前々回の老子、第一章では、名の有る無しが重要な分岐点でした。
どう重要なのか? 続きです。
これもいろいろな訳があるのですが、福永先生の解釈が見事なので、まずは、そのままお読みください。
『だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、 いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る。
この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、根源的にはーつであるが名の世界では二つに分かれ、 いずれも不可思議なるものという意味で玄とよばれる。そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、造化の妙用に成る一切万物は、そこを門として出てくるのである』<老子第一章>
「その妙を観る」という「妙」の訳が難しいのですが、一般的には「深淵なる姿」とか「本来の道」とかいうのですが、「妙」とは「かそけき実相」です。
辞書的には「幽けき」と書くところなのでしょうが、あえてひらがなにされたところにこの言葉に込める思いを感じます。
プラトンのいう「現実は影でイデアが本物」、仏教でいう「名もなき世界が実在」ということです。算命学では「神の世界こそが本当の世界」といいます。
「幽けき」というと非現実臭がしてくるので、避けたのかもしれません。
禄存星は「愛の世界」ですが、次元が上がった禄存星は「ほんとうの愛」です。
算命学では明言されませんが、次元で語られている「ほんとうの」世界は、「かそけき実相」の世界であり、仏教でいうところの「名もなき世界が真実」です。
算命学では、大きく考えれば、次元だけではなく、自然と人間の二元で、ベクトルが自然に向かうのは、自然が真実だという考え方が明確だからでしょう。
ただ、東洋では本物と仮象という発想はしますが、根源が一つ(陰陽を一極がつなぐ三位一体)であることも強調されています。西洋ではこの発想はむずかしいかもしれません。
老子に戻ります。
「妙」に対して人間世界を意味する「徼」の解釈も諸説あるのですが、一般的には「上面」「結果としての姿」みたいな意味で、プラトンの影の世界に近いです。
「かそけき実相」(神の真理)を観るには、無欲であるべしと説かれています。
欲を持つことが、差別と対立で成り立つ人間世界を生きることになります。
これはいい悪いではなく、名のある世界を生きる人間の必然的姿とも言えます。
名のある世界ゆえに欲が生まれ、それは人間を生かすエネルギーの本質です。
だから、無欲は人間やめますかに近い選択で、実質は不可能に近く、それは修行僧の求める世界でしかないというのが実情でしょう。
でもですね、陰陽一体で極を作るという三位一体の算命理論を使えば、有欲=無欲となって、これは仏教の悟りの世界です。
算命学の次元論は、おそらく、このあたりを構造的に解明したものではないかと、思っています。
ただ、仏教との違いは、精神的修行では、このイコールの世界へとたどり着けないところです。算命学は現実を苦しみながら生き抜いた人でないと、たどりつけないと教えています。
福永先生は「徼」(人間が住む世界)を「差別と対立の相」といい、そこに「あからさまな」という強調を加えます。いいですね名訳です^^
算命学ではあからさまには語れないところですが、霊魂(かそけき実相)が主役であることは、ずっと底辺を流れています。
「玄」とはそこから造化(存在物)が生じることの不思議さです。
中国古典思想では「造化」という言葉がよく出てきます。
「創造」といえばわかりやすいところをあえて「造化」といいます。
「創る」には未来的抽象的な意味合いがありますが、「造る」ははっきりと目的と形が感じられます。そして、それが「化・仮」です。
そして、仮に存在するものすべては、この根源から生じていると語っています。
次に問題になるのは、無欲ならそれが観えるという部分。
これは理屈ではなんとなくわかるのですが、実感して会得するとなると、彼方をさ迷う言葉です。
==================================