
監督:ゲラ・バブルアニ
出演:ゲラ・バブルアニ , パスカル・ボンガール , オーレリアン・ルコワン
2005年 フランス
アイデアが素晴らしい。
淡々とした映像の中に、それぞれの立場の死への恐怖。
それに関わる意味の恐怖。
想像力が豊かであるほど、恐怖に支配される。
前半の、生き物の鼓動が聞こえてこないようなそんな映像に比べ、
後半。死を目の前にした映像の躍動感のすごさ。
カメラも生き物のように、映画のシーンの空気に飲み込まれ、
その動揺を隠しきれない。
人の手によって動かされていたモノが、
人の手を離れ人に感化されて動く。
カメラは、常に客観的である必要はない。
監督が、ハリウッド版リメイクをするらしいが、
あの映画の、どこにリメイクする必要があるのか。
監督は、どう撮り直してどこまで質を上げてくるのか。
それはそれで楽しみ。

監督:松本貴子
2008/日本
草間彌生は、すごい。
つくり出す詩や作品が、彼女の感性と才能がどれほどのものか、
いとも簡単に教えてくれる。
先日見た、森山大道と同じ≒(ニアイコール)シリーズ。森山大道に踏み込むことが出来たドキュメンタリー。
それと比べると、このドキュメンタリーは物足りなさを感じる。
草間彌生にではなく、監督に。
わざとなのか、監督の時々草間彌生に投げかけられる質問は、
あまりにも浅はかで幼稚だ。
質問をすればするほど草間彌生は心を閉ざし、
「アーティスト草間彌生」を演じ始める。
彼女が才能があることは、本人の含め、承知のこと。
にもかかわらず、彼女のそこを強調する。
ドキュメンタリーである以上、
観客は人間としての草間彌生をみたい。
彼女が、あんなにも優しく深い愛の詩を書いているにもかかわらず、
なぜ愛の話が出てこなかったのか?
彼女の異常な頑さを溶かすものはなかったのか?
あんなに美しかった人が、なぜ笑顔を見せなくなったのか?
あれほど才能があり賞賛される人が、
他人の賞賛を誘導するように「素敵」と連発するのか?
病気だから。アーティストだから。
そんな簡単な答えではなく、彼女から引き出せたものはあったはずだ。
「ホントに、自分は素敵だと思ってるの」という言葉でもかまわない。
彼女の行動の意味や作品に繋がる背景に迫る必要はあった気がする。
女性同士。
年齢や職業を超えることはそれほど難しいことではない。
女とは、そういう生き物だ。
アーティストとしての草間彌生が、
どれだけ凄いかということをただ知りたい人には、
面白いドキュメンタリーだったのかも。
むしろ、監督のとぼけた質問で、
ますますアーティスト然としていく彼女を見れたのは望み通りだったはず。
でも、ドキュメンタリーというのなら、
監督の主観と思想がもう少し出て欲しかった。
そしてそれがないなら、ドキュメンタリー映画とは言って欲しくない。
ワイドショーの追っかけでしかないと思う。

監督: ミシェル・ゴンドリー
出演: ガエル・ガルシア・ベルナル.シャルロット・ゲンズブール
2006年 フランス・イタリア
popサイドのフランス映画。
ミシェル・ゴンドリーの映像のセンスでとても上手に描かれている。
自分の才能を、自分できっちりと見せる。
自分の才能を、どうすれば一番良く見えるかということを知っている人。
それが、彼の底知れないセンスと、他者からの評価のポイントとブレ幅が小さい理由かも。
話はシンプルな恋愛もの。
フランス人独特の恋愛哲学に、賛同ができない部分もありつつ、
それはそれって流せる。
この映画において、そんなことは大したことじゃない。
とてもかわいいフランス映画だった。
大好きなシャルロットが、シャルロット像を全く裏切らない役をしている。
それだけでもういい。

監督: キーファー・サザーランド
出演: キーファー・サザーランド, ビンセント・ギャロ, ケビン・ポラック, マーチン・シーン
1997年 アメリカ
こういう映画をつくらすと、間違いなくタランティーノが世界で一番うまいと思う。
でもこの映画も面白い。
出てる、ビンセント・ギャロもキーファー・サザーランドもとてもいい。
キーファーの狂った男のうまさ。
話もしっかりしてていい。
B級映画に少しありがちな、「えっ、あの話は、どうなった?」
って感じのはなくて、しっかり筋を通してきてる。
カッコいいし、バカげてるし、
でもいいアメリカ映画だなって、ちゃんとお気に入りの一つに。
彼が監督初作品で、こんなに面白いものをつくってるなんて全く知らなかった。
24の演技なんて、実はホントに、朝飯前な感じでやってるのかも。

監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
主演:ミシェル・ピコリ
2001年 ポルトガル=フランス
90年以上生きていると、神さまに近づいていくのか、このおじいちゃんには全く驚かされました。
「夜顔」のマノエル・ド・オリヴェイラ監督。
老年期の「権力を手放す」「物欲を捨て、さらに精神的なものへ向かう」段階を役者として舞台で経験し、実生活では愛する人の死と孤独に向き合う主人公。
どちらも、ごくありふれた人生の終盤にしなくてはいけないこと。
自分の蓄積していったものを、軽々と捨ていくことの難しさ。
こだわりやポリシーと言い換えられた、自己を狭める頑固さ。
「孤独と生きていく」という望まなくてもしなくてはいけない問題から目をそらす為に、孤独を選ぶこと。
この監督は「家路(家に戻る)」ということは、安全な「子宮に戻る」ことを意味していると答えています。
子宮に戻るということは、死を受け入れて新たな生を認めること。
99才の監督は、死を覚悟して更に生を肯定し続けているのです。
監督のインタヴュー映像は、下手な小説や哲学書より面白いです。
その思慮の深さに驚くばかりでした。

監督:オタール・イオセリアーニ
1999年 フランス・スイス・イタリア合作
この人の映画はどれを観ても同じようとも言えるけど、他の監督とは明らかに違う。
言葉やストーリーが映画だとは思っていない。
大きな事件がある訳ではないし、何か社会的テーマがあるようには見えない。
でも、見えないだけで一貫して現代社会への批判がある。
その批判をするには声高である必要はない。
いつも、結局彼の映画の主人公達は日常に戻り、そして名声に縛られることから逃げ、
本当の友や本当に愛する人に戻っていく。
見始めはまた同じ空気の映画か。。と思うが、
終わり頃になれば「ユルい」というような彼の映画への評価は、表面的なものだと分かる。
映画の空気感を越えるものが、
この映画監督の作るものの中にあることがはっきりと分かる。
人生に無駄な出会いがないように、
この映画の中に生きる人は、最後まできっちりと繋がっている。
本人同士が繋がっていなくとも、
間接的に繋がっていることも、何ら変わりなく自分の人生を左右していると、
当たり前のことにも気づかせてれる。

監督:藤井謙二郎
2001年 日本
一人の人間として”ある何か”について話をした時に、
どれだけそこからその人の哲学や世界が溢れ出てくるか。
その体現化されたそのものよりも、
間接的な、でもその人の全てに繋がる、「何気なく選びとる言葉や佇まい」の方を選んでしまうのはちょっとした私の職業病だとしても、
森山大道はそういう人だ。
素晴らしい写真家だからということではなく、
”ある何か”=”写真”から得たものが人間としての魅力と映り、
次第にそういう人が体現するものに触れてみたいと思わせる力。
”写真が人生という人がいるが、
私は人生があってこそ写真がある”というようなことを言ってたのは、
この映画の中の森山大道か、前日に観たキャパか、
それともアンリ・カルティエ=ブレッソンか。
歴史をたどるのではなく、
そこを引き出せたという意味でも、
いいドキュメンタリー映画。


