的外れではなかった & 『神社の起源と歴史』 | Hiroshiのブログ

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<教訓>

土曜は時間の余裕があったので、『世界はコロナとどう闘ったのか?』を読んだ。

 

特に6章の「金融危機を回避せよ」が難しかった。この分野は疎く理解が十分ではないが、1つ特筆すべき点があるとすると、2020年3月時点で通常の動きとは異なる展開があったとか。即ち、通常は株式市場が低迷すると、安全資産で流動性のある米国債に買いが入る。ところがこの時点で「全てが売り」に走ったらしい。

 

つまり誰もが「現金」を求め、パニックに陥ったと言う。 米国債が売りに出されると金利が上昇する。そうなると益々投資が抑えられる。

 

著者が言うに、これがリーマンショック時に同じようなことが起こったら恐慌が起こっただろうが、2008年以降、市場が強靭化されたことで幸い恐慌を回避することが出来たらしい。

 

その意味ではリーマンショックは教訓を与えていたわけだ。それにひきかえ、日本は70年代の「石油ショック」を経験していながら、その教訓を忘れていた。バカな国民と政府のせい。


所詮、民主主義では民度以上の政府は生まれない? ならばpol.isとQVによる新しい直接民主主義でも同じ事になるという事かな?

 

 

 

 

<某政党のチラシ>

基本「来る人は拒まず」で政治家も宗教家も歓迎のスタイル。日本は政党政治。特に地方政治では有効。使えるものは痔民党も校名党も強酸党も利用します!

 

昨日も1件。しかしこの政策は賛成出来ない。脱炭素、省エネへのインセンチィブを削ぐ。

 

 

 

 

<的外れではなかった?!>

先日の古代史研究フォーラムで配布された資料を読む。かなり分厚い資料なので、あらかじめHPとかで公開されているとフォーラムの理解が深まるとおもうのだが? 

 

もしかすると既に学術雑誌とかで公開されているものかも? そうなると著作権の問題があるので難しいかな?*


*論文とかで発表すると著作権は出版社に移譲するのが普通。

 

いずれにせよ、これで参加が無料とは驚きだ。多少なりとも会費を取ってもいいように思う、そうしないとこうしたフォーラムの持続可能性が狭まる。

 

因みに九州歴史資料館の入場料も安く(一般210円、中高生150円)、しかも65歳以上や中学生以下は無料。勿論、私の場合該当するのでドライバーライセンスを提示して無料で入館しました(笑)

 

それはそれとして、やはりある程度の入場料や参加費(出来れば安価)を取ってもいいように思う。それがそれぞれの価値を高めると思うが、どうだろう?

 

桃崎祐介氏のレジメより:

聖徳太子の娘、春米女王は異母兄の山背大兄王の妃となったが、蘇我氏批判をした為、襲撃を受け最後は七人の子供もろとも自害したとか。


注目したのは内婚制である点、これは中国の伝統的外婚制と異なる。また七人の子供。これも当時「多産」で幼児死亡率が高かったことと関係あり。

 

国際的な盟約の際に馬を殺して共食する儀礼があったとか。これは初耳だ、何しろこの時代、馬は極めて貴重。それを殺すというのは凄いこと。覚えておこう。

 

 

諫早直人氏のレジメより:

日本在来馬は人為的政策でほぼ絶滅し宮崎の御崎馬などを除き数が少なく、現在天然記念物になっているような状態。

 

日本列島にはもともと野生馬は生息していない。かつて「縄文馬」がいたとの説があるが現在は否定されている。これはフッ素分析などにより後世の混入だと結論されている。さらに現生馬の遺伝子分析によって朝鮮半島経由の蒙古馬由来だとされている(2009年 野澤)。

 

何だ!やはりゲノム解析されているではないか! それならば古代馬のゲノム解析も当然進められているはず! 私の質問は的外れではなかった。寧ろ漠然とした推量ではなく決定的な証拠が得られる筈!

 

それは兎も角、古代馬は古墳中期に導入され急激に分布した。初期は主に騎馬としての利用だが、体重400キロを超す馬を運ぶのは準構造船でも非常に困難。何しろ半島南端から対馬まで50キロ離れている。準構造船1隻に乗せられるのは精々2頭。


考古学的史料(馬遺物)からは、九州北部と近畿に馬導入時期に時間差はない。その組織的輸入には4世紀後半から高句麗南下による軍事緊張があると考えられている。それにより《半島南部諸国と倭国の互恵的関係》が形成されたとする。

 

考古学的資料からは5世紀後半には点的(屯倉での馬の繁殖)に倭国の広い範囲に馬が導入されたと考えられるとか。

 

魏晋南北朝時代には馬具の副葬は一般的ではない。そうしたことから日本の古墳時代の騎馬文化は中国東北部における五胡十六国時代の騎馬文化の延長と考えられる。但し、馬具は半島南部の伽耶百済様式が主(非新羅系)。当然馬だけでなく人(馬具工人等)も渡ってきたはずなので列島独自の様式もある。

 

何と最後に『鉛同位体分析や樹種同定などで同定できれば制作地を同定できるかもしれない』と書かれているではないか!!!


私の質問はここでも的外れではなかったということ。今は加速器を使い微量でも分析できると聞く。ならば銅の産地は確定できるはず。推量に推量を重ねるより確実な事実から決めた方が良い。


多分、専門外なので議論されなかっただけだろう。

 

 

 

 

『神社の起源と歴史』

新谷尚紀著、吉川弘文館、2021年初版。

 

先日からの流れで神社について色々学びたいと借りてきたが、最初のところは文献解釈が多く、一番嫌いな点、「何とでも言える」「それって貴方の印象でしょう?」の世界。何時まで興味が持つか怪しいが、読めるところまで、興味が切れるまで読んでみたい。

 

冒頭「神社」文字が出てくるのは『日本書記』の天武13年(AD684)だそう。p6 後の方で、「神社」は漢文からで大和言葉では「宮」「社」の表現だとか。

 

日本列島最初の稲作は2003年、AMS(加速器質量分析法)による炭素の同位体分析からBC10世紀、玄界灘沿岸地区だとのこと。これが列島全体に広まる(ただし東北以南)のに7世紀かかったらしい。p19

 

つまり春秋戦国時代から秦漢転換期の間に戦乱を避けて日本列島に稲作集団が移動してきたのだろう。勿論その時、稲穂と共に鉄器ももたらしたに違いない。

 

ここでも水田稲作は組織化された土木工事で、農閑期にその組織力は古墳造営にも使われたとする。p21

 

此処で、3世紀の邪馬台国と5世紀の倭の五王の間に横たわる断絶の4世紀をどう考えるかが話題になる。この時期を著者は武力的倭王誕生の時期とみる。そして邪馬台国にも倭国にも「太陽の象徴」のイメージがあるとする。そこから銅鏡、稲作につながる。p28

 

神武天皇は(大和から見て)外来の王のイメージがあるとする。側近に顔に入れ墨をしたことが驚きを持って記紀に書かれていること(大和にはない習慣)p33

 

それにそもそも神武天皇は「東征」した。つまり九州から大和に向かって勢力を拡大してきた。これは稲作耕作地の拡大と考えると個人的には納得いく。あくまで素人の妄想。

 

ここで初めて知ったこととして記紀の編者たちが『魏志倭人伝』を読んでいるとの指摘だ! 9巻の神功皇后(出て来た〜!)の章で卑弥呼の記事を引用しているらしい! 但し、卑弥呼と皇后の関係性については何も言っていないらしい。p39、p42

 

ところで、著者は一連の儀礼を通じて富が再度分配される仕組みを、かのカール・ポランニーを引用している。私の数少ない経済学の知識は大学の教養の経済学で彼の説を習ったことだ。富の再配分の仕組み。p61