一葉女史考・散 | 恋散如花

一葉女史考・散

我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし - 樋口一葉 -

日記を見ていて思うのは、どうも明治24年の終わり頃から一葉と桃水の距離が急速に近くなっていると感じざる得ないのです。11月頃の一葉と言えば、差し障る理由 即ち桃水への嫉妬から距離を置いていた頃で、12月に入るとその誤解が解けて行った感じですね。そして1月に入ると、一葉は完全に恋のモードに入っているわけです。当然、日記に記載していない桃水との逢瀬も有ったし、日記に記載していない桃水との手紙のやり取りも多々有るわけです。1月8日の不可解とも思える一葉の心情や、2月4日の桃水宅の訪問、そして宿泊を促す桃水の言葉。彼は過去に暇しようとする一葉を制して、もう少し居なさいと言った事は有ります。また夕食もして行きなさいと言った事も有ります。しかし、本宅でない家に宿泊して行きなさいと言った事はないんですね。一葉が難色を示したので、その後直ぐに自分は違う場所に泊まると言っていますが、状況から考えるに家族が同居している本宅ではなく隠れ家です。そう易々と言える言葉ではないんですね。当時は、婚姻を前提としない男女の交際はタブーです。ましてや、一夜を供にする等は考えられない事です。それをいとも簡単に言ってしまった桃水。それを言える前提が既にこの時、有ったのではないかと疑ってしまいます。

また、3月に入ると桃水は一葉の家の近くに引っ越ししてきていますよね。この後、一葉は何度も桃水のもとを訪れていますし、家が近くになって嬉しいと日記にも記載しています。この辺りの過程を見るに、やはり12月に一葉と桃水との距離を縮める何かが有ったのではないでしょうか。そこで、明治24年12月分の日記で、それを探りたいのですが、残念ながらその月の日記の多くが散逸、処分されているんですね。後の調査で12月25日の日記の断片とされる記載には「今日は、半井うし、約束の金持参し給ふべき約なれば、其事となく心づかひす。庭前の梅一輪(以下散佚)」と有り、桃水と一葉の間に生活資金の援助、金銭の授受が記されています。12月21日の桃水の求婚の記事もそうですが、ちぎられた部分が有って、この月に何が有ったのか知る術はなさそうです。ただ言える事は、二人の仲がかなり親密になっていたのは確かと言う事です。しかし、そんな二人の蜜月な関係にも影が見え始めて来ます。

明治二五年四月十八日
午前之内に片町の大人がり行く。此日頃、悩み給ふ所おはす上に、何事にやあらむ立腹の気にて、はかばか敷は物語も賜はらぬなむ心苦しければ、いでや今日こそは御心取らんとて出でたつ。小石道のいと悩ましきをからうじて行くに、河村君よりの下女、水など汲居たり。大人は早、起出給へりやと問ふに、うなづきてしるべをなす。(略)此頃はあやしう異人のやうに成給へり。御病気はいかゞぞなど問ふに、少しは好し。それど頭のいたきのみは困じ居る也とて、後脳のかたを、手してたゝき居給へり。(略)我れもいろいろいふこと有しが、五月蠅げなるに遠慮して、そこそこに暇ごひしぬ。されども止めんともし給はざりけり。帰路怳々たのしまず。何ごとをかく計怒られけん。我れに少しも覚えなし。いかにせば昔しの如く成るべきにや。(略)今日は何事のなすもなくて日を暮しぬ。


午前中に片町の桃水先生のお宅に行く。この頃、お悩み事がある上に、なにかご立腹の様子で余りお話しもして下さらず、胸が苦しいので、今日こそは何とかご機嫌を取ろうと思って出かける。小石の多い道を苦労して着くと、河村家の女中さんが水を汲んでいました。先生はお目覚めですかと聞くと、うなずいて案内してくれる。(略)この頃はまるで別人のようになってしまわれた。御病気はいかがですかとお尋ねすると、少しは良い。しかし頭が痛いのだけは困ると仰って、頭の後ろを叩いておられた。(略)私も色々お話があったのですが、うるさそうなご様子なのでご遠慮してお暇をする。けれども先生は私を引き留めようともなさらなかった。帰路は大変辛かった。何をあれほど怒っておられるのだろう。私には少しも思い当たる節がない。どうしたら昔のようになって頂けるのかしら。(略)今日は何もせずに過ごしてしまった。

この頃の一葉は、桃水の顔色一つに一喜一憂する。そんな状態になっていたわけですね。彼の機嫌を取ろうとする一葉の姿は、どこか愛らしくも切なく見えてしまいます。この時、桃水は痔を患っており大変な苦痛を強いられていたようです。それに、自身が創刊した雑誌 武蔵野も中々うまく軌道に乗らず それ等もあって機嫌が悪かったと思われますが、個人的には他にも理由があった気がしてなりません。敢えてここで記す事は避けます。

明治二十五年四月三十日
殊に今日は小石川稽古なり。(略)帰路、直ちに片町の師の君がり訪ふ。大人は次の間におはすなるべし、河村君老母及内室、小女等、火桶がほどりに居たり。大人の病気を問ひなどせしに、師君痔疾にておはせしを、いたく秘し給ひしから、一時になやみつよくなりて、一昨日切断術を行はれぬと也。いたく驚きて、いかにやと気遣ふに、いとなめしけれど、病間にて対面せんとて此間へ通す。石炭酸の香いとつよし。こは、日々洗できすればなめり。種々談話。流石の大人もいとくるしげにみえ給ふ。


殊に今日は小石川の稽古日でした。帰路、直ぐに片町の先生を訪れる。先生は次の間にいらっしゃるのでしょうか、そこには河村さんの母上や奥様お嬢様たちが火鉢の傍らに居られました。先生のご病気をお尋ねすると、実は先生は痔を患っておられたのを、いたく隠しておられ急に酷くなり、一昨日手術を為されたとの事です。私は非常に驚いてどんなご様子かと心配していると、病室にて御目にかかりましょうとおしゃって、失礼ながら部屋へ通して頂く。石炭酸の臭いが強い。これは毎日洗浄するためでしょう。色々お話ししました。さすがの先生も酷く苦しんでいるように見えました。

用事が終われば、直ぐにでも桃水を訪れる一葉。この日初めて彼が、痔を患っていた事を知り、驚き心配した様子です。この後、一葉は足しげく桃水のお見舞いに通っています。この頃の日記には、自分に何か出来る事はないか心配している様子が記載されています。有る時、桃水の見舞いを優先していたので、小石川の月例会に遅れ、中島歌子が大立腹した事もあったようです。さて、ここで一葉を語る上で避ける事の出来ない歌塾 萩の舎に関して少し話したいと思います。一葉は前述の通り、学業を道半ばで諦めざる得ませんでした。しかし、如何しても学問をしたい一葉の気持ちを察し、父親は一葉が14歳の時に、中島歌子が主宰していた歌塾 萩の舎に入門させます。この萩の舎には、皇族、華族、政府高官の子女達が数多く入塾しており、全盛期には1000人程の生徒がいたそうです。一葉はここで、和歌や古典、書道を学び、田辺竜子、伊藤夏子らとともに萩の舎の三才媛ともまで呼ばれるほどの才能を発揮しました。終生、一葉はこの萩の舎との関係を維持し続けます。彼女にとって、ここが学校であり、同世代の仲間が集う青春の場所でも有ったわけです。詰る所、後の桃水との断交も、この萩の舎を取るか桃水を取るかの選択であったと言っても過言ではないんです。

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歌塾 萩の舎発会記念写真 明治二十年撮影 三列右より3人目樋口一葉 二列右より5人目中島歌子

明治二十五年五月二十二日
野々宮君と種々ものがたる。半井うしの性情人物などを聞くに、俄に交際をさへ断度なりぬ。さるものから、今はた病ひにくるしみ給ふ折からといひ、いづくんぞよく欺ることいひもて行かるべき。快方を待ちて心に思うふ。


野々宮さんと色々お話をしました。桃水先生の人となり等を聞くと、今すぐにでも交際をお断りしたいと思うのですが、今はご病気で苦しんでおられる折りでもあり、そんな話をする事は出来ません。病気が良くなってからと心の中で思う。

野々宮菊子は、その前日に一葉宅を訪れ宿泊しています。その夜も、桃水の悪い噂を彼女から、一晩中聞かされるんですね。そして、一葉はそれを鵜呑みにしてしまうんです。このような話は、実は今回が初めてではないんです。桃水の弟が鶴田たみ子との間に子をもうけた時に、桃水は釈明の伝言を野々宮菊子に頼むわけです。しかし、この時も事の顛末を一葉に話しておきながら、それでも子供はどうやら桃水の子らしいと話しているわけです。そもそも一葉と桃水を引き合わせた人物こそ、この野々宮菊子なんですね。桃水と一葉の接近、別離には何時も彼女の影があるんです。最初に一葉と桃水を引き合わせる。そして一葉に桃水の艶聞を聞かせる。これで一時二人の仲が疎遠になると、今度は桃水が一葉の事を心配していたと話し、桃水を訪れるよう促す。そして、一葉と桃水の関係が修復されると、また桃水の悪い噂を一葉に話す。この後直ぐ起きる断交の原因も彼女なんですね。野々宮菊子自身、一葉と同様の思慕を桃水に抱いていた為、三枚目に徹する事が出来なかったのは、仕方ない事だったかもしれません。この頃になると、萩の舎内でも一葉と桃水との関係が醜聞沙汰になっていました。6月3日に萩の舎を主宰している中島歌子の実母幾子が急病で倒れ亡くなります。その十日祭の儀式の折、一葉は同門であり、生涯で数少ない大親友でもあった伊藤夏子に詰問されるという事態になりました。

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野々宮菊子

明治二十五年六月十二日
十日祭りの式行ふ。ことに親しき人十四、五人招きて小酒宴あり。伊藤夏子ぬし、不図、席を立て、我に、いふべき事あり。此方といふ。呼ばれ行きしは、次の間の四畳計なるもののかげ也。何事ぞと問へば、声をひそめて、君は世の義理や重き、家の名や惜しき、いづれぞ。先この事問まほしとの給ふ。いでや、世の義理は我がことに重んずる事也。是故にこそ幾多の苦をもしのぐなれ。されど家の名、はた惜しからぬかは。甲乙なしといふが中に、心は家に引かれ侍り。我計のことにもあらず、親あり兄弟ありと思へばといふ。さらば申す也。君と半井ぬしとの交際断給ふ訳にはいかずや、いかにといひて、我おもて、つとまもらる。いぶかしふもの給ふ哉。いつどやも我いひつる様に、かの人年若く面て清らになどあれば、我が参り行ふこと世のはばかり無きにしも非ず。百度も千度も交際や断ましと思ひつること無きならど、受し恩義の重きに引かれて、心清くはえも去あへず、今も猶かくて有なり。それど神かけて我心に濁りなく、我が行にけがれなきは、知り給はぬ君にも非じ。さるをなどこと更にかうはの給ふぞと打恨めば、そは道理也。さりながら、我かかることいひ出づるには故なきにしもあらず。されど今日は便わろかり。又の日、其訳申さん。其上にも猶、交際断がたしとの給んに、我すらうたがはんや知れ侍らずとて、いたく打歎き給ふ。いぶかしともいぶかし。かゝるほどに、人々集り来ていとらうがはしく成ぬれば、立別れにけり。何事とも覚えねど、胸の中にものたゝまりたる様にて、心安からず。人々帰りて後、この事計思ひぬ。


十日祭の儀式を行う。ことに親しい人十四五人を招いて、ささやかな酒宴がありました。伊藤夏子さんが突然席を立たれ、私に言いたい事があるので、こちらへと言う。呼ばれて行くと次の間の四畳ばかりの部屋の物陰でした。なんのお話しでしょうと聞くと、声をひそめて、あなたは世間の義理を重んじるのと、家の名誉を惜しむのと、どちらを大事にしますか。まずこの事をお聞きしたいのですと仰る。勿論、世間の義理は私が特に重んじる事です。この為にはどんな苦労もいといません。然し、家の名誉もまた惜しまない訳ではないです。どちらも甲乙無しと思うのですが、気持ちは家の方に引かれます。それは自分を思うのではなく、親や兄弟がいる事を思うのです。それならば言いますが、あなたは半井先生との交際をおやめになる訳にはいきませんか。どうですか。と私の顔をじっと見つめなさる。変な事を仰いますね。前にも申し上げましたように、あの方は年も若く美男子なので、私が往き来しますのは世間に対して遠慮がないわけでは有りません。これまでに何度も交際をやめようと思った事がない訳でも有りません。しかし、受けたご恩の事を思うときっぱりお別れする事も出来ず、このような状態です。神に誓って私の心にやましい部分は無く、汚れた所も有りません。この事はあなたがよくご存じでしょう。それなのに何故、こんな事を仰るのですか。と恨み申しますと、それはもっともな事です。然し私がこんな事を言いだすのには理由が無い訳では有りません。今日は都合が悪いので別の日にその訳をお話ししましょう。その上でなお、交際を断てないという事であれば私まで疑わざる得ません。と悲しくなさる。こうしているうちに周囲の人々が集まってきて騒がしくなったのでお別れしました。何となく胸の中に物が詰まった感じで心が落ち着かない。皆が帰った後もこの事ばかり考える。

ここで一葉は、桃水への想いを手のひらを返したように、我が身の保身に走ってしまいます。この辺りは現代人の我々から見ると少々理解しづらい部分でも有りますね。名誉や対面を何よりも重んじる、そんな風潮が色濃く残っている時代ですし、ましてや一葉にとって萩の舎を切り捨てるという選択は最初から無いのです。小説家として自立して食べて行く事もままならない状態ですし、萩の舎で歌子の代講を勤めて僅かな生活費を稼いでいましたし、何より萩の舎を失うと言う事は、一葉が他の外部の人間、伝手等を断つにも等しい事だった訳です。萩の舎で自分が知らない間に桃水との関係が醜聞沙汰になっている事に驚いた一葉は中島歌子に相談をします。

明治二十五年六月十四日
もとより知らせ給ふ様に、我より願ひての交際にも非ず。家の為、身のすぎわひの為、取る筆の力にとこそたのめ、外に何のことあるならず。さるを、か様に人ごとなどのしげく成るなん、いと心ぐるし。哀、師の君の御考え案はいかにぞや。(略)師の君、不審気に我をまもりて、さては、其半井といふ人とそもじ、いまだ行末の約束など契りたるにては無きやとの給ふ。こは何事ぞ。行末の約はさて置て、我いさゝかもさる心あるならず。師の君までまさなき事の給ふ哉と口惜しきまでに打恨めば、夫は実か実か、真実、約束もなにもあらぬかと問ひ極め給ふも悲しく(略)師の君さての給ふ、実は、その半井といふ人、君の事を世に公に妻也といひふらすよし、一度は驚きもしつ、ひたすら彼の人にくゝつらく、哀、潔白の身に無き名おほせて世にしたり顔するなん、にくしともにくし。(略)猶よく聞参らせで、田辺君、田中君なども此事を折々にかたりて、我が為いとをしがられしとか。さるは世の聞こえもよろしからず、才の際なども高しともなき人なるに、夏子ぬしが行末よ、いと気のどくなるものなれなどいひ合へりしなりとか。是に口ほどけて、師のもとに召使ふはしためなどのいふこと聞けば、此取沙汰聞しらぬものは此あたりになしといふほど、うき名立に立たるなりとか。浅ましとも浅まし。明日はとく行て、半井へ断りの手段に及ぶべしなど師君にも語る。


歌子先生もご存じの通り、私個人の気持ちで始めた交際ではないのです。家族を養う為の文学修業であり、それ以外に何もないのです。なのにこのような噂が広まった事は大変心苦しい次第です。歌子先生はどうお考えなのでしょうかと尋ねる。(略)すると歌子先生は不審げに私を見つめて、それでは、その半井という人とあなたは、まだ将来の約束などはしてないのですかと仰る。それはまた、何という事を仰るのですか。将来の約束どころか、私にはそんな気持ちは有りません。歌子先生までもがそんな事を仰るなんてと悔しさに恨み言を申し上げると、それは本当なのですか、本当にそうなのですか。約束はしていないのですかと問い詰められ悲しくなりました。(略)歌子先生は、実はその半井という人が、おおっぴらにあなたを妻だと言いふらしているとの事をある人から私も聞きました。私は飽きれて驚くばかりでした。潔白の身に無実の汚名をきせて、自分は得意顔していると思うと、あの人が憎くて憎くてたまらない。(略)なお先生のお話をよくよく聞くと、田辺さんや田中さん等も時々にこの話しをされて、私の為に大変残念な事であると思っておられたとか。あの半井と言う人は世間の評判もよくなく、才能も高くないのに、夏子さんが本当にお気の毒なことよと話しあっておられたとか。先生のお宅のお手伝いさん達がまでもが、この話をいているなどと聞くと、この噂を知らない物は、この辺りには誰も居ないと思うほど噂が広がっていたとか。本当に浅ましい限りだ。明日、半井へ絶交の話しをしようと思う事を歌子先生に申し上げました。

翌日、桃水宅を訪れた一葉でしたが、この日は周囲に沢山の人が居た事、また一葉の髪型が何時もと違っていた事を桃水が褒め称えたのに拍子抜けした感じで、肝心の用件を言わぬまま家を後にしています。一葉が断交の意思を伝えるのは6月22日になります。この間、一葉は萩の舎の知人たちに桃水との断交を訴え、火消しに躍起になっています。特に6月12日に一葉を詰問した伊藤夏子は桃水との断交を非常に喜んだようです。無比の親友として女癖の悪い噂が絶えなかった桃水を一葉から遠ざける事こそ、彼女を救う唯一の道だと確信していたからでしょう。一葉五十回忌の折、伊藤夏子はこう回想しています。「桃水が、夏子さんと、つり合ひのとれる人でしたら、何とかもう少し言ひやうもあつたでせうが、つい強い事を、言つて了(しま)ひました。死後日記を読んだ人が、一葉は恋に死んだの、桃水に対する、思慕の情は、友情以上でたしかに恋だのと、言ふているのを見まして、そんな好きだつたのを知らないで、思ひやりの無い事を言ふて了(しま)ひさぞ情け知らずと思はれたらぅと、済まないやうに思ひました。でも夏子さんは、桃水の世話女房に収まつて、手鍋さげてもと云ふほどの決心は、ついていなかつたらうと思ひます。」

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大親友であった伊藤夏子

明治二十五年六月二十二日
家に帰る。こゝにもさまヾに相談して、さて半井うしのもとに返すべき書物もて行。(略)例しらぬにしもあらぬに、あたら御朝ねの夢おどろかし奉る罪ふかけれど、申さで叶は事ありて、かくは参り来つる也といふ。君何事ぞヽと問ひ給ふ。いでや我が上の事のみならず、君様の御名もいとをしくてなん。実は、我がかく常に参り通ふこといかにしてもれにもれけん。親しき友などいへば更に、師の耳にもいつしかいりて、疑はるゝ処かは、君様とと我れ、まさしく事ありと誰もヽ信ずめる。いひとかんとすれば、いとゞしくまつはりて、此無実の名晴るべき時もあらじ。我身だに清からば、世の聞えはゞかるべきにも非ずとおもへど、誰は置きて、師の手前是によりてうとまれなどせられなば、一生のかきんに成べき、それ愁はしう、と様かうざまに案じつれど、我、君のもとに参り通ふ限りは人の口ふさぐこと難かるべし。依りて今しばしのほどは御目にもかゝらじ、御声も聞じとぞおもふ。其こと申さんとて也。しかはあれど、我は愚直の性、からずヽ受参らせたる恩わするゝものんは候はず。かゝること申出る心ぐるしさ推し給へといふ。(略)世にさまヾにいひふらしたる友の心もいかにぞや。信義なき人々とはいへ、誠そら言計り難きに、夫をしも信じ難し。あれと是とを比べて見るに、其偽りに甲乙なけれども、猶目の前に心は引かれて、此人のいふことヾに哀れ悲しく、涙さへこぼれぬ。我ながら心よはしや。かゝるほどに国子迎ひに来る。家にてもいさゝかはうたがひなどうするにやあらむ。打つれて帰る。


家に帰りました。家族にも相談して、桃水先生から借りていた本を持って行く。(略)先生の日常を知らぬわけでもないのに、お休みの所を起こしてしまいまして、申し訳御座いません。是非申し上げなくてはいけない事があり参った次第です。と言う。それは、君、一体何事とお尋ねになる。それは私の名誉の為ではなく、先生のお名前を汚す事になるのが残念に思われるのですが、実は私がこうして何時もお訪ねするのを、どのように知ったのでしょうか、親しい友は勿論、中島歌子先生までもが、お疑いになるばかりではなく、あなた様と私の間に何か特別な関係があるのではないかと誰もが信じているようです。その説明をしようにも、益々話しがこんがらがって、何時までもこの無実の名を晴らす事は出来ないようです。自分自身が清らかでさえあれば、世間の評判など気にすべきではないと思っていても、他の人は差し置いても、中島歌子先生からこの事で疎んじられては、私にとって一生の傷になるでしょう。それが悲しく、あれこれ考えたのですが、私があなた様のもとを出入りしている限りは、人々の口をふさぐ事は出来ないでしょう。ですから、今しばらくの間はお目にかからずお声も聞くまいと思うのです。その事を申し上げようと思って今日はお訪ねしたのです。しかし、私は愚かものではありますが、決して先生から受けたご恩は忘れるものでは有りません。こんな事を申し上げる私の心苦しさをどうぞ、御察し下さい。と言う。(略)世間にあれこれと言いふらした友達の心はどんな気持ちなのだろうか。世の中は信義なき人ばかりだけども、嘘か真かも判らない噂を信じる訳にもいかない。あれやこれやと思い比べてみると、その偽りに甲乙の差はないけれど、やはり目の前のことに心は惹かれて、情に流され、桃水先生の仰る事が全て身に染みて悲しく、涙がこぼれてしまいました。我ながら何とも心弱い事でした。こうしているうちに邦子が迎えに来る。家でも少し私の事を疑っているのだろうか。一緒に帰る。

一葉と桃水の断交を記した日の日記です。6月22日、一葉が中島歌子に相談した際に一葉は桃水を「半井」と、また伊藤夏子に弁明する手紙を書いた際も「半井」と彼を呼びつけにしているんですね。萩の舎の知人たちには、醜聞沙汰の釈明をする際には、桃水の事を呼びつけにしているんです。また、この日記にも他の人を差し置いて中島歌子先生に疑われ、疎んじられるのだけは一生の傷と言ってますね。先にも述べましたが、この部分だけをみても、やはり歌塾 萩の舎は、一葉にとって桃水よりも遥かに大きい存在、位置を占めていた事が解ります。中島歌子は一葉の歌の師であり、一葉が同じく師と仰ぐ桃水を面白く思っておらず、桃水に代わって自分が小説の添削をしても良いと申し出ています。歌子は一葉を手放したくなったようで、一時は彼女を養子にして歌塾の後継ぎにするような事もほのめかしています。小説家としての道が未だ見えない一葉にとって、若し夢が叶わない時は歌道で生計を立てるしか道が残されておらず、一葉は萩の舎で自分の位置を失うという事は致命的な事でもあったのです。

当日の記載から思うに、萩の舎のメンバー達に話していた絶交とは、程遠い感じがしますね。ものの言い方も柔らかいですし。一葉としては周囲には絶交を主張していましたが、実際には師弟関係の解消に留めた感じで、本能的に桃水との僅かな交際の望みを残した感じがしてなりません。桃水は一葉から断交の説明を受けると、野々宮菊子に一葉の事をしきりに褒め、一葉は戸主で有るから、他の家に嫁ぐ事が出来ない身である。私がなんとか家を出る事が可能な身ならば、無理にでも養子に貰って頂くのにと冗談交じりで話した事を説明しました。この話しを野々宮菊子は周囲に言いふらしたわけです。一葉は当日の日記で、「世にさまヾにいひふらしたる友の心もいかにぞや。」と野々宮菊子を批判する文章を書いています。が、火の無い所に煙はなんとやらで、一概に今回の断交に至った要因は桃水の発言や、野々宮菊子、嘘か本当かも解らない噂話を広めた知人達だけの責任とは言えない節もあるんですね。一葉はどうも、萩の舎内で知人達に桃水とのノロケ話と誤解されても仕方ないような事を話しているんです。萩の舎の三才媛といわれた一人、田辺竜子の回想録に因れば、一葉は何時も桃水の話しばかり口にしていて、ある時は下宿先を訪ねたら、桃水が未だ寝ていたので、こっそり布団をもう1枚掛けてやった話し等を周囲にしていたようです。田辺竜子が、そのような話しは滅多にするものではないですよ、人に何か言われますよと忠告しても、誰にもで桃水の話しをしていたようです。果たして評判に上りました。と田辺竜子は述べています。この頃の一葉は、あまり意識する事なく、周囲に注意をも忘れてしまう程、心は桃水の事で一杯だったんでしょうね。

次回 如 に続く。