気がつけば●●年?身近にあるちょっとした病気・怪我 -4ページ目

子供の頃の「三大病」(!?)・2

連れて行かれた病院というのは、元は1人の開業医で、
次第に規模が大きくなって医師が何人か交替制をしくように
なったという、中くらいの規模(半端な表現ですが)でした。

3日ほど間隔をおいて2回同じ病院に行ったのですが、
医師は別でした。
水疱瘡という診断は間違いありませんでしたが、その中での
話と、処方された薬には大きな違いがありました。

まず、最初。
水疱瘡といえばあの「白い塗り薬」と記憶されている方も
多いかと思います。 トロっとしてぷるぷるの、あの独特の
感触の薬です。
自分も予測していたので、何の疑いもなくそれを塗って
(塗るというより「チョン、チョン」とつける感じですが)
休んでいました。

そして、2回目です。
念の為というか一応というか、その薬も持参した上で改めて
診察を受けました。すると今度の医師は、

「だめですよ、これは。」

なに!?
これって普通の水疱瘡の薬じゃないのか?と思いながら
話を聞いていると、

「発熱してますよね。(体中に出来ている)水泡のところから
放熱してるわけですから、それを塞いだりしちゃダメです。」

なんと…

まったく違う、イメージとしてはまるでハンドクリームのような
軟膏を処方されました。

1週間ほどして自然に治っていったので、どちらの医師の
処方が正しいのか正しくないのか、今もってわかりません。
しかし、同じ病院なのに医師によって処方がまったく違うのは
どうなんでしょう。
もし診察を受けた順番が逆だったら? 2度とも同じ医師による
診察だったら?
治るのにかかった時間に違いは出てきたんでしょうか。
誰もがかかりうる病気だけに、そんなことで病院不信にまで
陥りかねない、という出来事でした。

子供の頃の「三大病」(!?)

「おたふく風邪」 「三日ばしか」 「水疱瘡」。
これらは大抵、小学生くらいまでの子供の時分にかかる病気です。
もちろん、大人になってからかかる場合もあります。

自分の場合、上記の順番にかかりましたが、水疱瘡だけは
成人になってからでした。

おたふくは、あごの両脇が「なんだか妙に張ってて思うように
首が傾けられないなぁ… 引っかかるなぁ」
三日ばしか、いわゆる「風疹」ですが、これはほとんど感覚が
記憶にありません。高熱は出たと思いますが、といった程度です。

問題は水疱瘡。
普通は子供の頃にかかる、という思い込みがあったので、
「かからないまま20歳を過ぎてしまったなぁ」
「遅ければ遅いほど大変だって言うしなぁ」
などと思っていました。

どの病気も突然かかるものですね。

自分の水疱瘡の場合、その20歳のときでした。
5月です。5月だというのにやたら涼しかったそうですが、
自分はドカンと高熱を出したので、気温どころではありません。
息をするのも苦しい。
「ぜぇぜぇ」と表現するのがぴったりです。
体中に水泡が現れていたので「ついにかかったか!」と思いながら
寝込んでいました。
熱で暑苦しいし動けないし…で、1日そのままでいましたが、
翌日には病院に連れて(親に)行ってもらいました。

次回は病院での医師の話です。

中学の時

辞書を見ると、ねんざとは
「手や足などの関節に無理な力がかかり、外れかかって
靱帯や腱が損傷された状態。痛み、腫れなどを伴う」
とあります。

ねんざをしたのは中学のとき、後にも先にも1回だけです。
「早朝マラソン」と称して、授業前に校庭を好きなだけ走る。
当時そんな時期がありました。
当時の担任が早朝マラソンを強く推奨していたこともあり、
「しょうがない、たまには走るとするか」という感覚で準備を
していました。(走るのは大嫌いな部類だった)
まぁ、マラソンとは語呂がいいからで、実際は「ジョギング」
でしたけども。

その朝、教室から降りてくる階段(教室は3階だった)を
普通に歩いていたのが、1階につく直前(5、6段上)で、
急に足首が外側に「ガクッ」となったのです。

もう、動けません。

すじが伸びてしまったのでしょう。
かなり痛かったので、当然校庭には出られず保健室直行。
湿布を貼る程度かと思ったら、かなりたくさんの、やわらかい
粘土状の湿布薬をまるで左官のように塗りたくり、布をかぶせ
包帯をひと巻き使いきるグルグル巻き状態にしました。

その日の放課後、今度は総合病院で湿布を巻きなおし。
さらに大きく長い包帯でグルグル巻きにし、ガッチリ固定です。

見た目に普通に歩けるようになるまで2週間はかかりました。
その後も違和感は残り、完全に消えるまでには2ヶ月くらいは
かかったと思います。
たかがねんざ…ではありませんでした。

入院期間

痛みがほとんどなかったので、手術したというのがまるで
うそのような感じでした。

印象に残っているのは、どのくらい入院しているんだろう、と
いうことと、入院期間中の食事です。何もすることがないので
そればかりが記憶に残っています。

食事の中でも、おかずはほとんど覚えていません。
何を覚えているかというと、ご飯です。最初の頃は、とろとろの
八分粥くらいから始まって、五分、三分、一分、全…と、
だんだん硬くなっていったことです。
元々小食の自分でしたので、常に全部食べられたわけでは
ありませんでしたが、順調に回復していきました。

入院期間は、11日だったとのことです。
今、同じ手術をしたらやはりそのくらいの期間はかかるんでしょうか。

当時は「自家中毒」と言っていましたが、同時に「アデノイド」と
いう言葉も聞いていました。
厳密には違うようですが、ほぼ「扁桃腺」=「アデノイド」といっても
いいようです。
現在では、何やら「アデノウィルス」という言葉を耳にします。
扁桃腺からくる発熱の原因は「菌」ということなんでしょうか。
調べてないので詳細はわかりませんが、「菌」が原因だとしたら
今は治療法も全然違うでしょうし、手術をする子供なども当時より
圧倒的に少ないのかもしれないですね。

扁桃腺の手術・2

しばらくして、自分の順番がやってきました。
手術台に寝かされます。

(これが手術台か…)

テレビでしか見たことのなかったあのライトが見えます。
すると、医師が手に何かを持って、自分の顔に向けます。
黒い、片耳だけのヘッドホンのような…
麻酔でした。

全身麻酔にすることは直前に聞いていました。
「ゆっくり深呼吸してくださいね…」

麻酔とはすごいものです。
すぐに意識がなくなりました。かかった時間は、ものの1分程度
だったのではないかと思います。

………

気が付いたときは、病室でした。
両親が本か何かを読みながら付き添っていたようです。
親によると、まるまる48時間寝ていたそうです。

扁桃腺を切り取って、傷が痛むものだと思っていましたが、
不思議なほど痛みはありませんでした。
いつもと違う部屋で目が覚めたというだけの、それ以上の
ことは特別には何も無い感覚でした。

扁桃腺の手術・1

何せ、小学1年生。手術はおろか入院の経験もなかったので、
それがいきなり、という印象はやはり強いものでした。

手術室へ向かう病院の階段を、看護婦に連れられながら
登っていきました。何階だったのかは覚えていませんが、
看護婦が結構早足で大変だったと記憶しています。
今思えば、手術室が高い階にあるのは不思議な感じです。

手術室に着くと、なんと他の人が手術を受けているところが
見えたのです。 それも、これから自分が受けるのと同じ、
つまり扁桃腺の摘出手術だというのを後で聞きました。

あらかじめ、手術服を着せられています。
その上、順番待ちです。

待っていると、こともあろうに先に手術を受けている人が
「ゲボッ」とか「ガァッ」という、音とも声ともつかないような
音を発しているのが何の障害も無く聞こえるのです。

「ええぇぇぇ… これからこんなの自分もやるの??」

と思ったものです。
これは記憶が定かでないのですが、そのとき看護婦に
「怖い?」と聞かれたような気がします。

(そりゃ怖いがな!)

この言葉通りではないですが、そんな声聞かされりゃ
怖いのも当たり前だろうが!と思っていましたが、
そこはまだ1年生。確か「う~ん」と、はっきりとは返事を
しなかったと記憶しています。

さらに子供の頃の話

自分には、扁桃腺がありません。
正確には「扁桃腺手術をした」わけですが…
時期でいうと、物心のつく前からになりますので、わずかな
自分の記憶と、親の話を総合してのものになります。

親の言葉を借りれば、自分は「1週間で病院に行かない日が
1日か2日」という弱い子供でした。
すぐに扁桃腺を腫らして高熱を出す。

当時は電子式の体温計などありませんでしたから、すべて
水銀式でしたが、目盛は大抵42度までです。
熱がひどかったときは、その42度の目盛を超えたことも
何回かありました。

そのたびに親が病院に連れて行き、注射なり薬をもらうなり、
という治療を繰り返していたわけです。

今は使われなくなったようですが、当時はこの病気を

「自家中毒」

と呼んでいました。
成長するにつれて自然に治っていく子供も多かったという
ことで、自分も小学校に上がるまでは特別な治療は
してきませんでした。

ところが、小学校に上がっても、いわば「発熱グセ」は一向に
治る気配を見せません。2、3歳の頃(上記)のように、
病院が週5回などということはさすがになくなりましたが、
それでも1~2週間に1回くらいは通院していました。
これでは、今後通学にも支障をきたすと心配した親が、
改めて医師の診察を受けるように自分を病院に連れて
行きました。

その結果、手術に踏み切ることになったのです。
小学校1年の秋のことでした。

親不知・2

ガッチリと頭を抱えられ、もうほとんどヘッドロック状態で
ギーギーと親不知を削っていきます。
それだけでもキツかったですが、ある程度削ると後は
引き出しにかかります。このときはヘッドロックがより一層
強くなります。
声にこそ出しませんが、「せーの、えやっ」「むんっ」という
医者のかけ声が聞こえてきそうな勢いです。

これを何回繰り返したでしょうか…
ついに自分も力尽き、むせ返って気分が悪くなってしまいました。

医者もその状況を見て、継続を断念。
「これで一旦やめておきましょう…」

「まぁ、半分くらいは取れ(削れ)ましたので、これで残った歯が
歯ぐきに埋まって痛みが出なければ大丈夫ですけどね」

さんざん体力を使って、抜けきれず。
残った半分の歯は、今もそのままです。
痛みは出ていませんが、いつの日かまた奥歯にぶつかりそうに
なる時がやってくるのかどうか…

親不知・1

時期はちょっとズレまして、その後のことになります。
左右の下、両方の親不知が気になり始めました。
特に右下は虫歯となってしまっていました。

単なる虫歯の治療でも、かなり苦労した経験から、
(「歯科・2か所目」参照)
歯医者は勤務先ではなく自宅近くに変え、すぐに
自宅に戻れるように…と考えて行きました。
とりあえず「一旦は虫歯を治す」方向で打診したものの、

「百害あって一利なし」

と、抜歯する方向に切り替わりました。
いっぺんに両方抜くのは無理なので、右下から
手がけました。
これは順調に、また無事に完了。
「跡」もうまくふさがり、問題なし。

問題は、左下。
こちらは生え方がやっかいで、手前の奥歯に
「突撃」する方向を向いてしまっていたのです。

前回の左下奥歯の治療のときに、相当大きな
穴をあけ、かぶせ物をしていたこともあって、
このままではそちらにも影響を与えてしまう…と、
医師から伝えられた方法は…

「少しずつ削って引き出し、また削って引き出し…
これを何回か繰り返すしかないでしょう」

これはキツそうだ。

…キツかった。(苦笑)
次回に続きます。

意外なこと

当時の同僚にも同じ歯医者に通ったことのある人がいて、
その人の言うには「あの医者ヤブだろう」とのことでした。
自分にはまったくそうは思えなかったんですが。

それはともかく。
「意外だったこと」とはなんだったのか、ですが…

歯医者に通院していて、いつも不思議だったことの1つに、

「何故いっぺんに治療しないんだろう」

と思ったことのある人は多いのではないでしょうか。
1本の歯でも、何回も何回も…
医者がそのワケを教えてくれたのです。
「普通は教えないんですけどね」という前置きがあり、

「保険の組合がウルサイ」
んだそうです。
どういうものかはわかりませんが、あまりに短期間に
治療を終えてしまうと「組合」がツッコミをいれてくる
のだとか。
逆に言えば、「やろうと思えば短期間で出来る」と
いうことです。
はー、そういうこともあるんだなぁ、と思ったものです。