散るも覚悟なりっ! | 恋散如花

散るも覚悟なりっ!

「人やしるしる、人や知るべき、人や知る、浮世の人にそしられて、うれしと夜半にいくそ度、血に泣声を人や知る」 これは愛を誓い、それが破綻して一ケ月も絶たぬうちに他の女と結婚した山田美妙に作った悲痛な田沢稲舟の詩ですね。田沢稲舟、彼女の名前を目にする機会は滅多にないですかね。だから、書いてみる。知らない事を知る事は財産なのでw

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田沢稲舟

田沢稲舟は、明治7年鶴岡五日町に生まれます。家庭環境は極めて恵まれており、自由奔放の少女期を過ごしています。かなり早熟な文学少女で東洋のシェイクスピアと呼ばれた山田美妙に強い憧れを抱きました。美妙の作品 「胡蝶」を繰り返し何度も読んだようです。ここで、ふと重なるのが そう樋口一葉なんですね。一葉は明治5年生まれ、歳もほぼ同じで彼女の幼少期も大変恵まれており、自由奔放な少女期を過ごしています。一葉が小説を志して半井桃水と出会うのが明治24年 19歳の時かな。一方、稲舟は17歳の時に文学修業の為に上京します。

一葉が桃水を訪ねたように、上京した稲舟は憧れの存在であった山田美妙を訪問します。ここでも一葉同様、文学的思慕から恋愛的感情に移り変わってしまうんですね。まぁ、これは一葉が少しずつ募らせていった恋心に比べると、最初から憧れの存在だった山田美妙なわけで、当然の結果でしょうか。んで ここもお約束なんですが、山田美妙 プレイボーイなんですwww 自分の号に美妙なんて使うほどの男ですからねw 日本文壇史上初となる女性ヌードを押し絵に使用した男ですからねw 稲舟の家族は、そんな男に娘が翻弄されている事を知り、稲舟を実家に連れ戻す事になります。しかし、どうしても美妙との関係を断ち切れず、一葉同様 その想いを小説にするんです。これが認められて、明治28年 文芸倶楽部において「医学修業」が掲載され、女流作家としての脚光を浴びます。因みに、一葉が同文芸倶楽部において初めて作品が掲載された「にごりえ」も、明治28年と同年なんですね。完全に被ってます。

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山田美妙

同年、ついに美妙は稲舟にプロポーズし結婚に至ります。長年の夢がついに叶ったわけです。が、美妙の母親、祖母との同居が自由奔放に育った箱入り娘であった稲舟には大変苦痛だったらしく、精神的に崩壊してしまい、僅か三ヶ月で離婚という結果になりました。

どうしても、この稲舟を書くとまさに同期ともいえる一葉と比較してしまうのですが、一葉の作風が平塚らいてうが言ったように、彼女はあくまでも古風な女って言ったように、旧来からある男尊女卑、女性の辛抱さみたいなのを書き切る事で、その時代に寡黙な抗議をしたのに対して、稲舟の作風は師匠でもあった山田美妙の影響でしょうか、突拍子もないというか奇抜、奇想天外というか、なんかw 彼女の作品「しろばら」は凄いですね。親が決めた許嫁がいて、でも その人とは結婚したくない。自分は自由に生きようとする。しかし、許嫁に暴行されてしまい、入水自殺を図る。その遺体を カモメがつっついて食べられてるって内容。多分、そうなってまでしても、自我、自尊心の美しさを書きたかったのかもだけどw

余りにも早熟していた稲舟。離婚後、再び本格的な文壇活動に打ち込みますが、この時すでに病に冒され半年後の明治29年9月10日 急性肺炎により死去。享年21歳。遅れる事、この二ヶ月と十三日後、樋口一葉 肺結核により死去。享年24歳。咲くも覚悟なるば、散るもまた覚悟なり。ほんとは稲舟の命日に記事書こうとしたけど、ついサボって遅れましたw

うそ……うそ仰り遊せ、あなたはこ……こんなにおかきおきまで残しなさツていらしつたのですもの、もうお心はしれておりますよ……なる程あんなにかゝれては、しかも事実であツて見ればさう思召すも御尤です、だから私もおとめ申はいたしません……そ……其かはり私もどうか御一所に死なせて下さいまし 稲舟遺作「五大堂