『ウクライナを知るための65章』2 | Hiroshiのブログ

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今後不定期投稿となります

今朝は霧に包まれる

 

 

 

 

<偶然と必然>

週2回夜の福岡の繁華街に出かけて密室でダンス、ダンス、ダンス。ほぼ隔日でモールや大型ショッピングセンターでコーヒーブレイク。福岡では相当感染が蔓延しているので、おそらくコロナに多少は暴露していると思うが、今の所発症していない。

 

感染はウイルス暴露量にもよるが、感染しても発症していない可能性もある。もしかして感染済み? 

 

それでも今夜も懲りずに勿論、Salsa, Salsa, Salsa のつもり♬♬♬ 

 

 

 

 

 

<安倍元首相暗殺事件>

大嫌いな政治屋だが、民主主義に対する挑戦であり、許されざるテロ。それとともに戦後日本政治の「闇」が今でも続いていたことを国民の前に明らかにしたという点で意味がある。クソ政治屋の死を無駄にしないためにも徹底的な追及が必要。

 

 

 

 

<ウクライナにおけるユダヤ人迫害>

プーチンが以前、ウクライナ勢力をナチだと言った。ゼレンスキー大統領がユダヤ系であることは大統領自身が認めているので、何を言っているのか理解が出来なかった。しかし断片的な知識で、ウクライナでは歴史的に反ユダヤ主義が強いことを知った。そして大規模なジェノサイドが歴史上に起こったこともあるらしい。

 

そういえば、昔スタンフォード時代に院生にBobと呼ぶロシア系ユダヤ人がいて、ご先祖がロシアから迫害を逃れアメリカにやってきたと聞いたことがある。彼の姓は確かに典型的なロシア姓で、ここでもデジタルマネーの匿名性についての例で彼を登場させたことがある(笑)彼もアシュケナージの一人。

https://ameblo.jp/bigsur52/entry-12581742278.html

 

それは兎も角、ナチスによるジャノサイドは聞いたことがあるがロシアについては初耳だったので彼の話が記憶の断片に残っている。どうやらそれはこういう事らしい。

 

ウクライナは長く独立できず、多くの国に支配されてきた。それはロシアでありポーランドであり、エストニア! (かつてエストニアは大国だったとか、以前「小国」として紹介したことがある、汗)

https://ameblo.jp/bigsur52/entry-12636854783.html

 

あるいはオーストリアのハプスブルグ家であった。その時代にユダヤ人は支配者とウクライナ農民の間に立って時の支配者の間接支配のサポート役として機能したらしい。そういうわけでウクライナでは直接対峙したユダヤ人に対する憎悪が強いらしい。

 

こうした情報は西側の情報だけしか耳に入らない現状では聞かない。今の時代、自由に情報を得ているつもりでも偏ったものしか入手できない。しかもSNSでそれらが増幅される、注意が必要。ヒューマンネットワークの難しさ。

 

 

 

 

『ウクライナを知るための65章』2

4章で「ウクライナの実質的な歴史はスキタイから始まる」と書かれている。p31 そして続いて中世のキエフ・ルーシー大公国の話に移る。

 

これは誤解を招く表現。何故なら、スキタイと今のウクライナ人、文化には何も関係がない。あくまで地理的に一時的に現れたという意味。スキタイ人は中央アジアから流れていたイラン系の人々と言われている。

https://ameblo.jp/bigsur52/entry-12746843836.html

 

この章の担当者は元駐ウクライナ大使のよう。何故このような書き方をするのか不明。単に知らないだけ? そんなはずはなかろうが?

 

19世紀においてもウクライナは、東は帝政ロシアの小ロシア。西部はハプスブルグ帝国のルテニア地方だったとか。p36 クルミアはソビエト時代、ウクライナ出身のフルシチョフによりウクライナに移管されたらしい。p39 これが禍根を残す事になった。

 

ドニプロ川(ロシア語でドニエプル川)の水量の8〜9割はキエフ以北の森林地帯から供給されているらしい。p42

 

キエフの誕生は伝説上ではキリスト教の布教と関係あるらしい。黒海からドニプロ川を遡り布教を行った聖ペテロの兄弟聖アンデレが祝福した土地だとか。p43 但し、歴史書による記載は9世紀、ポリャーネ部族を率いこの地に入植した3人兄弟の長男、キイの名にちなんでキエフと呼ばれたとか。p43

 

その後、このキエフは国際交易の拠点となる。即ち、バルト海〜連水陸路〜ドニプロ川〜黒海。この連水陸路とは船を人力で陸路を移動することで。もともと川を遡る際(バルト海から)には人力で船を引っ張っていたから、その延長と考えれば不思議なことではない。p45

 

7章では西ウクライナが極めて多様な民族構成を持つことの紹介が続く。理由の1つは地形、そして民族の移動がある。前者についてはカルパチア山脈の裾野に位置し、山谷で集落が分割されることによる。p46ここらは南部中国とも共通。