ブリュージュ
河原 温
ブリュージュ―フランドルの輝ける宝石
私の苦手な西洋史もの。てな訳で、中身については勉強になりましたとしか言えないのだが、このフランドル地方の人たちとは結構ウマが合うことが多く、また、会うベルギー人がことごとくオランダ語系の人たちである。そうしたことを顧みればたしかに「ブリュージュ」ではなく、「ブルッへ」であるべきなんだろうけど、この「ブリュージュ」黄金期の話を読むと、なるほど、なぜにこの地方の人たちが海外に出かけていくのかよく分かる。元々交易国家として栄華を極めたこの都市は多くの移民集団を抱えていたらしい。その栄華がもう少し続いていたら、出島経由でオランダ語の「ブルッへ」が定着していたかもしれない。私が「ブリュージュ」と言われて思い出すのは80年代に来日した「クラブ・ブルージュ」なのだが、これも極めて日本式(英語風)の呼称だった様だ。クラブの顔だった巨漢FWヤン・クーレマンスも名前からしてオランダ系っぽい。この言語問題は今でも下手すりゃ分離独立に繋がる恐れがあるもので、著者もそういう微妙な問題は詳細に立ち入らないとしている。ただ、終盤にこの地方随一の著名作家の逸話が出てくる。そのローデンバックという人は一貫してフランス語で書いた人らしい。その小説はフランドルをノスタルジックに描きパリで、大ヒットしたとのことだが、ブリュージュ市民には甚だ不評だったらしい。その小説のタイトルは『死の都ブリュージュ』だとか。
★★
アメリカに「NO」と言える国
竹下 節子
アメリカに「NO」と言える国
アメリカを批判したいのか、フランスを礼賛したいのかよく分からん本。たぶん両方なんだと思うけど、どうも初めに結論ありきの違和感が残る。女性の「親仏」というのは必然らしいけど、フランスの新植民地主義がアメリカの新帝国主義に勝るとは、とてもじゃないが思えない。「反米」を自明のこととするのは「知識人」の常識なのかもしれないが、それがアメリカだから反対するでは、中韓の反日と大した違いはない。そこに蔑視と嫉妬が隠されていることは公にされることがないという点において、ヨーロッパがアメリカを見る目と、中韓が日本を見る目は一緒であろう。そうなるとフランス人と同じ視点で日本人がアメリカを見るということは有効なのかという疑問は残る。著者が批判したいのは「欧」と「米」の混同ということで、両者の差異と優越を見極める必要を説いている。たしかに、「古いヨーロッパ」の人たちはアメリカ人と一緒にされることには我慢がならないだろう。ただ「東洋対西洋」の座標軸同様、アメリカ対ヨーロッパの座標軸もまた、世界を二元化しているとは言えないのか。いずれにしてもフランスもアメリカも理想の国家とは、ほど遠いというのが実情である以上、他の安保理常任理事の糞国家どもも含めて、いたずらに両極化は行わないのが懸命である。
★
笑う大英帝国
富山 太佳夫
笑う大英帝国―文化としてのユーモア
こんなことを書くと人間性を疑われてしまうかもしれないが、私の笑いのツボは人と異なる様で、所謂「ユーモア」とか「ジョーク」というものを面白いと思うことはほとんどない。「ウイットに富んだノ.」ってヤツが高貴なものとされてんだろうけど、どうも必死さを感じてしまう。向こうの人にとっては「ジョーク」はたしなみなんで、ツマラン話に笑ってやるのも、上司の「オヤジギャク」で笑わされる日本人同様、社会の潤滑油として機能しているのは分かるが、後々に遺恨を残したりはしないのだろうか。更に告白すると、テレビとかの「お笑い」も何が面白いのかさっぱり分からん。それを隣で視ている日本語が母国語でない人間が大笑いしているの見ると、切なくなってしまったりもするけど、聞くところによると、それも「日本社会理解」の一環として視ている訳であって、自らの「日本語力」とか「国際理解力」や確認すると同時に、「日本に溶け込んだ自分」をアピールするという効用もあるとのこと。そんな無理せんでもいいのにと思うのだが、確かに同じ番組を視て、文化が違う者同士が一緒に笑うというのは大きな意味があるのであろう。しかし、考えてみれば、テレビを視て、心底笑ったのは「ひょうきん族」が最後かもしれない。あまりにバカバカし過ぎて笑うというのは本当のバカなのかもしれないけど、苦しみも極限まで行くと笑ってしまうものらしく、思考停止が笑いを招くということも言えるかもしれない。となると考えさせて笑わせる「お笑い」文化というのはやはり高尚なものなのであろうか。ということで、何と感想を書いていいのか分からない本だったので、トンチンカンなことを記してしまったけど、この著者は英国の文化に溶け込んだエラい人なのだと思う。
★
セレブの現代史
海野 弘
セレブの現代史
この著者はいろんなジャンルに手を出す博識系の人だが、今度のセレブはちょっと意外。ただ、きちっと読みやすい新書にまとめてくるのは、さすがオールラウンドプレイヤー。セレブといっても、例の誘拐事件の女医とか、ヒルズ族なんかじゃなくて、本家のアメリカの話。ということで懐かしのファラ・フォーセットとか、アメリカ一の有名な女性だというバーバラ・ウォルターズなんかが登場。まあセレブの本家がアメリカだとすれば、本元はヨーロッパということで、ケネディ家にしてもブッシュ家にしても、疑似皇族に準えられることが多いのは周知の通り。なんでもアメリカの名家とされる家は娘をヨーロッパの王族に嫁がせることを至上の名誉としていたとのことで、新大陸で成功した成り上がりの心理はそういうものであろう。その説を地でいったのがグレース・ケリーということになるが、そのシンデレラストーリーの裏側で何が起こっていたかは想像の通り。ダイアナもそうだが、死までを悲劇的に演出してしまうのは、それが宿命であると言うのには疑念が生じる。またアメリカではティーンズ・セレブなる潮流があって、これは日本にも上陸しそうだが、麻薬やセックスの問題が出てくると、すぐ親の責任うんぬんになってしまう日本では、パリス・ヒルトンの様なケースでは親子共倒れになってしまうだろう。それにしてもセレブ日本代表が叶姉妹というのは如何なものか。まあ実際、アメリカでもセレブとはその程度のものなのかもしれないけど。
★★
モナ・リザの罠
西岡 文彦
モナ・リザの罠
せっかくだから何かイタリア本をとは思っていたのだが、こんな本が順番に当たってしまった。「美術批評はなぜ意味不明になったか」なんて章もあって、美術美痴の私が読むには適当かと思えたのだが、対象物に全く興味がない以上、意味不明というより、意味不通といった感があった。モナ・リザのモナがMonnaなのMonaなのかについては、単なる言語の違いによる呼称の違いなのだが、イタリア語でMonaが女性器を表すとは知らなかった。仏、西、葡語とも皆バラバラで共通性が感じられないのだが、これに関しては俗称が腐るほどあるから、私の生半可な知識を以て論ずるには値しないかと思う。しかし、モンナ(夫人)とモーナでは、イタリアの女性は日々、セクハラの恐怖に怯えなくてはならないのではないか。ちょっとエロオヤジ系に入ってしまったので、ついでにもう一つ言及すると、北欧の裸婦画と南欧の裸婦画には決定的な違いがあって、前者は寒い国なので、裸体が自然でなく罪として描かれ、後者は暑い国なので裸体が自然で賛美されて描かれているという。一見したところ、その違いはエロオヤジにはよく分からない。ここで何度も書いているスウェーデンの市民プールなんかもそうだが、現在の北欧はやたら裸になるイメージがある。それは太陽が貴重だからということらしいのだが、それに対して南欧ではカトリックの保守的なイメージがあって、南欧のビーチでも脱いでいるのは地元っ子というより、ゲルマン系の方が多い様な気がするのだが、どうだろう。これ以上続けると、また暴走してしまうので、今日はこの辺で。
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