情に移り変わってしまうんですね。まぁ、これは一葉が少しずつ募らせていった恋心に比べると、最初から憧れの存在だった山田美妙なわけで、当然の結果でしょうか。んで ここもお約束なんですが、山田美妙 プレイボーイなんですwww 自分の号に美妙なんて使うほどの男ですからねw 日本文壇史上初となる女性ヌードを押し絵に使用した男ですからねw 稲舟の家族は、そんな男に娘が翻弄されている事を知り、稲舟を実家に連れ戻す事になります。しかし、どうしても美妙との関係を断ち切れず、一葉同様 その想いを小説にするんです。これが認められて、明治28年 文芸倶楽部において「医学修業」が掲載され、女流作家としての脚光を浴びます。因みに、一葉が同文芸倶楽部において初めて作品が掲載された「にごりえ」も、明治28年と同年なんですね。完全に被ってます。

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山田美妙

同年、ついに美妙は稲舟にプロポーズし結婚に至ります。長年の夢がついに叶ったわけです。が、美妙の母親、祖母との同居が自由奔放に育った箱入り娘であった稲舟には大変苦痛だったらしく、精神的に崩壊してしまい、僅か三ヶ月で離婚という結果になりました。

どうしても、この稲舟を書くとまさに同期ともいえる一葉と比較してしまうのですが、一葉の作風が平塚らいてうが言ったように、彼女はあくまでも古風な女って言ったように、旧来からある男尊女卑、女性の辛抱さみたいなのを書き切る事で、その時代に寡黙な抗議をしたのに対して、稲舟の作風は師匠でもあった山田美妙の影響でしょうか、突拍子もないというか奇抜、奇想天外というか、なんかw 彼女の作品「しろばら」は凄いですね。親が決めた許嫁がいて、でも その人とは結婚したくない。自分は自由に生きようとする。しかし、許嫁に暴行されてしまい、入水自殺を図る。その遺体を カモメがつっついて食べられてるって内容。多分、そうなってまでしても、自我、自尊心の美しさを書きたかったのかもだけどw

余りにも早熟していた稲舟。離婚後、再び本格的な文壇活動に打ち込みますが、この時すでに病に冒され半年後の明治29年9月10日 急性肺炎により死去。享年21歳。遅れる事、この二ヶ月と十三日後、樋口一葉 肺結核により死去。享年24歳。咲くも覚悟なるば、散るもまた覚悟なり。ほんとは稲舟の命日に記事書こうとしたけど、ついサボって遅れましたw

うそ……うそ仰り遊せ、あなたはこ……こんなにおかきおきまで残しなさツていらしつたのですもの、もうお心はしれておりますよ……なる程あんなにかゝれては、しかも事実であツて見ればさう思召すも御尤です、だから私もおとめ申はいたしません……そ……其かはり私もどうか御一所に死なせて下さいまし 稲舟遺作「五大堂

創作 夢十夜!

こんな夢を見た。

夫人の体を、胸を切開し骨を削ろうとしていた。付添いの女が云った。「夫人、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算えあそばしますように」夫人は心配そうに訊ねた。「何かい、眠り薬をかい」「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝なりませんと、いけませんそうです」

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然し夫人は薬を呑もうとはしなかった。それでは治療が出来ぬと申してもやはり夫人は了解しない。不審に思った付添女が執拗に訳を訊くので夫人は仕方無いと思ったか、苦痛に満ちた顔で云った。「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。眠り薬は譫言を謂うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快らんでもいい、よしてください」

夫人は己の意中が夢現に吐き出されるのを何より畏怖していた。手術の痛みは想像を絶するものである。とても正気ではいられまい。然し夫人は決然と其れを望み何故か威厳があるように思えた。「刀を取る先生は、あの人だろうね」一瞬夫人が弱々しく見えた。「はい、あの御方です。いくら先生でも痛くなくお切り申すことはできません」

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やがて施術が始り医者の男が手にした刃は生き物のやうに、定まった軌道があるように綺麗に奔った。血潮が白衣を染めていく。刃がまさに骨に達する瞬間であった。夫人は半身起き上ったかと思うと刃をもつ男の右手を掴み一心に迷う事無くそれを己の胸に突き刺した。周囲のものは何が起きたか理解できないで茫然としていた。

「痛みますか」男が訊くと「いいえ、あなただから、あなただから、、」そう云い掛けて夫人は最後の瞳を男の顔に向けて云った。「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい」男は顔の表情を変える事無く唯云った。「忘れません」夫人はあどけない微笑を残し、そして唇の色が変わった。

二人は九年前に唯一回逢った事があった。それは会話も無く一瞬すれ違っただけだ。男が同一日前後して自ら命を断ったのを訊いて、その時それが両者のだと初めて気づいた。(終)

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恋愛至上主義をテーマに。これを理解出来る人と出来ない人は確実に存在するだろう。単なる夢なのか理想なのか。愛の実現方法に究極の手段は有るのか無いのか。現実的なのか非現実的なのか。現世か幻世か。答えは、そのにある。ベースは鏡花、夢十夜風に作ってみたw

<撮影地> 右京・鬼綱宅
<出演者> 鬼綱・横瀬葵・恋散如花
<脚本脚色>綱太郎
<衣 装>  鬼綱極

<夢十夜> 第一夜!

こんな夢を見た。

腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。

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真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。

自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。

大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。

自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。

すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
 
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。

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しばらくして、女がまたこう云った。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」

自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。-赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、-あなた、待っていられますか」

自分は黙ってうなずいた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。-もう死んでいた。

自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑かな縁の鋭どい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。

それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かるく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。

自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。

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しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。

それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。

すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。

真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。

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百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。(終)

百年待つのよ、百年。愛した人をw でも それは決して、現実的ではない。愛は人の欲求そのものであり、自己を満たすだけ、いうなればエゴの塊。でも、それに敢えて、夢であるが故に理想、真の愛、無償の対価を物語ってみる。 接吻した百合は彼女の化身だったのかな? その答えは これを読んだあなたの心次第なのです。そう、これが百年の恋っていうやつなんです。

<撮影地>右京
<出演者>鬼綱・恋散如花・右京の皆さん達
<原 作>夏目漱石
<衣 装>鬼綱極

説教!

なんか、詳細は解らないんですが椿と燕が 麗奈をいじめたっぽくて、麗奈がいじけてしまったんです。。。 同じ一門の仲間同士なのにヒドス。。

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そこで、燕の代理で麗奈に怒られてみました。ずーっと正座での説教だったんで、つらかったです>< この後、椿が麗奈に竹刀でひっぱだかれてましたwwwww
麗奈 コワスwwwwwww なんか、、、 今夜は麗奈を思うと何となく胸が一杯で眠れそうに有りません(笑)

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あと、ここ数日 金がねぇねぇ騒いでいたのですが、幸い知行が6キャラ育っていたりして、知行銭やら知行産物やらかき集め、市で2,3日出品して如何にか一旦 金欠から脱却できそうですw お騒がせしますたwww もぉ無駄遣いやめて100万くらい貯めて、そしたら武芸の全装備 一新したいなぁ♪

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愛のムチ好きな人!!商会員募集停止ちゅです♪苦情は商会秘書 ともこと花まで。ともこね、最近疲労気味で転んじゃったんだって!!ボンゴイェイ!

儚い想い!

それは世にも儚く、そして切ない物語。豆と二人っきりの一門チャット。

横瀬三郎太夫:布団取りこんでくるwww

(布団取り込みに行ってる最中)

豆猫 :じゃおふろ&めしぃ
豆猫 :おそっw
豆猫殿が《野良ネコの広場》から退出しました。
横瀬三郎太夫:大変ww
横瀬三郎太夫:俺の布団
横瀬三郎太夫:コインランドリーにあるって事が判明ww
横瀬三郎太夫:いねぇじゃんwwwwww

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それと、拠点で上様と2ショットドキドキ 上様、1人でばっつんばっつん殴り倒しまくりでしたw

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独りチャット好きな人!!商会員募集停止ちゅです♪苦情は商会秘書 ともこと花まで。ともこね、週末出没するって噂だよ!!ボンゴイェイ!

寝の国!(一葉風

二十八日夜、己のみ鬼門行く。途中電気冷風機をつけたるに、いと暮らしよき也。されど、なぞかう耐忍の力に乏しきや。途中、居眠りに成りけんかし。起床せるはつとめて深夜也。ふと気に成りて、電子利用記録を見る。以下のやり取り有り。綱は如何なる様子なりやと椿君言ふ。そは、夢の国にいざ着かんと篠君が言い給う。鬼門なるは別名 寝の国とも言ふ例えるもの也等と物語る。椿君云ふ給へざるに、我過去に経験せしりは、所作の音色を以て、之を起こす術あり。連打あればかの人起きるのを見たりけり。之聞き及びたる篠君、すは早速我も覚へじ哉。之を綱に計り試さんと欲し、鬼門に行く可しwwwと言い給う。なんたる微笑ましき事哉。電子記録に残るゝ記録見るに我ひそかに思いたりけり。篠君参り奉る暁には、かの所作我に是有り。今宵は、篠を思へば何となくむね打ふたがりて、ねぶるべき心地もせざりきwwwwwwwwwwwwww 夜深き三時再び華胥の国に着く。

二十八日の夜、1人で鬼門比叡山に行きました。途中、クーラーをつけると、それはとても快適でありました。しかし、どうしてこんなに忍耐力が乏しいのだろう。途中 寝落ちしてしまったようだ。起きたのは深夜早朝でした。ふと気になってログを見てみました。このような会話が残っていました。綱はどうしたのかな?と椿さんが言うと、寝ちゃったんだろうねと篠さんが仰りました。鬼門は別名 寝の国ともいうからね等とお話していました。椿さんが言うには、過去に寝落ちした人を所作の効果音で、これを連打して起こす方法をやっている人が居たとか。それを聞いた篠さんは、早速自分も、鬼門に行って綱にやってみようかなwwwと仰りました。なんと微笑ましい事でしょう。ログをみてそう思ってしまいました。篠さんが鬼門にお着きになり、このような所作が有りました。今夜は篠を思うと何となく胸が一杯で眠れそうに有りませんwwwwwwwwwwwww 深夜三時 再び夢の国に着く。

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所作を連打してしまった篠原翔 2010年6月撮影

篠原翔は鬼綱に仁義を切った。
篠原翔は鬼綱に仁義を切った。
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篠原翔は鬼綱に仁義を切った。
篠原翔は鬼綱に仁義を切った。
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篠原翔は鬼綱に仁義を切った。
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篠原翔は手を振った。
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篠原翔はいじけて座り込んだ。
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篠原翔はいじけて座り込んだ。
篠原翔はいじけて座り込んだ。
篠原翔はいじけて座り込んだ。
篠原翔はいじけて座り込んだ。
篠原翔はいじけて座り込んだ。
篠原翔は鬼綱に拱手をした。
篠原翔は鬼綱に拱手をした。
篠原翔は鬼綱に拱手をした。
篠原翔は鬼綱に拱手をした。
篠原翔は鬼綱に拱手をした。
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篠原翔は鬼綱に拱手をした。
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篠原翔は鬼綱改に拝んでいる。
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篠原翔は鬼綱におじぎをした。
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篠原翔は鬼綱におじぎをした。
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篠原翔は鬼綱に拝んでいる。
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篠原翔はいじけて座り込んだ。

ゴメン 自分で書いててフイタwwwwwwww

古文調好きな人!!商会員募集停止ちゅです♪苦情は商会秘書 ともこと花まで。ともこね、ちょっとの間おやすみなんだよ!!ボンゴイェイ!

一葉女史考・散

我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし - 樋口一葉 -

日記を見ていて思うのは、どうも明治24年の終わり頃から一葉と桃水の距離が急速に近くなっていると感じざる得ないのです。11月頃の一葉と言えば、差し障る理由 即ち桃水への嫉妬から距離を置いていた頃で、12月に入るとその誤解が解けて行った感じですね。そして1月に入ると、一葉は完全に恋のモードに入っているわけです。当然、日記に記載していない桃水との逢瀬も有ったし、日記に記載していない桃水との手紙のやり取りも多々有るわけです。1月8日の不可解とも思える一葉の心情や、2月4日の桃水宅の訪問、そして宿泊を促す桃水の言葉。彼は過去に暇しようとする一葉を制して、もう少し居なさいと言った事は有ります。また夕食もして行きなさいと言った事も有ります。しかし、本宅でない家に宿泊して行きなさいと言った事はないんですね。一葉が難色を示したので、その後直ぐに自分は違う場所に泊まると言っていますが、状況から考えるに家族が同居している本宅ではなく隠れ家です。そう易々と言える言葉ではないんですね。当時は、婚姻を前提としない男女の交際はタブーです。ましてや、一夜を供にする等は考えられない事です。それをいとも簡単に言ってしまった桃水。それを言える前提が既にこの時、有ったのではないかと疑ってしまいます。

また、3月に入ると桃水は一葉の家の近くに引っ越ししてきていますよね。この後、一葉は何度も桃水のもとを訪れていますし、家が近くになって嬉しいと日記にも記載しています。この辺りの過程を見るに、やはり12月に一葉と桃水との距離を縮める何かが有ったのではないでしょうか。そこで、明治24年12月分の日記で、それを探りたいのですが、残念ながらその月の日記の多くが散逸、処分されているんですね。後の調査で12月25日の日記の断片とされる記載には「今日は、半井うし、約束の金持参し給ふべき約なれば、其事となく心づかひす。庭前の梅一輪(以下散佚)」と有り、桃水と一葉の間に生活資金の援助、金銭の授受が記されています。12月21日の桃水の求婚の記事もそうですが、ちぎられた部分が有って、この月に何が有ったのか知る術はなさそうです。ただ言える事は、二人の仲がかなり親密になっていたのは確かと言う事です。しかし、そんな二人の蜜月な関係にも影が見え始めて来ます。

明治二五年四月十八日
午前之内に片町の大人がり行く。此日頃、悩み給ふ所おはす上に、何事にやあらむ立腹の気にて、はかばか敷は物語も賜はらぬなむ心苦しければ、いでや今日こそは御心取らんとて出でたつ。小石道のいと悩ましきをからうじて行くに、河村君よりの下女、水など汲居たり。大人は早、起出給へりやと問ふに、うなづきてしるべをなす。(略)此頃はあやしう異人のやうに成給へり。御病気はいかゞぞなど問ふに、少しは好し。それど頭のいたきのみは困じ居る也とて、後脳のかたを、手してたゝき居給へり。(略)我れもいろいろいふこと有しが、五月蠅げなるに遠慮して、そこそこに暇ごひしぬ。されども止めんともし給はざりけり。帰路怳々たのしまず。何ごとをかく計怒られけん。我れに少しも覚えなし。いかにせば昔しの如く成るべきにや。(略)今日は何事のなすもなくて日を暮しぬ。


午前中に片町の桃水先生のお宅に行く。この頃、お悩み事がある上に、なにかご立腹の様子で余りお話しもして下さらず、胸が苦しいので、今日こそは何とかご機嫌を取ろうと思って出かける。小石の多い道を苦労して着くと、河村家の女中さんが水を汲んでいました。先生はお目覚めですかと聞くと、うなずいて案内してくれる。(略)この頃はまるで別人のようになってしまわれた。御病気はいかがですかとお尋ねすると、少しは良い。しかし頭が痛いのだけは困ると仰って、頭の後ろを叩いておられた。(略)私も色々お話があったのですが、うるさそうなご様子なのでご遠慮してお暇をする。けれども先生は私を引き留めようともなさらなかった。帰路は大変辛かった。何をあれほど怒っておられるのだろう。私には少しも思い当たる節がない。どうしたら昔のようになって頂けるのかしら。(略)今日は何もせずに過ごしてしまった。

この頃の一葉は、桃水の顔色一つに一喜一憂する。そんな状態になっていたわけですね。彼の機嫌を取ろうとする一葉の姿は、どこか愛らしくも切なく見えてしまいます。この時、桃水は痔を患っており大変な苦痛を強いられていたようです。それに、自身が創刊した雑誌 武蔵野も中々うまく軌道に乗らず それ等もあって機嫌が悪かったと思われますが、個人的には他にも理由があった気がしてなりません。敢えてここで記す事は避けます。

明治二十五年四月三十日
殊に今日は小石川稽古なり。(略)帰路、直ちに片町の師の君がり訪ふ。大人は次の間におはすなるべし、河村君老母及内室、小女等、火桶がほどりに居たり。大人の病気を問ひなどせしに、師君痔疾にておはせしを、いたく秘し給ひしから、一時になやみつよくなりて、一昨日切断術を行はれぬと也。いたく驚きて、いかにやと気遣ふに、いとなめしけれど、病間にて対面せんとて此間へ通す。石炭酸の香いとつよし。こは、日々洗できすればなめり。種々談話。流石の大人もいとくるしげにみえ給ふ。


殊に今日は小石川の稽古日でした。帰路、直ぐに片町の先生を訪れる。先生は次の間にいらっしゃるのでしょうか、そこには河村さんの母上や奥様お嬢様たちが火鉢の傍らに居られました。先生のご病気をお尋ねすると、実は先生は痔を患っておられたのを、いたく隠しておられ急に酷くなり、一昨日手術を為されたとの事です。私は非常に驚いてどんなご様子かと心配していると、病室にて御目にかかりましょうとおしゃって、失礼ながら部屋へ通して頂く。石炭酸の臭いが強い。これは毎日洗浄するためでしょう。色々お話ししました。さすがの先生も酷く苦しんでいるように見えました。

用事が終われば、直ぐにでも桃水を訪れる一葉。この日初めて彼が、痔を患っていた事を知り、驚き心配した様子です。この後、一葉は足しげく桃水のお見舞いに通っています。この頃の日記には、自分に何か出来る事はないか心配している様子が記載されています。有る時、桃水の見舞いを優先していたので、小石川の月例会に遅れ、中島歌子が大立腹した事もあったようです。さて、ここで一葉を語る上で避ける事の出来ない歌塾 萩の舎に関して少し話したいと思います。一葉は前述の通り、学業を道半ばで諦めざる得ませんでした。しかし、如何しても学問をしたい一葉の気持ちを察し、父親は一葉が14歳の時に、中島歌子が主宰していた歌塾 萩の舎に入門させます。この萩の舎には、皇族、華族、政府高官の子女達が数多く入塾しており、全盛期には1000人程の生徒がいたそうです。一葉はここで、和歌や古典、書道を学び、田辺竜子、伊藤夏子らとともに萩の舎の三才媛ともまで呼ばれるほどの才能を発揮しました。終生、一葉はこの萩の舎との関係を維持し続けます。彼女にとって、ここが学校であり、同世代の仲間が集う青春の場所でも有ったわけです。詰る所、後の桃水との断交も、この萩の舎を取るか桃水を取るかの選択であったと言っても過言ではないんです。

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歌塾 萩の舎発会記念写真 明治二十年撮影 三列右より3人目樋口一葉 二列右より5人目中島歌子

明治二十五年五月二十二日
野々宮君と種々ものがたる。半井うしの性情人物などを聞くに、俄に交際をさへ断度なりぬ。さるものから、今はた病ひにくるしみ給ふ折からといひ、いづくんぞよく欺ることいひもて行かるべき。快方を待ちて心に思うふ。


野々宮さんと色々お話をしました。桃水先生の人となり等を聞くと、今すぐにでも交際をお断りしたいと思うのですが、今はご病気で苦しんでおられる折りでもあり、そんな話をする事は出来ません。病気が良くなってからと心の中で思う。

野々宮菊子は、その前日に一葉宅を訪れ宿泊しています。その夜も、桃水の悪い噂を彼女から、一晩中聞かされるんですね。そして、一葉はそれを鵜呑みにしてしまうんです。このような話は、実は今回が初めてではないんです。桃水の弟が鶴田たみ子との間に子をもうけた時に、桃水は釈明の伝言を野々宮菊子に頼むわけです。しかし、この時も事の顛末を一葉に話しておきながら、それでも子供はどうやら桃水の子らしいと話しているわけです。そもそも一葉と桃水を引き合わせた人物こそ、この野々宮菊子なんですね。桃水と一葉の接近、別離には何時も彼女の影があるんです。最初に一葉と桃水を引き合わせる。そして一葉に桃水の艶聞を聞かせる。これで一時二人の仲が疎遠になると、今度は桃水が一葉の事を心配していたと話し、桃水を訪れるよう促す。そして、一葉と桃水の関係が修復されると、また桃水の悪い噂を一葉に話す。この後直ぐ起きる断交の原因も彼女なんですね。野々宮菊子自身、一葉と同様の思慕を桃水に抱いていた為、三枚目に徹する事が出来なかったのは、仕方ない事だったかもしれません。この頃になると、萩の舎内でも一葉と桃水との関係が醜聞沙汰になっていました。6月3日に萩の舎を主宰している中島歌子の実母幾子が急病で倒れ亡くなります。その十日祭の儀式の折、一葉は同門であり、生涯で数少ない大親友でもあった伊藤夏子に詰問されるという事態になりました。

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野々宮菊子

明治二十五年六月十二日
十日祭りの式行ふ。ことに親しき人十四、五人招きて小酒宴あり。伊藤夏子ぬし、不図、席を立て、我に、いふべき事あり。此方といふ。呼ばれ行きしは、次の間の四畳計なるもののかげ也。何事ぞと問へば、声をひそめて、君は世の義理や重き、家の名や惜しき、いづれぞ。先この事問まほしとの給ふ。いでや、世の義理は我がことに重んずる事也。是故にこそ幾多の苦をもしのぐなれ。されど家の名、はた惜しからぬかは。甲乙なしといふが中に、心は家に引かれ侍り。我計のことにもあらず、親あり兄弟ありと思へばといふ。さらば申す也。君と半井ぬしとの交際断給ふ訳にはいかずや、いかにといひて、我おもて、つとまもらる。いぶかしふもの給ふ哉。いつどやも我いひつる様に、かの人年若く面て清らになどあれば、我が参り行ふこと世のはばかり無きにしも非ず。百度も千度も交際や断ましと思ひつること無きならど、受し恩義の重きに引かれて、心清くはえも去あへず、今も猶かくて有なり。それど神かけて我心に濁りなく、我が行にけがれなきは、知り給はぬ君にも非じ。さるをなどこと更にかうはの給ふぞと打恨めば、そは道理也。さりながら、我かかることいひ出づるには故なきにしもあらず。されど今日は便わろかり。又の日、其訳申さん。其上にも猶、交際断がたしとの給んに、我すらうたがはんや知れ侍らずとて、いたく打歎き給ふ。いぶかしともいぶかし。かゝるほどに、人々集り来ていとらうがはしく成ぬれば、立別れにけり。何事とも覚えねど、胸の中にものたゝまりたる様にて、心安からず。人々帰りて後、この事計思ひぬ。


十日祭の儀式を行う。ことに親しい人十四五人を招いて、ささやかな酒宴がありました。伊藤夏子さんが突然席を立たれ、私に言いたい事があるので、こちらへと言う。呼ばれて行くと次の間の四畳ばかりの部屋の物陰でした。なんのお話しでしょうと聞くと、声をひそめて、あなたは世間の義理を重んじるのと、家の名誉を惜しむのと、どちらを大事にしますか。まずこの事をお聞きしたいのですと仰る。勿論、世間の義理は私が特に重んじる事です。この為にはどんな苦労もいといません。然し、家の名誉もまた惜しまない訳ではないです。どちらも甲乙無しと思うのですが、気持ちは家の方に引かれます。それは自分を思うのではなく、親や兄弟がいる事を思うのです。それならば言いますが、あなたは半井先生との交際をおやめになる訳にはいきませんか。どうですか。と私の顔をじっと見つめなさる。変な事を仰いますね。前にも申し上げましたように、あの方は年も若く美男子なので、私が往き来しますのは世間に対して遠慮がないわけでは有りません。これまでに何度も交際をやめようと思った事がない訳でも有りません。しかし、受けたご恩の事を思うときっぱりお別れする事も出来ず、このような状態です。神に誓って私の心にやましい部分は無く、汚れた所も有りません。この事はあなたがよくご存じでしょう。それなのに何故、こんな事を仰るのですか。と恨み申しますと、それはもっともな事です。然し私がこんな事を言いだすのには理由が無い訳では有りません。今日は都合が悪いので別の日にその訳をお話ししましょう。その上でなお、交際を断てないという事であれば私まで疑わざる得ません。と悲しくなさる。こうしているうちに周囲の人々が集まってきて騒がしくなったのでお別れしました。何となく胸の中に物が詰まった感じで心が落ち着かない。皆が帰った後もこの事ばかり考える。

ここで一葉は、桃水への想いを手のひらを返したように、我が身の保身に走ってしまいます。この辺りは現代人の我々から見ると少々理解しづらい部分でも有りますね。名誉や対面を何よりも重んじる、そんな風潮が色濃く残っている時代ですし、ましてや一葉にとって萩の舎を切り捨てるという選択は最初から無いのです。小説家として自立して食べて行く事もままならない状態ですし、萩の舎で歌子の代講を勤めて僅かな生活費を稼いでいましたし、何より萩の舎を失うと言う事は、一葉が他の外部の人間、伝手等を断つにも等しい事だった訳です。萩の舎で自分が知らない間に桃水との関係が醜聞沙汰になっている事に驚いた一葉は中島歌子に相談をします。

明治二十五年六月十四日
もとより知らせ給ふ様に、我より願ひての交際にも非ず。家の為、身のすぎわひの為、取る筆の力にとこそたのめ、外に何のことあるならず。さるを、か様に人ごとなどのしげく成るなん、いと心ぐるし。哀、師の君の御考え案はいかにぞや。(略)師の君、不審気に我をまもりて、さては、其半井といふ人とそもじ、いまだ行末の約束など契りたるにては無きやとの給ふ。こは何事ぞ。行末の約はさて置て、我いさゝかもさる心あるならず。師の君までまさなき事の給ふ哉と口惜しきまでに打恨めば、夫は実か実か、真実、約束もなにもあらぬかと問ひ極め給ふも悲しく(略)師の君さての給ふ、実は、その半井といふ人、君の事を世に公に妻也といひふらすよし、一度は驚きもしつ、ひたすら彼の人にくゝつらく、哀、潔白の身に無き名おほせて世にしたり顔するなん、にくしともにくし。(略)猶よく聞参らせで、田辺君、田中君なども此事を折々にかたりて、我が為いとをしがられしとか。さるは世の聞こえもよろしからず、才の際なども高しともなき人なるに、夏子ぬしが行末よ、いと気のどくなるものなれなどいひ合へりしなりとか。是に口ほどけて、師のもとに召使ふはしためなどのいふこと聞けば、此取沙汰聞しらぬものは此あたりになしといふほど、うき名立に立たるなりとか。浅ましとも浅まし。明日はとく行て、半井へ断りの手段に及ぶべしなど師君にも語る。


歌子先生もご存じの通り、私個人の気持ちで始めた交際ではないのです。家族を養う為の文学修業であり、それ以外に何もないのです。なのにこのような噂が広まった事は大変心苦しい次第です。歌子先生はどうお考えなのでしょうかと尋ねる。(略)すると歌子先生は不審げに私を見つめて、それでは、その半井という人とあなたは、まだ将来の約束などはしてないのですかと仰る。それはまた、何という事を仰るのですか。将来の約束どころか、私にはそんな気持ちは有りません。歌子先生までもがそんな事を仰るなんてと悔しさに恨み言を申し上げると、それは本当なのですか、本当にそうなのですか。約束はしていないのですかと問い詰められ悲しくなりました。(略)歌子先生は、実はその半井という人が、おおっぴらにあなたを妻だと言いふらしているとの事をある人から私も聞きました。私は飽きれて驚くばかりでした。潔白の身に無実の汚名をきせて、自分は得意顔していると思うと、あの人が憎くて憎くてたまらない。(略)なお先生のお話をよくよく聞くと、田辺さんや田中さん等も時々にこの話しをされて、私の為に大変残念な事であると思っておられたとか。あの半井と言う人は世間の評判もよくなく、才能も高くないのに、夏子さんが本当にお気の毒なことよと話しあっておられたとか。先生のお宅のお手伝いさん達がまでもが、この話をいているなどと聞くと、この噂を知らない物は、この辺りには誰も居ないと思うほど噂が広がっていたとか。本当に浅ましい限りだ。明日、半井へ絶交の話しをしようと思う事を歌子先生に申し上げました。

翌日、桃水宅を訪れた一葉でしたが、この日は周囲に沢山の人が居た事、また一葉の髪型が何時もと違っていた事を桃水が褒め称えたのに拍子抜けした感じで、肝心の用件を言わぬまま家を後にしています。一葉が断交の意思を伝えるのは6月22日になります。この間、一葉は萩の舎の知人たちに桃水との断交を訴え、火消しに躍起になっています。特に6月12日に一葉を詰問した伊藤夏子は桃水との断交を非常に喜んだようです。無比の親友として女癖の悪い噂が絶えなかった桃水を一葉から遠ざける事こそ、彼女を救う唯一の道だと確信していたからでしょう。一葉五十回忌の折、伊藤夏子はこう回想しています。「桃水が、夏子さんと、つり合ひのとれる人でしたら、何とかもう少し言ひやうもあつたでせうが、つい強い事を、言つて了(しま)ひました。死後日記を読んだ人が、一葉は恋に死んだの、桃水に対する、思慕の情は、友情以上でたしかに恋だのと、言ふているのを見まして、そんな好きだつたのを知らないで、思ひやりの無い事を言ふて了(しま)ひさぞ情け知らずと思はれたらぅと、済まないやうに思ひました。でも夏子さんは、桃水の世話女房に収まつて、手鍋さげてもと云ふほどの決心は、ついていなかつたらうと思ひます。」

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大親友であった伊藤夏子

明治二十五年六月二十二日
家に帰る。こゝにもさまヾに相談して、さて半井うしのもとに返すべき書物もて行。(略)例しらぬにしもあらぬに、あたら御朝ねの夢おどろかし奉る罪ふかけれど、申さで叶は事ありて、かくは参り来つる也といふ。君何事ぞヽと問ひ給ふ。いでや我が上の事のみならず、君様の御名もいとをしくてなん。実は、我がかく常に参り通ふこといかにしてもれにもれけん。親しき友などいへば更に、師の耳にもいつしかいりて、疑はるゝ処かは、君様とと我れ、まさしく事ありと誰もヽ信ずめる。いひとかんとすれば、いとゞしくまつはりて、此無実の名晴るべき時もあらじ。我身だに清からば、世の聞えはゞかるべきにも非ずとおもへど、誰は置きて、師の手前是によりてうとまれなどせられなば、一生のかきんに成べき、それ愁はしう、と様かうざまに案じつれど、我、君のもとに参り通ふ限りは人の口ふさぐこと難かるべし。依りて今しばしのほどは御目にもかゝらじ、御声も聞じとぞおもふ。其こと申さんとて也。しかはあれど、我は愚直の性、からずヽ受参らせたる恩わするゝものんは候はず。かゝること申出る心ぐるしさ推し給へといふ。(略)世にさまヾにいひふらしたる友の心もいかにぞや。信義なき人々とはいへ、誠そら言計り難きに、夫をしも信じ難し。あれと是とを比べて見るに、其偽りに甲乙なけれども、猶目の前に心は引かれて、此人のいふことヾに哀れ悲しく、涙さへこぼれぬ。我ながら心よはしや。かゝるほどに国子迎ひに来る。家にてもいさゝかはうたがひなどうするにやあらむ。打つれて帰る。


家に帰りました。家族にも相談して、桃水先生から借りていた本を持って行く。(略)先生の日常を知らぬわけでもないのに、お休みの所を起こしてしまいまして、申し訳御座いません。是非申し上げなくてはいけない事があり参った次第です。と言う。それは、君、一体何事とお尋ねになる。それは私の名誉の為ではなく、先生のお名前を汚す事になるのが残念に思われるのですが、実は私がこうして何時もお訪ねするのを、どのように知ったのでしょうか、親しい友は勿論、中島歌子先生までもが、お疑いになるばかりではなく、あなた様と私の間に何か特別な関係があるのではないかと誰もが信じているようです。その説明をしようにも、益々話しがこんがらがって、何時までもこの無実の名を晴らす事は出来ないようです。自分自身が清らかでさえあれば、世間の評判など気にすべきではないと思っていても、他の人は差し置いても、中島歌子先生からこの事で疎んじられては、私にとって一生の傷になるでしょう。それが悲しく、あれこれ考えたのですが、私があなた様のもとを出入りしている限りは、人々の口をふさぐ事は出来ないでしょう。ですから、今しばらくの間はお目にかからずお声も聞くまいと思うのです。その事を申し上げようと思って今日はお訪ねしたのです。しかし、私は愚かものではありますが、決して先生から受けたご恩は忘れるものでは有りません。こんな事を申し上げる私の心苦しさをどうぞ、御察し下さい。と言う。(略)世間にあれこれと言いふらした友達の心はどんな気持ちなのだろうか。世の中は信義なき人ばかりだけども、嘘か真かも判らない噂を信じる訳にもいかない。あれやこれやと思い比べてみると、その偽りに甲乙の差はないけれど、やはり目の前のことに心は惹かれて、情に流され、桃水先生の仰る事が全て身に染みて悲しく、涙がこぼれてしまいました。我ながら何とも心弱い事でした。こうしているうちに邦子が迎えに来る。家でも少し私の事を疑っているのだろうか。一緒に帰る。

一葉と桃水の断交を記した日の日記です。6月22日、一葉が中島歌子に相談した際に一葉は桃水を「半井」と、また伊藤夏子に弁明する手紙を書いた際も「半井」と彼を呼びつけにしているんですね。萩の舎の知人たちには、醜聞沙汰の釈明をする際には、桃水の事を呼びつけにしているんです。また、この日記にも他の人を差し置いて中島歌子先生に疑われ、疎んじられるのだけは一生の傷と言ってますね。先にも述べましたが、この部分だけをみても、やはり歌塾 萩の舎は、一葉にとって桃水よりも遥かに大きい存在、位置を占めていた事が解ります。中島歌子は一葉の歌の師であり、一葉が同じく師と仰ぐ桃水を面白く思っておらず、桃水に代わって自分が小説の添削をしても良いと申し出ています。歌子は一葉を手放したくなったようで、一時は彼女を養子にして歌塾の後継ぎにするような事もほのめかしています。小説家としての道が未だ見えない一葉にとって、若し夢が叶わない時は歌道で生計を立てるしか道が残されておらず、一葉は萩の舎で自分の位置を失うという事は致命的な事でもあったのです。

当日の記載から思うに、萩の舎のメンバー達に話していた絶交とは、程遠い感じがしますね。ものの言い方も柔らかいですし。一葉としては周囲には絶交を主張していましたが、実際には師弟関係の解消に留めた感じで、本能的に桃水との僅かな交際の望みを残した感じがしてなりません。桃水は一葉から断交の説明を受けると、野々宮菊子に一葉の事をしきりに褒め、一葉は戸主で有るから、他の家に嫁ぐ事が出来ない身である。私がなんとか家を出る事が可能な身ならば、無理にでも養子に貰って頂くのにと冗談交じりで話した事を説明しました。この話しを野々宮菊子は周囲に言いふらしたわけです。一葉は当日の日記で、「世にさまヾにいひふらしたる友の心もいかにぞや。」と野々宮菊子を批判する文章を書いています。が、火の無い所に煙はなんとやらで、一概に今回の断交に至った要因は桃水の発言や、野々宮菊子、嘘か本当かも解らない噂話を広めた知人達だけの責任とは言えない節もあるんですね。一葉はどうも、萩の舎内で知人達に桃水とのノロケ話と誤解されても仕方ないような事を話しているんです。萩の舎の三才媛といわれた一人、田辺竜子の回想録に因れば、一葉は何時も桃水の話しばかり口にしていて、ある時は下宿先を訪ねたら、桃水が未だ寝ていたので、こっそり布団をもう1枚掛けてやった話し等を周囲にしていたようです。田辺竜子が、そのような話しは滅多にするものではないですよ、人に何か言われますよと忠告しても、誰にもで桃水の話しをしていたようです。果たして評判に上りました。と田辺竜子は述べています。この頃の一葉は、あまり意識する事なく、周囲に注意をも忘れてしまう程、心は桃水の事で一杯だったんでしょうね。

次回 如 に続く。

一葉女史考・恋

切なる恋の心は尊きこと神のごとし 風情うかぶべからず 凡眼みるべからず 歌へどもおよばず 描けどもならず - 樋口一葉 -

樋口一葉。言わずと知れた明治期の女流作家ですね。24歳という若さでこの世を去った彼女。半井桃水とのノロケ話しを口ずさんだこともあった短い一生。こんな短い人生だったのに、今なお人々を魅了する彼女。一葉が書き遺した日記の中から、桃水との恋に関連する部分を抜き出してみようと思います。

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樋口一葉

明治24年4月15日、小説家を志した19歳の一葉は、その為に師匠となるべく人物を知人の仲介で紹介され、半井桃水と初めて対面します。この時 桃水31歳。一葉は、初対面の桃水に淡い恋心を抱いた感があります。希望と新世界への憧れが一杯な彼女に対し、既にその世界に身を置く桃水、どこか浮世離れした自由人の桃水は、世間を何も知らないうぶな一葉の目には、大変魅力的に映ったようです。当日の日記に、それを伺う事が出来ます。

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半井桃水

明治二十四年四月十五日
「初見の挨拶などねんごろにし給ふ。おのれまだかヽることなければ、耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへずのぶべき詞もなくて、ひたぶるに礼をなすのみ成き。よそめいか計おこなりけんと思ふもはづかし。」


初めて対面して、耳ほてって、唇もかわき、なにを喋ったらいいのかも解らず、とにかく頭を下げるばかりでした。周りから見れば、自分がどんなに愚かに見えたかと思うと恥ずかしい限りでした。

続いて、桃水への第一印象をこう記しています。

「姿形など取立てしるし置かんもいと無礼なれど、我が思ふ所のままをかくになん。色いと白く面おだやかに少し笑み給へるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈は世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へばまことに見上る様になん。」

お姿、容貌などを書く事は大変失礼な事だとは思いますが、思った通りを書いておきます。顔色は良く穏やかで少し笑った顔が三歳の子供でも懐ついてしまうほど。身長も高く肉つきも良く、本当に見上げる程でした。

更に、桃水との再会をこう綴ります。

明治二十四年四月二十二日
「人一度みてよき人も二度めにはさらぬもあり。うしは先の日ま見え参らせたるより、今日は又親しさまさりて、世に有難き人哉とは思い寄ぬ。」


人は最初良い人だと思っても、二度目に会えばそうでもないのに、先生は先日お会いした時よりも更に、今日は親しみを深く感じられました。こんな立派なお方はそう、いらっしゃらないものと思いました。

明治二十四年四月二十五日
其夜桃水師のもとより消息あり。小説の事にももの語りあり。(中略)さはる事なからんには、明日午前より神田の表神保町俵とかやいへる下宿までもうこよと也。母君にも計り参らするに、行ねとの給ふ。今宵は、何となくむね打ふたがりて、ねぶるべき心地もせざりき。


夜に桃水先生より手紙あり。小説について話しがしたいし、差し支えなければ、明日の午前中に神田の表神保町の俵屋という下宿所まで来てほしいとの事。母に相談しましたら、行っても良いとの返事。何となく今夜は胸が一杯で眠れそうに有りません。

今夜は胸が一杯で眠れそうに無い。小説の事に関し思いが募ったというよりは、むしろ下宿先に来て欲しいという言葉に、今までとは違い家族が居ない二人きりの空間に心を膨らませたんじゃないかなと思います。翌日の日記にも外出の際、大変嬉しい思いで家を後にした記述が書かれています。当日の朝、天気は黒雲に覆われ、今日は雨になると一葉は落胆気味になります。母親は、彼女に天気が悪いから出かけるのは止めなさいと諭します。しかし一葉の心は、既にここに非ず。幸い、出かける支度をしている間に天気は晴れ、彼女自身の気持ちも晴れたように、家を後にします。桃水の下宿先を緊張した様子で訪問した一葉。そこで彼から、お話ししたい事があると切り出されます。

明治二十四年四月二十六日
「それより先に今日はまづ君に聞え置度事ありてとの給ふ。そは何事にかと問ひ参らすれば、いなとや、余の事にもあらず。余や、いまだ老果たる男子にもあらず、君はた妙齢の女子なるを、交際の工合甚だ都合よろしからずと君真に迷惑気にの給ふ。さもこそあれとかねて思へば、おもて火の様に成ておのが手の置場もなく、只恥がはしさをもておほはれたり。猶の給はく、よりて吾れ一法を案ぜり。そは外ならず。余は君を目して我が旧来の親友同輩の青年とみなして万の談合をもなすべければ、君は又余をみるに青年の男子也とせで、同じ友がきの女子と見給ひて隔てなく思ふ事の給ひねと聞え給ひて打笑みたり。」


まず今日は、君に伝えたい事があると仰りました。それはなんでしょうとお尋ねしますと、自分は未だ若く、君もまた若い女性である。それでお付き合いをするのは都合が悪いと、大変迷惑そうに仰いました。自分も同じ事を考えていたので、顔が火のように熱くなり、手の置場にも困り、ただ恥ずかしい限りでした。そして、先生は一計を案じ、私は、君を旧知の男友達とみなし、何事の相談にものる。君は私は男と見ず、同じ女友達として遠慮する事無く相談して下さいと微笑んでいました。

この辺りは考えてしまいますね。自ら一葉を誰もいない下宿先に呼び出しておきながら、お互い男女の意識はせず、友達のようにやっていこうと言う桃水。一葉も、その辺りに、やはり恥じらいを感じていたのか、赤面して動揺した感じですね。この場合二通りの考え方が出来ると思うんです。一つは、この時 既に桃水自身、一葉を少し気に出し始めていて、小説の師という立場であるが為、自分は卑しい気持ちは持っていないと敢えて示したのか。もう一つは、やはり その言葉通り、一葉の芽生え始めた小さい慕情を薄々感じ取り、それに釘を刺すために言ったのか。個人的には、この時点では一葉よりも、むしろ桃水の方が彼女を意識している感じがしてならないんです。花柳界で女性慣れしていた桃水にとって、地味で物静かな一葉の姿が却って新鮮に映っても不思議はないんですよね。

この後、暫くして一葉は小説を書き、桃水の添削指導を受け、時間が余れば、足しげく図書館に通い小説家としての素養を磨く為、勤勉の日々を送ります。この時、図書館を利用するのは専ら男性のみで、女性の一葉は周囲の男性閲覧者から好奇な目で見られ嫌な思いをした事。またある時は、帰り道に男子学生から冷かされたりと辛い目にもあっています。明治という時代はそういう時代でもあったわけです。一葉自身、私立青海学校小学高等科第4級を主席で卒業してるんですね。けれども、母 多喜の女子に教育は不要という方針から、「死ぬばかり悲しかりしかど、学校は止めになりけり」と記したように、進学を諦めざる得なかった事情があるんです。それを思うと、このような経験をした一葉の心中察するに余りあるものがあります。

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一葉が通った旧東京(上野)図書館

6月16日に桃水から呼び出しの手紙を貰った一葉は、翌日彼を訪問します。この時にどんな会話が為されたのかは一葉自身、気にかかる事もあり、また書いて良いものか判断し兼ねるとして記載を避けています。また、この話しが後々思い出話になれば、どれだけ嬉しい事かと意味深な記述をしています。桃水宅を後にした一葉は、ここで何時もとは違う帰り路を歩き出し、ふと想いに耽り始めます。

明治二十四年六月十七日
「思ふことある身には、みる物聞ものはらわたを断ぬはなく、ともすれば、身をさへあらぬさまにもなさまほしけれど、親はらからなどの上を思ひ致れば、我身一ツにてはあらざりけりと、思ひもかへしつべし」


思うことある我が身は、見るもの聞くもの断腸の思いで、ともすれば、このまま死んでしまいたいと思うのだけれども、親のことを思えば、私だけの体ではないと思い返しました。

何故、一葉は死んでしまいたいとまで思い詰めたのか。桃水への激しい慕情が、そうさせたという考えをする人も多いです。この頃には既に幾つかは、桃水の艶聞、不品行な噂を耳にしていたかも知れませんし、また桃水宅には、彼の妹 幸子の同級生であった鶴田たみ子が寄宿していたのですが、彼女が妊娠したという出来事が有りました。たみ子の相手は、実際には桃水の弟だったらしいのですが、一葉は死ぬまで たみ子が産んだ子供の父親は桃水であると疑った程で、一葉の胸には嫉妬と言う情念が渦巻いていたと考えられなくもないです。

しかしながら、個人的には 確かにそのような思いも「思ふことある身」の一つであったかも知れませんが、それは結果論であるから言える事で、一葉の日記自体が小説のようなものと考えられる部分も有りますが、あくまでも、その時々の心情を記した日記で有る事を前提に考えると、後々日記に記載される桃水への恋心を赤裸々に綴った箇所を、過去の記事に遡って解釈に充てると言うのは、余り好ましくない様な気がするんですね。初めからストーリーが完成されている小説であるならば、結を以て それまでの過程に答えを出すのは良いのですが、日記はその時々の心情を記載する性質である以上、色々な過程を経て至った心境ですから、それを過去の行動、言動 全てに直接充てて答えを出すのは、少し抵抗を持ってしまうんです。

この一葉の死んでしまいたいと言う心境は、明治22年に父 則義が事業に失敗、それに伴い多額の借金がかさみ、さらに同年7月に則義が死去。一葉は戸籍上の戸主となり、一家を養わなければならない状態になります。彼女の短い人生には、常に困窮という言葉ついてまわった一生でもあり、金策に奔走した日記の記述も多々見られるんですね。従って、一刻も早く小説家として成功し、家族を養わなければならないのにも関わらず、一向に状況が好転しない。むしろ、後退しているのではないかと思い悩む日記の記載が、この後の日記に散見しています。図書館に通い勉強すればするほど、自分の非才を嫌という程、思い知らされる。そんな絶望に近い思いが、死をよぎらせたと考えるのが正解だと思います。恐らく、6月17日に交わされた内容は、一葉の作風が世間受けしない事、一葉が書きたいと思う格式高い小説ではなく、もっと大衆迎合的なものを書くよう指摘、そうしないと新聞等に掲載する事が出来ないと言った内容だったと思われます。

この6月17日を境に、一葉は桃水から遠ざかります。自身の志を桃水に因って打ち砕かれた彼女。然し、小説家になる夢を捨て切れず、図書館に通い小説の勉強に励む一方、苦悩する日々も続きます。

明治二十四年十月七日
「後より文机に打むかひて文どもそこはかとかいつゞくるに、心ゆかぬことのみ多くて、引さき捨引さき捨することはや十度にも成ぬ。いまだに一篇の文をもつゞり出ぬぞ、いとあやしき。(略)昔し今の名高き物語も小説も、みる度に我筆我ながらかなしう成て、はてはては打も捨まほしけれど、中々に思ひ初つることえやむまじきが心に、をこがましけれど又つゞしり出ぬ。あさて迄にはかならず作りはてん、これ作りはてねば死なんとおもふも、心ちいさしと笑ふ人はわらひねかし。


午後、文机に向かい小説を書く。思うように書けず10回も破り捨てる事になった。まだ一つの作品も出来ないのは情けない。(略)古今名作の物語、小説を見る度に自分の文章のまずさが悲しくなり、全てを捨てて止めてしまいたいと思うのですが、思いを賭けた文学を断ち切る事は出来ないのです。才も無く、身の程を知らぬ愚かな事ですが、また筆を続けているのです。明後日までには必ず作って見せる。若しこれが出来ないのなら、死んでしまおうと思うのです。そんな自分を心が小さいものだと笑う人はどうぞ、笑って下さい。

さて、桃水との関係に距離を置いていた一葉でしたが、やはり彼の事は気になっていたようです。この頃になると、桃水の不品行な噂、女性問題、借金問題などを多々耳にしていました。一葉は、胸が潰れる思いで、どれが真実なのか解らず嘆き悲しむばかりと日記に記載しています。また桃水の女性問題を意識して、待合(色茶屋)の考察と、そこで遊興にふける男性を批判する日記も書いています。そんな折、知人が一葉を訪れ、桃水の話しを聞かされます。

明治二十四年十月十八日
「午後より菊子ぬし参らる。卒業しけん終り給ひて、いとよろこばしげ也。一昨日より半井君のもとに遊びて、よべ帰りぬ。夏子ぬしはいかゞし給ひしやなど、いといたう打案じての給へりし。参らせ給へよなどの給ふ。こゝにもかねてより、参り寄らまほしく思ひながら、猶なんさわる事ありてまかでぬを、常に心ぐるしうてのみなんある。かうねんごろにの給ふにも、猶いとはづかし。(略)十一時頃ふしどに入しかど、思ふこと多くて、いもねず。一時計成けん、花しよの国には致りつきぬ。


午後より菊子さんが来た。卒業試験が終わったとの事で、大変嬉しそうな様子。一昨日、半井先生の所へ遊びに行き昨夜戻って来たとか。その時、先生が夏子(一葉)さんは如何しているのか、大変心配している御様子で、一度顔を見せに来て欲しいとの事でした。私も一度お会いしたいと思いながらも、やはり差し障る理由があるので、会うのを避けているのを心苦しく思っていたのに、先生はこんなに親切に仰って下さり、恥ずかしい思いです。11時頃床に入りましたが、思う事が多くて眠れない。1時夢の国に着く。

差し障る理由、それは6月17日以来持ち続けた気持ちでは無く、この段階に至っては、桃水の艶聞でしょうね。軽蔑というよりは、嫉妬に近いものと見るべきでしょうか。そんな想いから、桃水を遠ざけていましたが、彼が自分の事を気にかけていると話しを聞いた一葉。布団に入り、その後2時間 桃水の事を考えて眠れなかったようです。この後、一葉は自分の想いを抑えきれなくなったのか、10月22日に明日、桃水を訪問しようと決心し、その旨手紙を書きます。桃水に会いに行く時は、何時も天気が悪い為、一葉が明日の天気を心配していると、妹 くにが にこにこしながら、祈っても駄目よと言う。このやりとりを見るに、くには一葉の心の中に桃水を想う気持ちが少しずつ強くなっている事を察していたような、そんな感じを受けます。そもそも、これ以前に くには桃水の噂話を聞いてきては、一葉に忠告していますので、姉の気持ちを知りつつも、不品行な噂多い桃水を想う姉を心配していたのは確かだと思われます。

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左から妹・くに 母・多喜 一葉 明治18年撮影

その夜、桃水から返信。その手紙には妹 幸子の婚姻が決まったので、尋ねるのは27日以降にしてくれとの内容でした。この時、一葉は如何も本当の事とは思えない、何か他に理由があるのではないかと不信を抱き、落ち着けなかったようです。それから数日後の10月25日、訪ねるのは27日以降にとの事でしたが、一葉は幸子のお祝いという名目で、桃水宅を訪問します。この時は、玄関でお祝いの言葉を述べて帰宅。何か不信を抱いていたので、様子を見に行き確認しに行ったという事でしょうね。10月30日に一葉は再び桃水を訪問します。色々と込みあった話しがあるのでと隠れ家に案内され、火鉢を隔てて向かい合い、幸子の結婚の話、そして寄宿していた たみ子が出産した子供の父親は弟である事を桃水は釈明しましたが、警戒心一杯な一葉には、信じる事が出来ず更に不信を増した形になってしまいました。それから1ヶ月程した後、一葉は執筆する小説の題材に関して、師の意見を伺うべく、再び桃水を訪問します。

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左より妹・幸子と子 桃水 父・湛太郎 弟・浩と鶴田たみ子との間に出来た子・千代 母・藤

明治二十四年十一月二十四日
「君まづの給ふ。いかなる趣向かつきたまひし。承らまほしうといふ。心決しては来たりしものから、何となくはなじろみて、爪くはるゝ心地しけるぞわろき。(略)骨子は片恋といふことにて侍りとて、其筋だてなどかたる。(略)君は、など、さは打とけ給はぬ。おのれはかゝる粗野なるおの子なれど、恐れ給ふにはたらじをなどいふに、などかはさること侍るべき。こはおのれが性ねにそ侍れ。年久しく相馴たる友はみなしることにて、かくかたくなゝるが本色にさふらふといへば、君も少し打笑ひて、さることにや。されば猶ぞかし。おのれもみる所こそかゝれ、心は君がの給ふごとなるものに侍るを。哀、友とし給ひて、隔てなくものし給へよといふ。そは今はじまりたることかは。おのれはたゞ、師の君とも兄君とも思ふなるをといふに、君また少しものいはず成ぬ。少しありて、哀、我身こそ幸なきものなれ」(以下散逸)


「どんな構想が出来ましたか。お聞きかせ下さいと仰りました。心の中では既に決めていたものの、何となく恥ずかしく爪を噛むような思いでした。(略)要旨は片思いの恋で、その構想をお話ししました。(略)あなたはどうして、そんなに打ち解けてくれないのですか。私は粗野な男ですが、恐れる事はないのですよ。と仰る。これは私の性根なのです。長年お付き合いしている友達なら知っている事です。というと先生は少し微笑み、ならば気を楽にして下さい。そして私を友のように思って下さって結構ですと仰りました。私は、唯貴方を師ともお兄様のように思っています。と答えました。すると先生は少し沈黙して、私こそ不幸な者はいない」(以下散逸)

小説の題材は、片思いの恋。彼女にとって一番身近な出来事で、今の心情ともいえる状況を小説にし易かったのか。狭い空間に二人きりと言う状態。そして何処かで、桃水を意識的に遠ざけようとする本心とは違った心情。一葉の態度が余りにも堅苦しいので、彼がその事を問うと、一葉は これが自分の性根と半分すねた感じで言い放つ。これより前の日記には、微笑ましく冗談をも言えるような仲になった事が記載されていたはずなのに、今は嫉妬にも近い意地を張り続け、彼と距離を置いていた一葉。それが精一杯の答えだったような気がします。

続いて桃水は自分を友のように思い、気楽にして欲しいと話すと、一葉は桃水を、先生とも兄とも思っていると答えます。この言葉を聞いた桃水は少し沈黙します。この時彼は何を思ったのでしょうか。そして、自分こそ不幸な者はいないと言いだします。そして・・・ ここで日記は終わってしまうんですね。正確に言いますと、終わったのでは無く欠落しているんです。後に一葉自身が何らかの理由で、この部分を破棄したと考えられるわけですが、この当日の続きの断片は、現在でも発見されておらず、今となっては、この後二人に何があったのか知る術はありません。状況から考えれば、お互い意思の不疎通があり、何となく張りつめた緊張状態。その縺れた糸を解こうとする桃水。その糸が解れた時。いと容易く二人の色恋沙汰を想像してしまうのですが。この辺りは、後に詳しく考察してみたいと思います。

桃水を兄のように思っています。と言う一葉の言葉。ここに、あたしは注目しているんです。この台詞は、後の日記にも何度か出てくる言葉なのですが、兄のように思っていますと言うのは、即ち男女関係を否定する意味を当然含むわけです。後に、一葉は周囲からの助言に従って、むしろ自身が抱く桃水への気持ちから、艶聞絶えない彼へ手紙を出すわけですが、やはりその手紙にも、桃水を「兄様のような心持にていつまでもゝ御力にすがり度願いに御座候」と書いているんですね。いずれも、一葉の嫉妬から、距離を置こうとしている時であり、あたしは、ここに恋の駆け引きをする一葉の姿を想像してしまうんです。どっちつかずな態度を見せる事で、桃水の気を引こうと。また違った考え方をすれば、御兄上様という呼び方は、いかにも甘えた感じがして、男性の心をくすぐるものでもあるんですね。

明治二十四年十二月二十一日頃(推定)
(前文散逸)せんとて書状を出したるよし。其外にはいといひにくき事なりなどおびたゞしく前おきし給ひて、なにごとぞや、約束の妻君ことはりにしたりし家政改革の物がたり等あり。おのれは直ちに暇乞いしてかへる。


(前文散逸)しようとして手紙を出されたとの事。他には大変言いにくい事だが、などと非常に長い前置きがあって、どういう訳か約束の妻を断ったのとの事。また家政改革の事をお話しなさった。私は直ぐにお暇して帰る。

この会話の内容は、前文が散逸している事もあり、やや意味が解りづらいです。約束の妻を断った、家政改革の話と続くので、桃水の妹が嫁いだ後、弟の件等で乱れた家庭環境を刷新しようと、どこぞの家政婦を断り、自分が家政を取り仕切るという事でしょうか。おびただしい前置き等、謎めいた桃水の態度に一葉は、遠回しに求婚の意思を感じとったようです。が、恐らく桃水が言おうとしたのは、貧困している一葉を救う為、家政婦をやってみないかと言う事だったんだと思います。但し、小説家を目指してる一葉のプライドを考えて、前置きが長くなり結果、一葉が誤解してしまったと。

年が明けて明治25年元旦。「まつ人、をしむ人、喜こぶ人、憂ふる人、さまざまなるべき新玉のとし立返りぬ。天のとのあくる光りにことし明治廿五といふとしの姿あきらかにみえ初て、心さへにあらたまりたる様なるもをかし。人よりはやくといそぎ起て、若水くみ上るもうれし。」と希望に満ちた気持ちを記した日記。この明治25年は一葉にとって、待つ人、惜しむ人、喜ぶ人、哀しむ人。自身がそうなった1年であったと言えます。

明治二五年一月八日
車いそがせて平川町半井うしの本宅に来てみれば、門戸かたくとざして、かし家のはり紙なゝめにはられたり。先むねとゞろかれて立よりてみれば、半井氏御尋の方は六丁目二十二番地小田何某方まで参られたしと也。さらばとて、又同家へ行。半井ぬしは何方へにかと訪へば、下女めきたるをな子打笑みながらに奥に入たり。引違へて出来つるは主婦にやあらん、三十計の人、我がとふに答ていふ様、うしはさる頃より旅行して、只今は留守に侍り。御用ならばこゝにいひ置給へといふ。御旅行はいづ方へかと又とへば、只、地方へと計いふ。今は尋ぬるも無益しとおもへば、只、おのれは樋口と呼ばるゝものに侍り。別しての用なるならねど、御年頭の御礼にとて参りつるなれば、御帰京のふし、其由申しつぎ給てよ。又御手数なるぺけれど御帰京の報をもねぎ奉るになんといひて出ぬ。なぞの御旅行か、まさしく御隠れ家になるべし。ぶしつけは覚悟也。頼み参らすこといと多かるを、いかで対面せずにはとて、例のうら家をとひ寄たり。まづ庭口の方よりみれば、ゑんがはの障子新たにはりかえて、物何となくあらたまりたる様なるは、もし、よの人の住家にかはりたるかなどもうたがわる。格子戸のもとにたちてあまたゝびおとなへど、誰れいらへする人もあらず。さては留守にやとおもへど、火鉢にたぎる湯のおとなど、人なき折のさまにもあらず。うちにかとみれば、格子戸の尻にせんさして出入かたく禁じたり。こゝ迄来て入れられざるも何となく物たらぬ心地のするに、いかで対面給はらばやとさまざまにいひ入たれどかひなし。水口の戸の明はなしあるにいさゝか力を得て、そこよりいりぬ。さしのぞけば、さまざまの家財つみ重ねたる納戸めきたる所みゆ。奥のかたにうしはおはすにかと、おそるおそるのぞきたれど、人ありげにもみえず。留守なる所に上り居らんも後の人ぎゝいかゞなるべきかと、いそぎ立かへらむとす。さるにても、参りしかひには、奉らんとてもてきしものだにおかばやと思ひ寄て、台所の板の間なる所に、土産の小箱さし置て出ぬ。車にのりて帰る道すがらも、思へばあやしき事をもなしたるかな。我身むかしはかゝる先ばしりたる心にもあらざりしを、年たけると共におもての皮厚く成て、はしたなくもなりつることよ。かゝる筋のこと、世の人もれ聞ましかば何とかいふらむ。あやしう、なき名などたてられなんもしるべからず。いかゞはせんなど思ひ出れば、心は身をせめていとくるし。(略)この夜、日頃のつかれと遠路のつかれにや、疲労ことに甚だし。さらに何事をなすべき心地もせねど、半井うしには、是非一書参らずはすみがたかるべし、とてしたゝむ。幾そ度書直しけん、と角に心にもいらず、からうじて書終へたるは、よみ返してみるに、何となく末におそれの種やまかんとおそろしくさへ成て、状袋にいれたるまゝ、便にもたくせず余事にうつる。


車を急がせ平川町の桃水先生の本宅に来てみると、門戸は閉ざされ、貸家の張り紙が斜めに貼ってありました。胸騒ぎがして近寄って見ると、御用の方は6丁目22番地小田何某方まで参られたしとある。その家に行き、先生は何処にと訪ねると、女中らしき女性が笑顔で答え奥に入り、替わって30歳位の家の奥様でしょうか、先生は数日前より旅行に出かけ、今は留守でございます。御用あらば私にお申し付け下さいと言う。旅行先は何処でしょうと訪ねても、ただ、地方へとしか答えない。色々訪ねても無駄だと思ったので、私は樋口という者で、特別な用事は無いのですが御年始の挨拶に参りましたので、お帰りの際は、この事をお伝え下さい。また帰京の際は、お手数ですが戻った事をお知らせ下さるようお願い致します。と言ってそこを出ました。一体、どういう旅行なのでしょうか。どうも変だ。若しかすると、あの隠れ家に居るのかもしれない。無礼な事とは覚悟の上、御頼みしたい事も数多く、どうしても御目にかかりたいと思って、例の隠れ家をお尋ねする。先ず庭から見ると縁側の障子は新しく張替られ何となく以前と変わっている様子で、若しかすると他人の家に替わったのかと疑われました。格子戸の傍らに立ち何度もお呼びしても、誰一人応える人はおらず、では留守かとも思えるが、火鉢でお湯の湧く音など、人が居ないわけでもない様子。若しかすると、家の中に人が居るのではと思い、格子戸の後ろに詮がしてあり出入り出来ないようになっている。ここまで来て家に入れて貰えないのは物足りない気持ちだし、どうにかお逢い出来ないものかと色々声をかけるがなんの甲斐もない。勝手口の戸が開いていたので、勇気を出して其処から中に入ってみました。覗いてみると色々な家財道具を積み重ねてある納戸らしい所が見える。奥に先生が居ないものかと恐る恐る覗いたが、人のいる気配はない。お留守の間に上がり込んでいる所を人々の噂にでもなったら大変と思い、急いで帰ろうとしたが、私がお伺いした印に持ってきたお土産を置いて行こうと思い、台所の板の間に置いて外を出ました。人力車に乗って帰る道すがら考えてみると、なんと不謹慎な事をしてしまったものかと、これほど軽はずみな女では無かったのに、歳をとって顔の面が厚くなり、はしたなくなってしまったことよ。若し、こんな事が世間の人に知れたら人はなんと言うだろう。先生との間に噂を立てられたりするかもしれない。そうなったらどうしよう。今日の事を思い出すと私の心は我が身を責める気持ちで大変心苦しい限りでした。(略)今夜は日頃の疲れと外出の疲れで何もする気になれないが、桃水先生には何としても一筆差し上げないと気持ちが収まらないので、お手紙を書く。何度書き直したかしら。やっと書き終えて読んでみると、この手紙が将来問題になるのではないかと怖くなり、封筒に入れたままで投函せず、余事をしました。

年始の挨拶を兼ね、桃水宅を訪問した一葉でしたが、この時は逢えず。夜になって手紙を書いたわけですが、何かを心配して手紙を出すのを止めていますね。将来問題になる事態とは何だったのか。この謎を解くにあたっては、その手紙が現存しておらず、また後の日記にも、この件に関しては1月11日に僅かな記載があるのみなんですね。11日、桃水より旅行には行っておらず、隠れ家に居る事が書かれている葉書が届く。それを見た一葉は、自分の思った通りだと嬉しくなる。そして、8日の夜に書いた手紙を出さなくて本当に良かった。と書いているんです。一体どんな内容だったのか。これは、居留守を使われたと思ったんですね。自分を避けているんじゃないかと。勝手に家に上がり込んでまで、桃水の在宅の有無を確認しようとした一葉。そしてその行為を恥、自責の念に駆られつつも、そう想えば想うほど居留守を使われたという疑念と、悔しさみたいなものが相俟って、どうしてそのような対応を自分に取ったのか聞きたい、それを手紙に書かないと自分の気持ちが収まらないと。ただ、ここで疑問が生じるんです。何故一葉がそこまで怒るのか。若しかすると、既に この時二人の間に、そのような痴情を生む関係があったと考えられないでしょうか。

明治二十五年二月三日
半井うしへはがきを出す。明日参らんとて也。しばらくにして、うしよりもはがき来たる。明日拝顔し度し、来駕給はるまじきやとの文体也。こは、おのれが出したるに先立て、さし出し給へるなるべし。かく迄も心合ふことのあやしさよと一笑す。


桃水先生に明日、お逢いしたいと葉書を出す。暫くして先生からも手紙が来ました。明日お逢いしたいのでお越し下さいとの事。私が葉書を出すより前にお出しになったものでしょう。こんなにも心が通いあっているものかと不思議で嬉しくなりました。

1月8日の訪問で、自分を避けているのかも知れないという疑念があった一葉でしたから、この事は大変嬉しく思えたようです。桃水も自分に逢いたいと思っていてくれていたと。翌日、空模様は非常に悪く、それでも桃水に逢いたいと切に願う一葉は、雪になるのならなれ 何を苦にする事があろうかと家を出ます。そしてこの日は、一葉にとって生涯忘れる事の出来ない日になるのでありました。

明治二十五年二月四日
早朝より空もようわるく、雪なるべしなどみないふ。十時ごろより霙まじりに雨降り出づ。晴てはふりふりひるにもなりぬ。よし、雪にならばなれ、なじかはいとふべきとて、家を出づ。真砂町のあたりより、綿をちぎりたる様に、大きやかなるもこまかなるも小止なくなりぬ。(略)平川町へつきしは、十二時少し過る頃成けん。うしが門におとづるゝに、いらへする人もなし。あやしうて、あまたゝびおとなひつれど、同じ様なるは留守にやと覚えて、しばし上りがまちにこし打かけて待つほどに、雪はたゞ投ぐる様にふるに、風さへそひて格子の際より吹入るゝ、寒さもさむし。たえがたければ、やをら障子ほそめて明て、玄関の二畳計なる所に上りぬ。こゝには新聞二ひら配達しきたりたるまゝにあり。朝鮮釜山よりの書状一通あり。唐紙一重そなたがうしの居間なれば、明けだせば存否は知るべきながら、例の質とて中々に立入りもならず、ふすまの際に寄りて耳そばだつれば、まだ睡りておはすなるべし、いびきの声かすかに聞ゆる様也。(略)
一時をも打ぬ。心細くさへなりて、しわぶきなどしばしばする程に、日覚給ひけん、つとはね起る音して、ふすまはやがて開かれたり。寝間きの姿のしどけなきを恥ぢ給ひてや、こは失礼と計いそがわしく広袖の長ゑりかけたる羽織き給へり。よべ誘はれて歌舞伎座に遊び、一時頃や帰宅しけん。夫より今日の分の小説ものして床に入しかば、思はずも寝過しぬ。まだ十二時頃と思ひつるに、はや二時にも近かりけり。など起しては給はらざりし。遠慮にも過ぎ給へるよとて大笑しながら、雨戸などくり明け給ふ。あなや、雪さへ降り出にたるに、さぞかし困じ給ひけんとて勝手のかたへ行は、手水などせんとなるべし。一人住みは心安かるべけれど、起るやがて車井の綱たぐるなど中々に侘しかるべきわざかなと思ひ居たるに、台じうのといへるものに消炭少し入れて、其上に木片の細かにきりたるをのせて、うし持て来たまへり。火桶に火起し、湯沸かしに水入て来るなど、みるめも侘しくて、おのれにも何か手伝はし給へ。お勝手しれがたければ教へ給ひてよ。先づこの御寝所かた付けばやとてたゝまんとしたるに、うしいそがわしく押とめ給ひて、いないな、願ふ事はなにもなし。それは其儘に起給ひてよ迷惑げなるに、をしてはいかゞとてやみぬ。枕もとにかぶき座番付、さては紙入れなど取ちらしあるに、紋付の羽織、糸織の小袖など、床の間の釘につるしあるなど、ろうがわしさも又極まれり。>(略)雪ふらずは、いたく御馳走をなす筈なりしが、この雪にては画餅に成りぬとて、手づからしるこをにてたまへり。免し給へ。盆はあれど奥に仕舞込みて出すに遠し。箸もこれにて失礼ながらとて、餅やきたるはしを給ふ。ものがたり種々。うしが自まんの写真をみせなどし給ふ。暇をこへば、雪いや降りにふるを、今宵は電報を発して、こゝに一宿し給へと切にの給ふ。などかわさることいたさるべき。免しを受けずして、人のがりとまるなどいふ事、いたく母にいましめられ侍ると真顔にいへば、うし大笑し給ひて、さのみな恐れ給ひそ。おのれは小田へ行て、とまりて来ん。君一人こゝに泊り給ふに、何のことかわあるべき。よろしかるべしなどの給へど、頭をふりてうけがわねば、さればとて、重太君をして車やとはせ給ふ。半井うしがもとを出しは四時頃成けん。白がいがいたる雪中、りんりんたる寒気ををかして帰る。中々におもしろし。ほり端通り、九段の辺、吹かくる雪におもてもむけがたくて、頭巾の上に肩かけすつぽりとかぶりて、折ふし目計さし出すもをかし。種々の感情むねにせまりて、雪の日といふ小説一編あまばやの腹稿なる。家に帰りしは五時。母君、妹女とのものがたりは多けれはかゝず。

早朝より空模様悪く、雪になりそうだと皆言う。十時頃より霙まじりの雨が降り出す。晴れては降り、降っては晴れ、昼になった。よし雪になるのならなれ、なにを苦にする事があろうと家を出る。真砂町あたりで綿をちぎったような大粒の雪、小粒な雪が小止みなく降ってくる。(略)平河町のお宅へ着いたのは十二時過ぎた頃でしょうか。門でお呼びしても応える人はなく、どうもおかしい。何度声をかけても同じように返事がないのはお留守かもしれないと思い、しばらくあがり口の横板に腰を下ろして待つ事にする。雪はまずます投げるように降り、風まで加わって格子戸の隙間から吹き込む風の寒さは、寒いどころの話ではない。我慢出来ないので、そっと障子を開け玄関の二畳ほどの畳の間に上がり込みました。そこには新聞が二種配達されたままになっていました。朝鮮釜山からの手紙も一通入っていました。襖一つ向こうが先生のお部屋なので、開けさえすれば御在宅かどうか解るのですが、私の性格ではとても入る事は出来ません。襖の傍らに寄って、聞き耳を立てると、まだお休みなのでしょう、いびきの声がかすかに聞こえてきます。(略)時計が一時を打った。心細くなり、わざと咳ばらいを数度もすると、お目覚めになり、ぱっと起きるあがる音がして、やがて襖が開きました。先生は自分のだらしない姿を恥じられたのか、これは失礼と言って、慌てて広袖で長襟をかけた羽織を上から着られました。昨夜は誘われて歌舞伎座に遊びに行き、帰ったのは1時頃。それから今日の分の小説を書いて床に入ったので思わず寝過ごしてしまい、まだ十二時頃かと思ったのに、もう二時近くになっている。どうして起こして下さらなかったのですか、あまりにも遠慮しすぎですよと大笑いしながら雨戸を開けなさる。あぁ、雪まで降っていますね。さぞお困りだったでしょうと言って勝手口の方へ行かれたのは、顔を洗う為でしょう。独り暮らしは気楽なのでしょうが、起きて直ぐ井戸の綱をひいて水を汲むなど、かえって御苦労の多い事と思っていると、先生は台十能というものに消炭を少し入れられ其上に木片を乗せて持って来られました。火鉢に火を起こしたり、湯沸かしに水を入れて来る等、見るのも惨めで、私にも何か手伝わせて下さい。様子が解りませんのでお教え下さい。まずはこの御布団を片付けましょうと言って畳もうとすると、先生は慌てて押し止めなさり、いやいや、お願いする事は何も有りません。そのままにしておいて下さい。といかにも迷惑そうな御様子なので、無理にするのもどうかと思い、止めました。枕もとには歌舞伎座の番付、さらに財布などが散らかっており、また羽織、糸織の着物などが床の間の釘に吊るしてある等、乱雑この上もないほどの状態です。(略)雪が降っていなければ御馳走をするはずでしたのに、この雪では絵に描いた餅になってしまいましたねと言って、ご自分で汁粉を炊いて さぁ、召し上がりなさい。お盆はあるのですが、奥にしまいこんでしまって、出すのが面倒なのです。それに、箸もこんなもので失礼ですがと言って、汁粉の餅を焼いた箸を添えて下さりました。お話を沢山しました。先生ご自慢の写真も見せて下さる。やがて御暇をしようとすると、雪が降りに降っているので今夜は、電報を打って、ここに泊まって行きなさいと切に仰る。許しを受けずに人の家に泊まり込むのは母から厳しく止められておりますのでと、緊張した顔つきで答えると、先生は大笑いなさって、私は小田の家に泊まるのですよ。あなた一人がここに泊まるのですから、なんら不都合はないのですよと仰りましたが、私がどうしても承知しないので、それではと弟の重太さんに人力車を呼びに行かせました。先生の家を出たのは四時頃だったでしょうか。雪や霜で辺り一面が真っ白く見えるさまの中を、凛々とした厳しい寒さを冒して帰って行く。この情緒は中々素晴らしいものでした。堀端通りから九段辺りは、吹きつける雪に顔を上げる事も出来ず、頭巾を被った上にまた肩掛けをすっぽりとかぶり、時々眼打を出して辺りを見るのが面白い。色々な感情が次々に胸に迫ってきて、雪の日と言う小説を書こうと思いつき、その構想も浮かんで来たのでした。家に着いたのは五時。母上様や妹との話は多すぎるので、ここでは書かないでおきます。

悪天候を押しての訪問。去年の11月頃までの一葉ならば、訪問は取りやめて後日にしていた思うんです。この日を以て、一葉の慕情は絶頂に達し、完全なる恋に落ちたと言えます。激しい寒さの中、一葉は2時間も 霙模様が雪に変わる中、けな気に待ち続けるんですね。桃水が起きるのを。座り込んでうずくまり寒さを凌ぐ一葉の姿を想像すると、なんとも言えない気持ちになってしまいます。やもめ暮らしの男を目の前にし、詳細に彼の乱れた生活ぶりと、男独り暮らしの惨めな生活臭を淡々と日記に記しているわけです。そんな彼を自分が如何にかしてあげたいと思ってしまう一葉の心理状況を伺う事が出来る日記の内容になっていますね。帰り路、身も心も熱く燃えたぎる彼女にとっては寒さなど考えるに値しないものだったのでしょう。常に家族の扶養と、小説の勉強に追われる忙しい日常の中、一葉にとって この日ほど自分が、女として嬉しく至福の時を思った日はなかったであろうと思われます。最後の景観に関する結び辺りの表現は、完全に男女の逢瀬の心境になってますよね。なお、この日は雑誌 武蔵野の創刊に際して、一葉の小説を掲載しようという話しも有り、ようやく小説家としての道が見えてきた日でも有りました。

$恋 散 如 花
一葉の事実上の処女小説 闇桜を発表した武蔵野

明治二十五年三月一八日
ひがけず半井うし来訪し給ふ。あたりを取片付るなど大さわぎ成し。我家に来給ひしは実に始めてなればなり。母君ならびに国子にも初対面のあいさつなどなす。いとくだくだし。居を本郷の西片町に移し給ひしよし。その報知がてらむさしのの事いはんとて也といふ。(略)茶菓を呈したる計にて二時間計ものがたらる。今しばしなどいはまほしかりしが、いそぎ給へば、えとゞめあえず帰宅し給ふ。母君も国子もとりどりにうわさす。母君は、実にうつくしき人哉。亡泉太郎にも似たりし様にて温厚らしきことよ。誰は何といふとも、あしき人にはあらざるべし。いはゞ若旦那の風ある人なりなどの給ふ。国子は又、そは母君の目違ひ也。表むきこそはやさしげなれ、あの笑む口元の可愛らしきなどが権謀家の奥の手なるべし。中々心はゆるしがたき人なりなどいふ。母君、何はしかれ、半井うしが詞に、かく近くもなれるに他には行く所もなし。夜分など運動がてら折々に参るべければなどいはれしこそ当惑なれ。人の目つまにもかゝれば正なき名やたゝんなど杞憂し給ふ。


思いもかけず桃水先生がお越しになりました。辺りを片付けるのに大騒ぎでした。我が家を訪れるのは、これが初めてです。お母上と邦子に、くどくどしく初対面の挨拶をなさりました。住居を本郷西片町に引っ越しされたとの事。その知らせと雑誌 武蔵野の事を話しに来たのですと仰りました。(略)茶菓子をお出しして二時間ほどお話ししました。もう少し居て欲しかったのですが、お急ぎだったのでそれも出来ず、お帰りになりました。母上と邦子は色々噂をする。母上は本当に美しいお人かな。亡き長男泉太郎にも似て、温厚そうなお人よ。誰がなんと言おうとも、悪い人には見えない。言わば若旦那の風格があるようなお人だ。と言われる。邦子は、それは母上の見誤りですよ。表向きは優しそうだけれど、あの微笑む時の口元の愛らしさが曲者の奥の手なのですよ。中々心を許してはいけない人なのです。と言う。母上はまた、何はともあれ、半井先生の近くになった事だし、他に行く所もないので、夜など散歩がてら時にはお尋ねしますので宜しくと言われたのは困った事だ。人の目にでも祟ったら良くない噂が・・・などと心配なさる。

女家庭に突然の男性客訪問で、大慌てしている様子ですね。母親は桃水に好印象を持ったようですが、妹の方は、直接 桃水の艶聞を幾度も聞いてきた経緯があったので、やはり信用出来ないと忠告しています。一葉は自身の感想は述べずに、母妹が述べた事だけを記載するに留めています。当人としては、恥ずかしい思いもあっただろうし、母妹の意見が分かれた事もあって少々複雑な気持ちだったのかも知れません。

明治二十五年三月二十日
伊東君に約束して、今日来訪せんといひしかば、午前より其支度をす。山下直一君来る。早稲田文学九、十号持参して貸くるゝ。同人帰路、もろ共に我も行く。同じかたなれば也。行々ものがたりつゝ行くに、車夫などの、同車にてなど進むる。よの人ならましかば、いか計はづかしからむ。さるを、何とも思はず同行するは、心に邪心のなければなるべし。恥は情より発するものにや、をかし。御茶の水橋にて袂を分ち、伊東ぬしのもとをとふ。


伊藤さんを今日訪問しますと約束していたので、午前よりその支度をしました。山下直一君が訪ねてきて、早稲田文学 九、十を持参していて貸してくれる。山下君が帰る時、私も一緒に家を出る。同じ道筋だったからです。話しながら歩いていると、車夫がご一緒に同車は如何ですかと勧める。よの人と一緒なら、どれだけ恥ずかしい事か。けれども、山下君と一緒になら何とも思わないのは、心にやましい事がないからでしょう。羞恥心は情愛より生まれるものなのでしょうか。考えると面白い事です。お茶ノ水で袂を分かち、伊藤さんのお宅を訪ねる。

よの人。それは紛れも無く桃水の事を指しています。桃水以外の人となら、例え異性であっても人力車に同車して密接したとしても、なにも思わない。若し同車の相手が桃水であったなら、どれだけ恥ずかしい事か。この頃の一葉は、事有る毎に桃水を思い浮かべ、それに彼の人と成りを胸の中に見ていたんでしょうね。

文字数が限界らしいの次回 散 に続く。

甘い恋台詞!

とりまO型のつばめんにお贈りする記事。エールでもあります。

今日7月24日は、昭和2年 芥川龍之介が「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である」と遺書に書き残し、服毒自殺を遂げた日です。享年36歳。彼は絶対、小説家には向いてなかった。大変頭の良い人で、学者か官僚が肌にあっていた。そんな気がしてならないですね。彼の作品とか、自殺にまつわる話とか 話せば興味深い部分が沢山あるのですが、今回はやめて芥川の違った一面をのぞいてみようかとおもいませう。



先にも述べましたが、彼は大変頭の良い人で、当時難関中の難関である東京帝国大学文科大学英文学科に進学したほどの人です。まぁ、頭が良い人と言うのは、やっぱりどこか違っているんですかねw 彼の表現なんかは浅学非才なあたしから見ると、どぉも しっくりこない。つまらなく見えるんですね。必しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。とした箴言集「侏儒の言葉」。芥川の格言としても度々使われたりするのですが、彼の恋愛、結婚観はどうなのか、見てみましょう。

・恋愛の徴候の一つは彼女は過去に何人の男を愛したか、或はどう言う男を愛したかを考え、その架空の何人かに漠然とした嫉妬を感ずることである。

・結婚は性欲を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。

・恋愛は唯性欲の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに価いしない。

・我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も亦完全に行われる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウエルテル、ロミオ、トリスタン 古来の恋人を考えて見ても、彼等は皆閑人ばかりである。

・健全なる理性は命令している。爾、女人を近づくる勿れ。しかし健全なる本能は全然反対に命令している。爾、女人を避くる勿れ。

・女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。

なるほどw 確かに御説ごもっとw だけど、なんかロマンチックではないよね?w スィートじゃないよね? 堅苦しい。芥川龍之介って何か、堅物でつまらん男だったのかしら?

いえいえwwwwwwwwwwwwww 芥川さん 表面上はこんな事仰っていますが。 世間に対しては、こんな堅苦しい難しい事いっておりますが。実は全く違った一面を全開にしているんですドキドキ 芥川25歳の時 後の嫁さんになるに記した手紙には、こんな事書いちゃってまぁーす♪

「今度お母さんがお出での時、是非一緒にいらっしゃい。その時ゆっくり話しましょう。二人きりで何時までも何時までも話していたい気がします。そうしてKissしてもいいでしょう、いやならばよします。」

そして、この後 あの有名な台詞が生まれます。

「この頃僕は文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い気がします。嘘じゃありません。」

キタ-------------------w 芥川って、確信犯でしょ?絶対w この時、文って確か16歳か17歳。こんな手紙貰ったら、当時の純粋無垢な箱入り娘はオチるわなw とまぁ、芥川君は実は かなりのやり手だったんではないかと思うんです。誰かあたしのこと、にぃにぃって呼んでください。

最近・・・!

ども。最近、髪の毛が1日100本位抜けてます。タスケテwwwwwww 多分、来年の今頃は剃髪して尼サンになってるんじゃないかって気がしてます。悟りの境地デスネ。

今日さ、第143回 芥川賞と直木賞の発表あったんだけど、記者会見の様子を見てたわけなんですが、芥川賞受章の赤染さん。やけに挙動不審だったのフイタwww きょろきょろしすぎでしょ、あれw 目が完全に泳いでたw まぁすんごい真面目で大人しそうな方だったので、相当緊張したのかな。

その一方で直木賞受賞した中島さんは、なんか逆に堂々してた感じだったよね。ただ思ったのは、赤染さんが びっちしスーツで決めてるのに対し、中島さん 完全に自宅で着てるような服だよね、あれ?wwwww まじ見てておもろかったw

ただ、やっぱ 芥川賞なんだよね~ 直木賞よりも芥川賞の方が大々的に取り扱われるよね。 芥川・直木賞批判する気はないけど、選考メンバーが やヴぁいと思うのはあたしだけでしょうか? 去年だっけ? 確か該当者なしとか、ふざけた選考してたし。
 
昨今の直木賞で知ってる作品っていたら第119回受賞作の赤目四十八瀧心中未遂、他には第何回か忘れたけど長崎ぶらぶら節くらい。長崎ぶらぶら節はおもろかった。なんせ好きな歌が端歌なもんで、あたしwwwwww 

しかもだ、よく散歩しながら口ずさむ歌ってのが、梅は咲いたか桜はまだかいなときたもんだwwwwwwwwwwwww そんなあたしは、昭和50年代生まれときたもんだ どっこいwwww んでもって、座敷で 孔雀すんのがあたいの夢ときたもんだ よっこらしょっとwwwwwwwwwwww えと18禁の方向で♪

恋の浅草 二人でゆこかいな~ なんて聞くと永井荷風 思い出しちゃうんだよね~ 恋の逢瀬はやっぱり浅草で決まりかいの♪ あたしの18番だし♪ 銀座は松屋しか知らないしw 銀ブラはあたしの性に合いませんことよ。って、今 銀座って中国人だらけって話し聞いたんだけどほんとなのぉ?



さぁて、、レディースウィッグ注文してみようかしら。。
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