クローゼットや収納棚にあるものを
すべて部屋に引っぱり出して
必要なもの そうでないもの この際捨ててしまうもの
一つ一つ より分けています


およそ2年間
一度も使わなかったものがたくさん
必要以上のものがたくさん
頂きものの 仕舞いこみがたくさん

ああ なんて私は無駄つかいの名人でしょう

無駄は お金はもとより
スペースの無駄 資源の無駄 機会の無駄
そして何より 日々の 人生の無駄つかい

この際 全部捨てましょう
もったいないけれど 潔く
これは 今までの 無駄つかい名人への戒め

そしてこれからは無駄を
少しづつ 私の人生からそぎ取って生きましょう

本当に大切なもの 必要なものを埋もれさせない為にも

そして すでに持っているのに
忘れているはずの何かを思い出して
それをよみがえらせる為にも


今度は 部屋に引っぱり出して残ったもの達を
ひとつひとつ 段ボールに詰めていきます


部屋の整理と心の整頓

私 この度 引越します

先日も、皆様に紹介いたしました幸田文さんの『しつけ帖』を、思いつくままに開いたり閉じたりとしながら、初夏というにはまだしんとした空気の夜を、所在なく過ごしています。

この本に巡り合って、私は、今は亡き幸田文さんを、身近な、それでいていつもそばにいるというわけではない、まるで祖母のような存在として感じています。

遠い遠い思い出の中から引っ張り出してきた言葉たちが、春の霧雨のように、しっとりと私の心の中に染み入って還っていくのを感じています。

ある思いが言葉となり、言葉が文章となり、文章がひとつの章となり、章が集まりそれが小説となり、そして、小説が一冊の本になる。

その本が、誰かの手に渡り、その小説を読み、章を踏まえ、とある文章に触れ、その言葉が心に帰り、新たな思いがうまれていく。

書物の素晴らしさについて、多くを語ることは控えておきましょう。

なぜなら、今、目の前にいあるあなたは、すでにそれをご存じでしょうから。

とても確かなことは、言葉には、匂いがあり、感触があり、そして、ぬくもりがある、ということ。

それにしても、眠りにつき、そして、眼ざめの朝がやってくるのは、まるで、私という物語を、一頁一頁めくって進めていくかのようですね。

50年代のアメリカ映画には、今となってはもう、ハリウッド映画では決して見られない、失われたツヤと輝きがある。

特に、モノクロの映画は素晴らしい。

ハリウッドの誇張された演出やライティングは、モノクロだからこそ生きる。

その時代の中で、私が特に好きな映画が「狩人の夜」。

DVDでは何度も見ていたけれど、まさか劇場で観ることができるとは思ってもいなかったので、映画の神様に感謝の気持ちで手を合わせながら、池袋文芸坐へと向かう。

「狩人の夜」は、俳優チャールズ・ロートンの監督作品。(ちなみに彼は、この1作品しか撮っていない)。

 9歳の男の子と4歳の女の子がいるとある貧しい家族。

父親は貧しさのあまり銀行強盗をするが、そのお金のありかを知らせないままつかまって処刑されてしまう。残された未亡人のもとにハリー・パウエルと名乗る魅力的な伝道師が現れ、再婚することになるが、実はこのハリー、後家ばかりを狙って詐欺を働き、財産をだまし取っては殺してしまう、非情な殺人鬼だった。

 銀行から強奪した大金を、2人の子供、ジョンとパールが隠しているとわかると、早速ハリーは未亡人を殺害し、2人の子供からお金を奪おうとする。しかし、子どもは巧みに逃げて、船に乗り川を下って街を出ていく。

 ハリーはもちろんそれで諦めるはずもなく、執拗に2人の子供を追いかけていく・・・

というのが、ざっくりしたあらすじ。

原作はとある小説家の処女作とのことだが、巧みなストーリーテリングからは素晴らしい才能がうかがえる。古典的と言えば古典的なストーリー。ただし、登場人物各々の描き方などは、映画の演出の素晴らしさもあるとは思うが、もともとの原作のキャラクターデザインが素晴らしいのだと思われる。

そう、この映画の見所は、なんといっても登場人物たちの描かれ方。

その代表と言えばもちろん恐ろしい殺人鬼のハリー・パウエル。

伝道師という表の顔と、殺人気という裏の顔を使い分け、右の指には「LOVE」と刺青をし、左の指には「HATE」と刺青をしている。

女性がうっかり騙されてしまう、いや、だまされると分かっても逃れ難い色をもった甘いマスク。

“悪”はたいてい魅力的な外見をして、私たちをたぶらかすものなのだ。

対して、ハリー・パウエルから逃れようと(又は戦おうと)する2人の子供、ジョンとパールは、純粋で、勇敢で、悪に対抗する天使のようである。

ただし、まだ分別のない4歳のパールは、一見優しげなハリーに抱かれると、亡き父親の代わりに甘えて、まるで娼婦のようなそぶりを見せる。

4歳でも、ハリーの色の魅力に染まっていくように見えて、それが何とも言い難い恐怖心を私に与える。

無垢なものが持つ、コケティッシュな魅力と悪の魅力が紙一重になる瞬間とでも言おうか。

早々と殺されてしまうジョンとパールの母親も、人の良さと女の弱さが仇となり、ハリーの魅力に取りつかれ、悲劇を迎えてしまう。

町民の前で、髪を振り乱し、ハリーと一緒に説教を唱える様はまるで正気の沙汰ではないが、短いながらインパクトのあるこのシーン、アカデミーを始め、数々の映画賞を受賞した、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』にもまったく同じシーンがあり、『狩人の夜』が下敷きだったのか、と、思い出した人も少なくないだろう。(名前を忘れてしまったが、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で伝道師をやっていた俳優も、心なしかハリー役のロバート・ミッチャムとイメージがかぶる)

母親の死体は馬車にくくりつけられて、湖(もしくは沼?)に沈められる。

まるで水中で、馬車に乗っているかのようである。

顔は、血の気が引いて青白く、水を伝って水上から差し込むわずかな光が頬を照らし、幽玄美が漂う。

カメラがふっと、水面に移る。

そこには釣り人が酔っ払いながら釣竿を水の中に垂れている。

底のほうで、何か、ゆらゆらと水藻のようなものが揺れている。

ゆらゆらゆらゆら。

またカメラが水中に戻り、女の死体を映し出す。

女の金髪が、ゆらゆらゆらゆら、水藻と一緒にたなびいている。

白いスモックのようなネグリジェのような衣装も、水の中で、ゆらり、ゆらり。

和風に例えるならば、柳の下の幽霊のような、たおやかで、情感のある死体の描き方だ。

美しい死体というものは、映画ならではの大事なコンテンツで、いつかそれをネタに一冊本を書きたいと思っているくらいなのだが、この映画のこの死体のシーンは、おそらくその本を書いたとしたら一番最初の章で紹介したいくらい、本当に美しく素晴らしい完成度なのである。

そこここに、素晴らしい要素がある映画ではあるが、この、美しい死体のシーンを観るだけでも、文芸坐で入場料を払う価値がある、と私は思う。

そして、この、美しい死体が、ハリーという殺人鬼の恐ろしさをより際立たせていることは間違いないだろう。

よく、真冬の寒さに、『芯が冷える』という表現を使うが、『芯が冷える』ような恐怖がここにはある。

結局、ジョンとパールの二人は、リリアン・ギッシュ演ずる老婦人に拾われ、そこでハリー・パウエルと対決し、最終的にハリーを警察に引き渡すことに成功する。

ジョンは、警察に逮捕されるハリーを見て、ふいに、かつて自分の父親が目の前で警察に逮捕されたことを思い出し、それが今のハリーと重なって、敵であるはずの殺人鬼をかばいだすのである。

『行かないで、お金ならあげるから』と。

幼心にも、気丈に殺人鬼と戦っていたジョンの、張りつめていた糸がぷつんと切れた瞬間。おそらく、観客の誰一人、こんなシーンが出てくるとは思ってもいなかっただろう。

この映画がただのスリラーではなく、深みを持ったドラマとなっているのは、こういった人間の真理を深く追求した点にあるのだ。

それまで観客は、殺人鬼から逃げるという切迫した恐怖の中に身を置いていたが、その逃亡が幕を閉じ、ほっと安堵のため息をつこうとした瞬間に、今度はぐっと胸をつかまれ、息もできないせつなさを味わわされるのである。

何と心を揺さぶる映画だろう。

贅沢な映画というのは、お金をかけた豪華なセットの映画でもなく、ギャラの高い俳優が出ている映画でもなく、こういった、何層にもまたがったストーリーや演出を持った映画のことを言うのだと、私は声を大にして叫びたいくらい。

それにしても、殺人鬼の恐ろしさとは別に、もうひとつ、私にとってはとても恐ろしいことがこの映画には描かれている。

殺されてしまう母親が務めていたスプーンというお店の人のよさそうなおかみさん。ハリーが伝道師というだけで人格者と崇拝し、ハリーと母親の再婚も、このおかみさんがたきつける。しかし、ハリーが殺人鬼と分かった瞬間、手のひらを返し、ハリーを糾弾、攻撃しだす。

その様は、『あんなに良い人が、信じられない・・・』というそぶりではなく、『最初から悪魔と思っていた』といったようなそぶりである。

人のよさそうな女将さんだが、その表層にとらわれ、世論によって矛先を変える様は、私には殺人者の恐ろしさと種類は違えど、同じような深さをもった、恐怖心が植え付けられた。

とめどなく、この映画について興奮しながら筆を進めてしまったが、最後に、この映画の美しい映像についても付け加えたい。

冒頭で述べた、モノクロの美しさは、誇張気味の、計算されたライティングによるところが大きい。

この映画は、幼い2人が川を下って逃げるところを境に2分割できると思われるが、その川を挟んで前半のシーンでは、必ず画面のどこかにベタに近い暗闇があり、それがストーリーのもつ恐怖感や不安感をうまく強調している。

川のシーンでは、水面に月や星の光が反射して、きらきらきらきらと、束の間、恐ろしさを忘れてしまうような、おとぎの国の夜のような、純粋な美しさが画面に表れる。

川を挟んで後半は、画面全体がくっきりと、ただし、光が巧妙に使われ、物語ときちんとリンクした一つの演出となる。

特に、老婦人とハリーが対決する夜のシーンでは、老婦人の住む部屋のロウソクが一瞬ふっと消えた瞬間に、窓の外にいたはずの殺人鬼ハリーの姿が見えなくなるなど、分かりやすく光と闇を使った演出が妙である。

(そのシーンは、ハリーと老婦人の聖歌の掛け合いもあって、見どころのある、名シーンの一つである)

光と闇

子どもと大人

善と悪

これらの対比を織り交ぜた中で、普遍的なメッセージを、これほどまでに美しく奥行き深く描いた映画も他に類を見ない。

はたして、次にスクリーンでこの映画を観れるのは、いつになることだろう?

公開当時はあまり人気が出ず、日本での初公開も30年近くたってからだったというこのフィルムノワール。

幸いDVDは出ているようなので、どうぞ、みなさん、覚悟して、この映画をご覧ください。

私のように、うっかり心が奪われないように、ご注意ください。

久しぶりに、胸が熱くなる映画を観ました。

ハーモニー・コリンの
「ミスター・ロンリー」
http://misterlonely.gaga.ne.jp/

マイケル・ジャクソンの物まねを生業とし、マイケルとして生きている男が、マリリン・モンローの物まねを生業としている女に、ささやかな恋をした話。

女には、チャーリー・チャップリンの物まねをする夫と、シャーリー・テンプルの物まねをする7歳の娘がいる。
彼らは辺鄙な土地の古城で、他にもたくさんの物まねアクターたちとともに共同生活をし、地上最大のショーを開催すべく、自分たちの手作りで劇場を作っている。

そこへ、モンローがマイケルを連れて帰り、奇妙で優しい共同生活が始まるのだが・・・・


とにかく素敵で切ない映画。
そして何よりとても新しく観たことのない映画。

主演のディエゴ・ルナは繊細な演技でとても良いし、脇の役者も素晴らしい。

マリリン役は実力派のサマンサ・モートン。
マイケルのエージェント役には鬼才監督レオス・カラックスが出演しています。
そしてマリリンの夫のチャップリン役には、なんと、カラックスの映画の常連にして天才ドニ・ラヴァンが怪演。

妻のマリリンに「あなた、ときどき、チャップリンじゃなくて、ヒットラーに見えるわ」と言われるときのドニ・ラヴァンの演技はタダものではありません。
(しかし、このセリフも本当にニクイ!)

そしてこの映画は、この主ストーリーとは別に、もうひとつ別の、生と死と信仰に関するストーリーが織り込まれます。
2つの話は並行して進み、交わることなく終わりますが、交わらずとも、どこか同じ静脈から派生している毛細血管のような関係です。

かつて1950年代に、シネフィル達がヌーベル・ヴァーグを初めて見たときに、きっと、こんな熱い気持ちになったのかもしれない、と思わせるようなこの映画、「ミスター・ロンリー」。

ちなみに、監督ハーモニー・コリンは、前作「ガンモ」で、ベルトルッチから「過去25年間において、映画に革命をもたらすことができる唯一の作品」と言われ、ガス・ヴァン・サントからは「この映画が私の映画人生をかえた」とまで言われた天才(または変態のどちらか)。

残念ながら現在劇場では観れませんが、DVDではどこのTSUTAYAでもレンタルできます。

本当に、こういう映画に出会った時に、生きていてよかった、映画があってよかった、と、しみじみ思って映画に涙するのです・・・。


Cameo.
鏡の回廊
入口もなければ
出口もないホテル

ゲームに明け暮れる
名もなき紳士たち

女は美しく装い
見えない仮面を纏って
ダンスを幾夜も踊り続ける


アラン・レネの「去年マリエンバードで」
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id5898/

DVDの新盤がリリースされた記念に、只今渋谷のイメージフォーラムで公開されております。(デジタル上映ですが…)

アラン・ロブ=グリエの、まるでスパイラルに陥ったようなナレーションとともに、時間や時代などの客観性から乖離されたドラマ無きドラマが進む。

とある社交場。
美しく着飾った紳士淑女が滞在しているホテル。

とある男が、とある女に、「私たちは去年お会いしています」
と告げるが、女は「記憶にない」という。

繰り返し、執拗に女に詰め寄る男。
記憶の断片をつなぎ合わせていくうちに、だんだんと浮かび上がってくる男と女の関係(関係という言葉が適切かどうかは?だが…)

「私たちはフレデリスクバートの庭園でお会いした」
「去年フレデリスクバートへは行っておりません」
「では、マリエンバートかもしれないし、ここかもしれない」

同じ会話、同じ舞台、同じ顔ぶれの繰り返しで、唯一わかるのは、女の衣装やジュエリーが変わることで、時間と場の違いがわかる。

映画の途中で、「船には羅針盤が必要だ」というセリフが出てくるのですが、まるでこの映画は、羅針盤を失った…いや、羅針盤が狂った船のように、穏やかな波をさまよっている。

この映画、とても難解なように語り継がれておりますが、実はそれほど難しい映画でもなく、「妙」を掴めば入り込める映画と思います。
芥川龍之介の「藪の中」と同じと思ってみると、非常に分かりやすいのでは?

オープニングの、天井をずっと煽りながら動くカメラ、それにかぶさる「足音はじゅうたんに吸い取られる、云々」というナレーション、ゆっくりと正面にカメラが下りると、鏡だらけの部屋の正面に、妖しく輝くシャンデリアが下りる。
不安定感がどっしりと出た、まるで上質なホラー映画のような始まりです。

また、それまで映像も言葉も繰り返しのスパイラルにはまっていたところから、カメラがゆっくりと下りて、最初に人々が登場するところで、言葉の繰り返しが終わり、ナレーションが進んでいく、そして映画の中の演劇舞台の幕が開くところで、映画も幕が開く、というオープニングは見事というか、"美事"です。


出てくる人々はみな仮面を付けたかのように無表情で、ストップモーションかと思うように、突然動きが止まったりします。(実際は、役者がじっと動きを止めているだけなのです。)

ゲームに決して負けない男。
誰が何度挑戦しても決してゲームに負けない男も、ある意味ホラー的怖さがあります。
彼が、この映画の中で何の役割なのか、というのも映画を読み解くキーの一つかもしれません。

横道にそれると、デルフィーヌ・セイリグの衣装がシャネルデザインで、とても美しく見応えがあります。
(ただし、有名な羽付きの衣装2着はシャネルではないようです)

また、モノクロ映像ながら、カラーをしのぐ美しさと陰影は、計算されつくした照明技術のおかげでしょう。
ダンスシーンの光のシルエットが揺れるところは、本当に美しい限りです。
この映画がたまに、"あの世"の話ではないか?と論じられることがあるようですが、それはこのあまりにも美しい照明が、幽玄さを醸し出しているからかもしれないと私は思います。

アラン・レネ監督
「去年マリエンバートで」

これは、私にとって、
色あせることなき映画の宝石です。
自宅で仕事をしながら
ふと
雨の匂いがして
窓の外に目をやると
しとしとしとしと
やはり
春のしずくが
落ちてきた

しとしと
しとしと

けれど
なんだか今日は
外の景色が
まるで
人ごとのように
切り取られた別の世界のように
そんな風に感じられる

数年前
ロンドンで滞在した
とあるホテルを思い出した

高く切り取られた窓から
街路樹を望んで
やはり
今日のような
春の雨を
一人で眺めたことを思い出した

色々な国の
色々なホテルを旅したけれど
その
ロンドンのホテルは
静謐で
おだやかな気が流れて
私は
とても気に入っていた

また別の日では
その窓から見える
芝生のひかれた小さな庭で
陽が傾くまでの間
ウェディングパーティーが行われ
その日
ブライズメイトを務めたらしい
小さな金髪の女の子が
水色のドレスを着て
花嫁さんのブーケを片手に
庭を
走り回っていた


窓の外の景色はいつも
町の図書館で見つけた
小さな詩集のような
または
海外の古本屋で見つけた
可愛らしい絵本のような
ささやかで控え目な
物語を教えてくれる


書き物をしていた手を止めて
あの
女の子が来ていたような水色の
小さなハンカチを探して
雨のしずくを拭ってみた

19歳の時に恋した
S先生のことを思い出した


たしか
20歳くらい年が離れていたと思う


先生といっても
直接私は彼の授業を受けたことはなく
もちろん
会うのはもっぱら学校の外だった


私の大好きな映画
『存在の絶えられない軽さ』

ヴィスコンティ
タヴィアーニ兄弟の映画

思い返せば
それらはすべて
S先生が好きで
私に勧めてくれた映画だった


先生が進めてくれる以前に
観ていたものもあったけれど
先生が好きな映画だということが
私のお気に入りのきっかけになった


S先生は
とても手の指が長く美しい人で
『存在の絶えられない軽さ』の
ダニエル・デイ=ルイスに
その手は似ていた


確かデイ=ルイスのことも好きで
『眺めのいい部屋』の彼の気品について
とくと語っていた記憶がある


私たちが
ぼんやりとした理由でお別れした夜は
車の助手席で
フロントガラスの向こうの景色を見つめながら
まるで
映画を見ているようだった


会わなくなってしばらくたってから
手紙も何もなく
ただ
一冊の本が
S先生の名前で送られてきた


名優ダーク・ボガードの書いた
『レターズ』
という本


それは
ダーク・ボガードと未知の女性Xとの
5年間にわたる文通の記録を書いた
大人の男女の
恋と友情のはざまの記録を書いた本



S先生は今頃
どこで何を想って
過ごしているのでしょうか


私は
15年たった今も
一番好きな映画は
『存在の絶えられない軽さ』
です

星のぬくもりを感じながら
カバーがぼろぼろになるほどに読み返している
お気に入りの本のページをめくる


ソファに寝そべり
穏やかな眠りにつく前の
それは
神聖な儀式のよう



視力を失って
初めて必要としたのは本を読むことだった


白くて四角い病室の中で
たくさんの細い管に繋がれながら私は
本を読むことが
まるで息をすることより必要に感じられた


ぼんやりとした輪郭だけの人々が
入れ替わり立ち替わりやってくるたび
活字を
点滴の管に入れて欲しいとねだった


実際
私の中からは
言葉さえも失われかけていた


唇や舌が
音をつないで言葉を紡ぐことができない


そのために
私の中には
たくさんの言葉が行き場を失って
あふれだしそうな状態


本を読むことは
それらを
あるべきところにあるべきように
きちんと納める作業の役割だったのかもしれない




こうして
一つ一つの言葉を指でなぞりながら
長い歴史の中で
さまざまな人々がペンを握り
本を書きあげたその奇跡を尊びたい



たくさんの物語は
私に誠を教え
たいていの詩は
私に愛を教えてくれた



読書の喜びというだけでは
捉えることのできない
そこには深い生への探求があるのだ



Cameo.

カメオちゃんて
○○さんに似てる!

という
似ている話で
一番多いのが


『うちの母親の若い頃にそっくり!』


です


月に一回くらいは言われます


わざわざ
写真を持ってきて見せてくれる人もいます
確かに
ちょっと似ています


そのほかによく言われるのは

夏木マリさん
野際陽子さん(カメオが眼鏡をかけると)


・・・
要は昭和顔ってことですね


海外編だと
ソフィア・ローレン


なんだか
ごつい女ばっかりだわ


そうそう
最近
ライトさんが
大笑いしながら
カメオを指さして
『シェール!』
と叫んでました


なぜ大笑いするのかは疑問です


かわいらしいところで行くと
藤原紀香さん


えへへ
ファンの人がいたらごめんなさい


先日も
せいじさんがカキコしてくれたのが気になって
さきほど
藤原紀香さんの写真を見ようと
ホームページを開いみてみたら
お誕生日が一緒だということが分かりました
それに
出身地も一緒だった


ちなみに
人ではないもので
よく言われるのが


『魔女っぽい』


です


アニメ「魔女っ子メグ」に出てくる
ノンにあこがれているので
ちょっと褒め言葉な気がしています


うふふ


Cameo.

なんて
締まりの無いカラダ!



鏡を見て驚愕


カメオ
ダイエット致します


Cameo.


P.S.
カメオの二の腕ファンクラブのみなさーん!
二の腕の脂肪はそのまま残しますので
ご安心くださーい!
いつでもプニプニできますよー