50年代のアメリカ映画には、今となってはもう、ハリウッド映画では決して見られない、失われたツヤと輝きがある。
特に、モノクロの映画は素晴らしい。
ハリウッドの誇張された演出やライティングは、モノクロだからこそ生きる。
その時代の中で、私が特に好きな映画が「狩人の夜」。
DVDでは何度も見ていたけれど、まさか劇場で観ることができるとは思ってもいなかったので、映画の神様に感謝の気持ちで手を合わせながら、池袋文芸坐へと向かう。
「狩人の夜」は、俳優チャールズ・ロートンの監督作品。(ちなみに彼は、この1作品しか撮っていない)。
9歳の男の子と4歳の女の子がいるとある貧しい家族。
父親は貧しさのあまり銀行強盗をするが、そのお金のありかを知らせないままつかまって処刑されてしまう。残された未亡人のもとにハリー・パウエルと名乗る魅力的な伝道師が現れ、再婚することになるが、実はこのハリー、後家ばかりを狙って詐欺を働き、財産をだまし取っては殺してしまう、非情な殺人鬼だった。
銀行から強奪した大金を、2人の子供、ジョンとパールが隠しているとわかると、早速ハリーは未亡人を殺害し、2人の子供からお金を奪おうとする。しかし、子どもは巧みに逃げて、船に乗り川を下って街を出ていく。
ハリーはもちろんそれで諦めるはずもなく、執拗に2人の子供を追いかけていく・・・
というのが、ざっくりしたあらすじ。
原作はとある小説家の処女作とのことだが、巧みなストーリーテリングからは素晴らしい才能がうかがえる。古典的と言えば古典的なストーリー。ただし、登場人物各々の描き方などは、映画の演出の素晴らしさもあるとは思うが、もともとの原作のキャラクターデザインが素晴らしいのだと思われる。
そう、この映画の見所は、なんといっても登場人物たちの描かれ方。
その代表と言えばもちろん恐ろしい殺人鬼のハリー・パウエル。
伝道師という表の顔と、殺人気という裏の顔を使い分け、右の指には「LOVE」と刺青をし、左の指には「HATE」と刺青をしている。
女性がうっかり騙されてしまう、いや、だまされると分かっても逃れ難い色をもった甘いマスク。
“悪”はたいてい魅力的な外見をして、私たちをたぶらかすものなのだ。
対して、ハリー・パウエルから逃れようと(又は戦おうと)する2人の子供、ジョンとパールは、純粋で、勇敢で、悪に対抗する天使のようである。
ただし、まだ分別のない4歳のパールは、一見優しげなハリーに抱かれると、亡き父親の代わりに甘えて、まるで娼婦のようなそぶりを見せる。
4歳でも、ハリーの色の魅力に染まっていくように見えて、それが何とも言い難い恐怖心を私に与える。
無垢なものが持つ、コケティッシュな魅力と悪の魅力が紙一重になる瞬間とでも言おうか。
早々と殺されてしまうジョンとパールの母親も、人の良さと女の弱さが仇となり、ハリーの魅力に取りつかれ、悲劇を迎えてしまう。
町民の前で、髪を振り乱し、ハリーと一緒に説教を唱える様はまるで正気の沙汰ではないが、短いながらインパクトのあるこのシーン、アカデミーを始め、数々の映画賞を受賞した、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』にもまったく同じシーンがあり、『狩人の夜』が下敷きだったのか、と、思い出した人も少なくないだろう。(名前を忘れてしまったが、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で伝道師をやっていた俳優も、心なしかハリー役のロバート・ミッチャムとイメージがかぶる)
母親の死体は馬車にくくりつけられて、湖(もしくは沼?)に沈められる。
まるで水中で、馬車に乗っているかのようである。
顔は、血の気が引いて青白く、水を伝って水上から差し込むわずかな光が頬を照らし、幽玄美が漂う。
カメラがふっと、水面に移る。
そこには釣り人が酔っ払いながら釣竿を水の中に垂れている。
底のほうで、何か、ゆらゆらと水藻のようなものが揺れている。
ゆらゆらゆらゆら。
またカメラが水中に戻り、女の死体を映し出す。
女の金髪が、ゆらゆらゆらゆら、水藻と一緒にたなびいている。
白いスモックのようなネグリジェのような衣装も、水の中で、ゆらり、ゆらり。
和風に例えるならば、柳の下の幽霊のような、たおやかで、情感のある死体の描き方だ。
美しい死体というものは、映画ならではの大事なコンテンツで、いつかそれをネタに一冊本を書きたいと思っているくらいなのだが、この映画のこの死体のシーンは、おそらくその本を書いたとしたら一番最初の章で紹介したいくらい、本当に美しく素晴らしい完成度なのである。
そこここに、素晴らしい要素がある映画ではあるが、この、美しい死体のシーンを観るだけでも、文芸坐で入場料を払う価値がある、と私は思う。
そして、この、美しい死体が、ハリーという殺人鬼の恐ろしさをより際立たせていることは間違いないだろう。
よく、真冬の寒さに、『芯が冷える』という表現を使うが、『芯が冷える』ような恐怖がここにはある。
結局、ジョンとパールの二人は、リリアン・ギッシュ演ずる老婦人に拾われ、そこでハリー・パウエルと対決し、最終的にハリーを警察に引き渡すことに成功する。
ジョンは、警察に逮捕されるハリーを見て、ふいに、かつて自分の父親が目の前で警察に逮捕されたことを思い出し、それが今のハリーと重なって、敵であるはずの殺人鬼をかばいだすのである。
『行かないで、お金ならあげるから』と。
幼心にも、気丈に殺人鬼と戦っていたジョンの、張りつめていた糸がぷつんと切れた瞬間。おそらく、観客の誰一人、こんなシーンが出てくるとは思ってもいなかっただろう。
この映画がただのスリラーではなく、深みを持ったドラマとなっているのは、こういった人間の真理を深く追求した点にあるのだ。
それまで観客は、殺人鬼から逃げるという切迫した恐怖の中に身を置いていたが、その逃亡が幕を閉じ、ほっと安堵のため息をつこうとした瞬間に、今度はぐっと胸をつかまれ、息もできないせつなさを味わわされるのである。
何と心を揺さぶる映画だろう。
贅沢な映画というのは、お金をかけた豪華なセットの映画でもなく、ギャラの高い俳優が出ている映画でもなく、こういった、何層にもまたがったストーリーや演出を持った映画のことを言うのだと、私は声を大にして叫びたいくらい。
それにしても、殺人鬼の恐ろしさとは別に、もうひとつ、私にとってはとても恐ろしいことがこの映画には描かれている。
殺されてしまう母親が務めていたスプーンというお店の人のよさそうなおかみさん。ハリーが伝道師というだけで人格者と崇拝し、ハリーと母親の再婚も、このおかみさんがたきつける。しかし、ハリーが殺人鬼と分かった瞬間、手のひらを返し、ハリーを糾弾、攻撃しだす。
その様は、『あんなに良い人が、信じられない・・・』というそぶりではなく、『最初から悪魔と思っていた』といったようなそぶりである。
人のよさそうな女将さんだが、その表層にとらわれ、世論によって矛先を変える様は、私には殺人者の恐ろしさと種類は違えど、同じような深さをもった、恐怖心が植え付けられた。
とめどなく、この映画について興奮しながら筆を進めてしまったが、最後に、この映画の美しい映像についても付け加えたい。
冒頭で述べた、モノクロの美しさは、誇張気味の、計算されたライティングによるところが大きい。
この映画は、幼い2人が川を下って逃げるところを境に2分割できると思われるが、その川を挟んで前半のシーンでは、必ず画面のどこかにベタに近い暗闇があり、それがストーリーのもつ恐怖感や不安感をうまく強調している。
川のシーンでは、水面に月や星の光が反射して、きらきらきらきらと、束の間、恐ろしさを忘れてしまうような、おとぎの国の夜のような、純粋な美しさが画面に表れる。
川を挟んで後半は、画面全体がくっきりと、ただし、光が巧妙に使われ、物語ときちんとリンクした一つの演出となる。
特に、老婦人とハリーが対決する夜のシーンでは、老婦人の住む部屋のロウソクが一瞬ふっと消えた瞬間に、窓の外にいたはずの殺人鬼ハリーの姿が見えなくなるなど、分かりやすく光と闇を使った演出が妙である。
(そのシーンは、ハリーと老婦人の聖歌の掛け合いもあって、見どころのある、名シーンの一つである)
光と闇
子どもと大人
善と悪
これらの対比を織り交ぜた中で、普遍的なメッセージを、これほどまでに美しく奥行き深く描いた映画も他に類を見ない。
はたして、次にスクリーンでこの映画を観れるのは、いつになることだろう?
公開当時はあまり人気が出ず、日本での初公開も30年近くたってからだったというこのフィルムノワール。
幸いDVDは出ているようなので、どうぞ、みなさん、覚悟して、この映画をご覧ください。
私のように、うっかり心が奪われないように、ご注意ください。