(臨時営業)新型コロナウイルス下のオペラ無料配信(2020年夏)、その他由無し事
2020年7月17日(金) 日本では第2波と言ってもいいような新型コロナウイルスの感染拡大が続いているようで(ここ韓国でも人数はさほど多くないものの依然として新規感染者は出続けている)、政府が推進しようとしていた「Go To トラベル」キャンペーンなる観光振興プロジェクトも見直しを迫られているようである。 このところの新規感染者数の規模からすれば、再び緊急事態宣言を発令してもおかしくない状況であるはずなのだが、新型コロナウイルスで停滞した経済を立て直したいという思惑が先行する余り、政府も自治体も「専門家」たちの意見を参考にすると言いながら(もっともこの「専門家」なるものが必ずしも信用ならないことは以前も書いた通りである)、様々な論理や方便を尽くして緊急事態に「後戻り」しないよう(つまりかなり恣意的な仕方で)尽力しているようである。 もっと状況の厳しいはずの欧米などの経済活動再開に向けた動きを見れば、世界的には日本のやり方が突出しておかしいとも言えないのかも知れないものの、高齢の家族を日本に残している身としては、慎重の上に慎重な方策を取って欲しいと思わずにいられない。 むろん何度も書いて来たように、過去数ヶ月にわたる一連の「ステイホーム」等の動きによって、経済的に「もはやのっぴきならない」状況にいる人たちが数多くいることも間違いなく、景気回復と市民の安全維持とのバランスを如何に取っていくのか、今こそ政府や自治体の力量が試されていると言っていいだろう(と、実に当たり障りのない、凡庸な締めくくりになってしまった)。 しばらく前に、日本の自治体の前近代的な対応に苦言を呈したことがあるが、その後、他に連絡手段がないため、朝一番から15〜30分おきに何回となく(都合十数回)電話をかけ続け(そしてその度に「ただいま電話が混み合っておりますのでおかけ直しください」というメッセージを聞き続け)、夕方になってようやく担当者と話をすることが出来た。 担当者の応対も、今回の案件に関する行政システムも、正直私が想像していたより意外としっかりしていて、「なんだ、思ったほどひどい訳ではないな」(というよりむしろ、「意外と良く出来ているじゃないか」くらいの印象を受けた程である)と考えるようになった。 しかし、私が電話連絡の不便さをいくら述べても、担当者とのやり取りはやはりメールでは不可(電話と郵便のみ可能)とのことで、システムや職員の応対そのものは決して悪くないにもかかわらず、市民とのコミュニケーションという、最も基本の入口(?)部分の不便さによって全体の印象を悪くするという、実にもったいないことをしていると思わずにいられなかった。 前にも書いたように、一般的な質問や疑問が個別の担当者のメール・アドレスに集中したら、その対応だけで手一杯になってしまうことはよく理解出来るのだが、既に必要書類を提出して手続きが始まり、担当者も割り当てられているにもかかわらず、当の担当者との連絡が一般相談窓口の電話(直通番号ではないため電話がつながるまでに多大な時間を要する)か郵便でしか出来ないというのは、双方にとって時間と労力(ついでにお金)の無駄でしかないだろう。 担当者の応対がひどかったら電話口でさんざん文句を言ってやろうと思っていたのだが、決して親切とは言い難い淡々とした(見方によっては事務的な)物腰ではありながらも、こちらの質問に対しては簡潔で過不足ない回答が返って来たため(その結果、再度電話をかける必要性が減ったこともあり)、連絡手段の改善要望を伝えるだけに留めた(もっともそうでなくとも、私は性格的に他人に文句や苦情を言うことがひどく苦手なのだが・・・・・・)。 「ガラパゴス」と揶揄されるように日本企業や行政の対応は未だに内向きで汎用性に乏しいものが多いが、ほんのちょっと改善するだけで(今回の件に関して言えば、連絡手段の追加)、相手に与える印象がガラリと変わり、一気に脱「ガラパゴス」化できる可能性があるとも言え、今はただそのわずかな手間や変化をためらっているせいで、せっかくのビジネス・チャンスや対外的な評価を大いに毀損しているだけだと言っていいだろう。 様々な次元で大勢の人々に被害をもたらしている新型コロナウイルスだが、日本政府や自治体、企業等がこの危機をひとつの転機や転回点と積極的に捉え、これまで「なあなあ」で行われて来た非生産的な慣習を見直していく機会になればと心から願うのみである。 由無し事ついでに書いておけば、しばらく前にここ韓国のメディアでは、「日本による輸出規制」から1年が過ぎたということで、各種素材・部品・設備などの「脱日本化」や「国産化」についての記事や報道が頻繁に目についた。それと関連して、日本製品の「不買運動」の成果を誇るかのような紙面やニュースが目立ったことは言うまでもない。 一方で、アメリカ・ミネアポリスで発生した白人警官による黒人男性致死事件に端を発するいわゆる「BLM(Black Lives Matter)」運動に関する報道もしきりと行われていたのだが、韓国メディア(ついでに韓国政府や政治家たち)は「黒人差別」や「アジア人差別」(実際には韓国人差別のみ)については、時として過剰なまでに敏感かつ大げさに反応するくせに、日本製品の「不買運動」という明らかな「差別」行為に対しては完全にだんまりを決め込み、むしろ暗に推奨・称揚さえしているのが実態である。 それでも一時は、韓国における日本製品の不買運動が差別的なものだという欧米の報道などを気にしてか、これは「No Japan」運動ではなく「No Abe」運動なのだという「苦しい言い訳」が見られもしたのだが(もっとも行動自体は日本製品となれば手当たり次第に買わないというものでしかなかったのだが)、「熱しやすく冷めやすい」と言われる(自分たちでも口にする)気性のせいか、今となってはもはや誰も「No Abe」などという言葉を口にすることはなく、「不買運動」はすっかり正当化されてしまったと言ってもいい。 彼らにしてみれば自分たちを散々痛めつけ、今もそうし続けている日本に利益をもたらす製品を買わないことがどうして「差別」なのだという感覚なのだろうが、これこそまさに「自分がすればロマンス、他人がやれば不倫」というひとりよがりな見方でしかなく、日本製品だから、日本の企業や個人業者だからという理由だけで企業や個人に損害や損失を与えようとすることは紛れもなく「国籍に基づく差別」に他ならない。何よりも、もし同じことを日本(人)が行ったなら、韓国メディアや政府は総力をあげて韓国(人)に対するヘイトだと声高に批判・非難の声を挙げることは100%間違いなく、彼らの自己矛盾は明らかである。 私が韓国メディアが書いたり言ったりすることを、ごく少数(というより、ただ一人の、と書いた方が良いかも知れない)のジャーナリストによるものを除いて、「微塵も」信じる気になれないのは、彼らにとっての「正義」や「判断基準」なるものが、所詮はこうした自分たちに都合の良いものでしかないからである。 特に「客観的なファクト」だけが絶対であるべきジャーナリズムにとって、そのファクトを冷徹に識別・判断すべき視点自体がそうして主観にまみれていることは致命的欠陥と言うしかなく、もしそのことに自分たちでも気づいていないのであれば、ジャーナリスト失格の「視野狭窄」に他ならないし、気づいていながらあえて無視・放置しているのであれば、ジャーナリストどころか一般人の言動としても許されない欺瞞だと言うしかない(一方の政府や政治家については、どこの国であれ嘘をつくのが当たり前な人たちだと端から信用してはいないので、まあ、そんなものだろうと思うだけである)。 要するに、韓国メディアを形成している人間の多くは決してジャーナリストなどではなく、狭隘で排他的な民族主義にまみれた、多数の自国民に迎合するだけのポピュリストでしかなく、ブログやSNSを通じて主観的な戯言を垂れ流している(私のような)有象無象と何ら変わるところがない存在だと言っていい(むしろ自分たちこそが正義を担っていると思い込んでいる分だけ、余計にタチが悪い)。 閑話休題。 今更こんなことを書いても遅すぎなのだが(というのは、もう配信サービスを終えてしまったところも少なくないためである)、今回の新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、各国のオペラ・ハウスやオーケストラなどが、無料で過去の公演をウェブサイトやYoutubeなどで配信している。 もっともその数も種類も余りに多く、1回きりの(同時視聴のみの)配信もあるため、とてもそのすべてを追っていることは出来ないし、かなり対象を絞ってみたとしても、今すぐその場で2時間なり3時間の間、集中して視聴・閲覧する余裕や気力がないことが往々にしてある(むしろそうである場合の方が多いと言っていい)。 そこで私は、オーケストラやソリストなどによる演奏や歌唱などと違い、映像で見ることにより意味のあるオペラやバレエ、演劇作品などにジャンルを絞った上、PCに動画を保存出来る(=後で好きな時に見られる)Youtubeで、最低でも英語か仏語の字幕が付いているものに限定して、チェックすることにしている。 その結果、最終的に以下の3つのYoutubeにほぼ落ち着いたのだが、これらのサイトでは今でも随時、オペラ等の作品が無料で公開され続けており(ただし公開期間には一定の期限が設けられている場合がある)、お勧めである(無料ソフトを使えばPCに動画や字幕を保存も可能。動画保存ソフトは色々選択肢があるので省くが、字幕保存は以下のサイトで→ずっと間違ったサイトのアドレスを書いていたのに気づいた。正しくは→https://downsub.com/ あるいは http://purplebaby.opal.ne.jp/2011/06/youtubecgi.html)。 OperaVision(引き続き無料配信継続中) https://www.youtube.com/channel/UCBTlXPAfOx300RZfWNw8-qg/videos Royal Opera House(もう無料配信はほとんどなくなった) https://www.youtube.com/user/RoyalOperaHouse/videos Glyndebourne(もう無料配信はほとんどなくなった) https://www.youtube.com/user/Glyndebourne/videos こちらは実際に配信される芝居の数が少ないのが残念だが(その後まったくなくなってしまった)、シェイクスピア劇を専門とするロンドン・グローブ座のサイト。 https://www.youtube.com/user/ShakespearesGlobe/videos その他の一般的な無料配信に関しては、以下のサイトが有益である(ただし余りにも数が多いので、見ているとキリがなくなる→このサイトの情報も古くなってしまった)。 https://ebravo.jp/archives/63048 特に欧米のオペラやバレエに関しては、以下のサイトが詳しい。 https://ameblo.jp/n-takao2007/entrylist.html 正直に告白すれば、私はこれらのサイトのオペラやバレエをPCに保存しただけで満足してしまい、未だにひとつとして全編通しで鑑賞するに至っていない。日々映画を視聴するのに忙しいこともあり、映画以上に集中力を必要とするオペラやバレエにはなかなか手が伸びないのである。 手持ちのDVDも含めて、そのうち集中してオペラやバレエを鑑賞したいと思っているのだが、果たしていつになることやらである。================================================ この間に読んだ本は、・林芙美子「晩菊」(青空文庫版) 先日見た(下記参照)成瀬巳喜男監督の映画「晩菊」の原作を読んでみることにしたのだが、表題作の「晩菊」は青空文庫に収録されているものの、「水仙」と「白鷺」はKindleにも青空文庫にもなく、3作全てが収録されている講談社文芸文庫版にはKindle版がないため(あっても恐らく高いので買わなかっただろうが)、今回は「晩菊」のみを再読。 短編ながら映画版の中核部分はそっくりそのまま原作通りで、芸者出身の50過ぎの中年女性が、かつて胸を焦がした男が久々に訪ねて来ることから、化粧直しや身繕いとともに心の準備を整えるものの、実際に目の当たりにした男はくたびれきった俗物と化していて、失望や落胆以上の深い諦観に駈られていく様が、無駄のない達意の文章によって描き出されている。 これひとつ読んだだけで、林芙美子という作家が如何に優れた文体と知性を持っていたかが実感できる作品で、映画版に決してひけをとらない名人芸のような名篇である(誰にも不自然に映るだろう杉村春子の独白シーンを成瀬があえて撮ったのは、林芙美子の巧みな文章を少しでも映画に残したかったためかも知れない)。・吉田健一「絵空ごと/百鬼の会」(講談社文芸文庫) この前読んだ「瓦礫の中」同様、今作も新しい家や建物を建てる「建築小説」であるのと同時に「対話小説」でもあり、全編にわたって登場人物たちが蜿蜒と会話を交わし続ける場面が描かれるのだが、彼らが互いに阿吽の呼吸で呼応しあう話の内容が、こちらの教養のなさや理解力不足で何が何やら分からないことしばしばでもある。 決して個々の語彙や話題自体が晦渋でも難解な訳でもないのだが、吉田健一独特の論理(あるいは論理の飛躍や不在)が私のような頭の回転の鈍い人間にはなかなか把握出来ず、まるで禅問答でも聞かされているようなじれったい思いを抱きながら読み進めるしかないのである。 前作の登場人物たちも現実味を欠いた「上流知識人」たちだったが、今作でも、例えば主人公たちが「囲っている」女性たちが、男たちのなにげない会話からその内容を即座に察し、フランス語原文の詩をすらすら暗誦し始めたりする極めてペダンチックな場面があったりして、とても日本で現実にありうる話とは思えないファンタスティックさ(?)に満ちている。 例えば52ページには、主人公・勘八とその愛人・牧田さんとの間で交わされる会話にこんなものがある。《「Tu es mon ami, mon but...」「貴方は英語も御存じなのですか。」 勘八は牧田さんがフランス文学が好きであることは知っていた。「だから言ったでしょう、私の学校がキリスト教だったって。」》 とあり(「Tu es mon ami, mon but...」はむろん英語ではなく仏語であり、おそらくこれは一種のジョークしてとして書かれたのだろう★)、実際、彼らはいずれも、フランス語のみならず英語も普通に話せる人たちらしいのである。《★後日追記→今更ながら気づいたのだが、もしかしたら最後の「but」という「目的」や「ゴール」を意味する仏語の単語(発音は「ビュ」あるいは「ビュット(ゥ)」→https://ja.forvo.com/word/but/#fr)が、英語の「but」(だが、しかし)を想起させるからかも知れない。それよりもすぐ前の「mon ami」(英語の「my friend」)との関連からすれば、「mon but」を「buddy」の短縮である「my bud」(相棒、お前)のように捉えたからなのかも知れない。いずれにしてもダジャレである。》 また54ページには、《「女に会っている時に夕方ってものはないんですかね、」と勘八は突然言った。「ありますとも、」と牧田さんは答えて詩が二篇ばかり記憶に浮び、勘八の眼の色を見てそのことを言う必要がないことを覚った。「そう、maîtresse des maîtressesっていうのが正確にはどういうことなのかは別として。併し妙でしょう、貴方といるとあのもう一つの、花は花柄に打ち薫じとか何とかいうのなんかよりもロンサールの、――」》 とあるのだが、此処に出てくる「花は花柄に打ち薫じ」というのは、中原中也の「山羊の歌」の一篇「時こそ今は……」という詩で紹介されている、ボードレール「悪の華」の1篇「Harmonie du Soir」(夕べの諧調)の1節らしい(http://zenshi.chu.jp/mobile/?p=797参照。中也の訳では「時こそ今は花は香炉に打薫じ」となっている。原文は「Voici venir les temps où vibrant sur sa tige / Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir;」https://fr.wikipedia.org/wiki/Harmonie_du_soir)。一方、上田敏「海潮音」の「薄暮の曲」(くれがたのきょく)では「時こそ今は水枝(みづえ)さす、こぬれに花の顫(ふる)ふころ。/花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。」となっている) 一方の「maîtresse des maîtresses」(女主人の中の女主人、妾の中の妾)やロンサール(むろんフランスの詩人の名前だが)の方は、インターネットであれこれ調べてみても結局よく分からなかった。 この作品が発表された当時は今のように簡単に検索など出来なかったから、この小説で語られている詩や作品について調べるのは極めて困難だっただろう。 さらに92ページには、《「例えば名木ってものは確かにあるんだろうけれど、名木もそういうものである先に先ず一本の木でしょう。それが木であって立派であれば、或は他の木と並んで月夜に煙っていればそれを名木と呼ぶことも考えることはない。あの町の木や家や彫刻がそうでしたよ。そうすると町全体が芸術品なんていうことになりそうでも我々がそんな芸術品である町なんていうものの中であんな気持になれますかね。ただ庭だか何だか解らない所に彫刻が月光を浴びて立っていて、それが秋の朝の日差しを受けてその白い肩に黄色い葉が一枚一枚落ちて来ているのだったのでも一緒だったでしょう。」「Je vais vous dire ce que me rappelle...」ととき子さんが言った。「そう、アナトール・フランスはその彫刻だかどの彫刻だかが芸術品だったなんて言っていない。もしその芸術品とかいうものでなければその彫刻は見るに価しなくてそれがそこに立っていないことになるんですかね。我々もそんなことは考えずにただ町を歩いていてそのうちに又道に瓦を敷いた町の真中に戻って来て、それからあの蝋燭の店に入ったんでしたっけ。」》 とある。 これは上に名前が出て来るアナトール・フランスの回想録「Le Livre de Mon Ami」(わが友の書)にある「La rentrée」(新学期? 帰還?)の一節のようである(ただし上の引用には綴りの誤記あり)。 http://saintsymphoriendelay.kazeo.com/la-rentree-une-belle-poesie-d-anatole-france-a121170084#:~:text=%22%20Je%20vais%20vous%20dire%20ce,car%20c'est%20le%20temps 上の会話の該当部分は、 《Je vais vous dire ce que me rappellent, tous les ans, le ciel agité de l'automne et les feuilles qui jaunissent dans les arbres qui frissonnent, je vais vous dire ce que je vois quand je traverse le Luxembourgdans les premiers jours d'octobre, alors qu'il est un peu triste et plus beau que jamais, car c'est le temps où les feuilles tombent une à une sur les blanches épaules des statues.(毎年、秋の荒れ気味の空や、震える木の間で黄色く色づく葉を目にすると思い出されることを話してあげよう。10月の始めに、リュクサンブール公園を横切っていると思い出されることを。公園はどこか淋しく、いつになく美しいが、それは石像の白い肩に一枚一枚、落ち葉がこぼれる季節だからだ)》だと思われるのだが、「秋の朝の日差しを受けてその白い肩に黄色い葉が一枚一枚落ちて来ている」という言葉を聞いただけで、このアナトール・フランスの文章を思い出し、すかさずフランス語でそらんじてみせられるような人間が(吉田健一本人を除いて)、果たしてこの世に存在するだろうか(そういう意味では、これらの人物は現実には存在しない幽霊か幻のような存在として書かれており、今作は一種の怪奇譚なのかも知れない)。 もっとも講談社文芸文庫「金沢/酒宴」巻末の「作家案内」によれば、吉田健一という人はボードレールやランボー、マラルメなどの詩を数多くそらんじていて(ただし上の引用同様、必ずしも一語一句正しく記憶していたのではないらしい)、「自在に暗誦することができ」るという特技があったらしく、そうした才能のおかげもあってか、「書棚には、五百冊ばかりの本さえあれば、それで十分というのが、吉田さんの口癖だった」という篠田一士の文章が引かれもしている。 そんな並外れた記憶力を持った人からすれば、上に引用した「とき子さん」がたちまちアナトール・フランスの言葉に呼応して詩文を暗誦することくらい、ごくごく自然で朝飯前のことだったのかも知れない(?)。 ともあれ、こんな現実離れした人々の話を読んでいると、現実世界からいつの間にか別世界(冥界?)にでも紛れ込んでしまったような不可思議な気持ちに浸れて、しばしコロナウイルスやつまらぬ由無し事のことなどは忘れてしまうようである。 また、引き続き湊かなえの作品を読み続けてもいる(手持ちのものはあと1作で終わりである)。・湊かなえ「往復書簡」(幻冬舎文庫) それぞれ100ページほどの短篇3篇と、掌編ひとつが収録された短篇集。 最初の短篇は今ひとつだが、残りの3篇はなかなか悪くない。その中のひとつ「二十年後の宿題」は本文庫の最後に収録されている女優・吉永小百合の文章にあるように、彼女の推薦もあって映画「北のカナリアたち」(2012年。未見)の原案となったようである。・湊かなえ「境遇」(双葉文庫) 児童養護施設で育った2人の女性の過去と現在を巡る物語だが、子供を誘拐された親たちが大して慌てていなさそうだったり(そのため誘拐が狂言なのかと思っていた)、女性たちの過去が明らかにされる過程が余りにあっさりし過ぎていたり、真実が明らかになって普通であれば感情的になるだろう状況で登場人物たちが淡々と対処する点などに加え、結末に添えられた取ってつけたような後日譚など、ツッコミどころ満載な作品である。それでもこれまでの諸作同様、途中まで読者を引き込む手腕は健在で、それなりに楽しめはした。・湊かなえ「母性」(新潮文庫) 巻末の解説によれば、今作が単行本で刊行された時、本の帯には作者自身の「これが書けたら、作家を辞めてもいい。その思いを込めて書き上げました」という文句が記されていたという。一体どんな思いだったのかは知る由もないが、以下のサイトで執筆の背景などが作者によって語られている→http://www.shincho-live.jp/ebook/s/nami/2012/11/201211_01.php。 巻末の解説にもあるように果たして現実の出来事なのか分からないとは言え、「境遇」同様に取ってつけたような結末は嘘くさく、途中で突然挿入される女詐欺師の挿話などの必要性も不明で、全篇にわたってリルケの詩が引用されるのも衒学臭(過度な文学臭?)がするだけで、やはり必要性を感じられず、正直頂けない。・湊かなえ「豆の上で眠る」(新潮文庫) 半日で一気に読了。それくらい「読ませる」作品だったが、やはり結末が不自然で現実味がない点が弱い。本物の家族とは何なのかという作者の問いかけは興味深いが、しかしその解答らしきものが提示されている訳ではなく(むろんこんな問いに「正解」などはないのだが)、ストーリーテリング的にはますます巧みになって来ているものの、作品の深まりや完成度はむしろ薄まって来ていると言っていい。 ・湊かなえ「山女日記」(幻冬舎文庫) 最も期待していなかった作品(短篇連作)なのだが、完成度とは必ずしも一致しないものの(ただし完成度も決して低くはない)、個人的にはこの作家の作品中最も面白く読めたもので、映画やドキュメンタリーはまだしも、小説を読んで感動したことなどまずない私だが、特に「槍ヶ岳」や「白馬岳」などには思わず胸が熱くなる瞬間もあった。 そもそも今作はイヤミスどころかミステリーですらないのだが(ただし相変わらず今作でも、現実には決して知り合いになりたくないような厄介な人々が登場する)、各自複雑な思いを抱えた登場人物たちが様々な事情で山登りをすることになり、日常世界と隔絶された「異界」にやって来たことで、それまで抑え込まれたり言い出せなかった感情や言葉が噴き出し、人生の真実とでも言うべき特別な瞬間が訪れる。 それを描く手法が実に巧みで、「ああ、ここであの言葉や感情が生きてくるのか」(あるいは反転したり転回したりする)と何度も感心させられた。イヤミスの女王と呼ばれるこの作者が、実はミステリーではなく、こうした普通の小説を書いても実に巧みであることに驚かされ、感心させられた作品である。 この間に見た映画は、 成瀬巳喜男作品をまとめて視聴(7月4日の記事と一部重複。しかも評点も異なっているが、あえて直さないことにする)。・「晩菊(1954年)」(成瀬巳喜男監督) 3.5点(IMDb 7.4) テレビ放映を録画したもので視聴 林芙美子原作(上記参照)。脚本は田中澄江と井手俊郎。 人生の暮れ方にさしかかった女3人とその子供たち、そして彼女たちがかつて関わった男たちの姿を淡々と描き出して多彩な人生模様を浮かび上がらせる名人芸のような作品。成瀬は今作撮影時にまだ50にもなっていないのだが、既にその技法には老練な大家の円熟や完成を感じさせる逸品である。・「妻(1953年)」(成瀬巳喜男監督) 3.5点(IMDb 6.9) テレビ放映を録画したもので視聴 林芙美子の「茶色の目」が原作(未読)。脚本は井手俊郎。 「めし」や「山の音」、「夫婦」などと同じく倦怠期を迎えた夫婦の危機を描いた作品だが、結局最後まで何も解決せず、冒頭に堂々巡りしていくだけでありながら、その突き放した視点がかえってリアルである。 三國連太郎がなよなよした画学生をユーモラスに演じていて可笑しく、上原謙も妻にも愛人にもはっきりした態度を取らず、のらくらフラフラしている中年男を実に巧みに演じていて見せる。 若き新珠三千代が初々しくズバズバ警句を発する妹役を好演。例えば以下のような姉(高峰三枝子)とのやり取りは印象的である。(姉)「心のない空っぽな人間となんか一緒にいられるもんじゃないわ」(妹)「わあ、可笑しい。お姉さんって、新婚の夫婦みたいなこと言ってるわ(・・・・・・)あたし、心ってそんな重大には考えないわ。本当に人間の心がしっかりしてたら、法律も要らないし、結婚だって、お寺だって、監獄だって、教会だって要りやしないわ。人間の心って頼りないから、色んな形式が必要になってくるのよ」(姉)「あなたは結婚してないから、そんなのんきなことを言ってられるのよ」 煎餅をばりばり齧ったり、歯につまった食べ物の滓を箸でほじくり、そのままお茶でうがいをして飲み込んだり、無造作に耳掃除をしたりする「がさつ」な妻役の高峰三枝子も実に自然で、後の「犬神家の一族」を思わせる口調(台詞)が見られるのも「犬神家」好きとしては嬉しい。 最も印象的なシーンは高峰三枝子と丹阿弥谷津子(1924年6月25日生まれの96歳で、未だ存命)がミルクホールで対峙する緊張感あふれる場面で、窓の向こうに電車が通り過ぎていく影が映る細かい演出も効果的である。また最後の最後で、上原謙が遮断機のない踏切に立ちその前を電車が通過していく場面が、何気ない描写であるにもかかわらずどこか不気味である(悲劇を予感させる)。 他にも高杉早苗や中北千枝子がいつもながらの巧役者ぶりを発揮しているし、塩沢登代路(塩沢とき)が一瞬だけ登場して艶っぽい姿を見せているのも興味深い(下の写真。他の作品にも彼女は似たような役柄で登場することがよくあるのだが、当時はそういう?位置づけだったのだろうか)。また、上原謙が丹阿弥谷津子と「逢い引き」するのに銀座「らんぶる」が度々登場するのも懐かしい。・「夫婦 (1953年)」(成瀬巳喜男監督) 3.5点(IMDb 7.0) テレビ放映を録画したもので視聴 脚本は井手俊郎と水木洋子。 上の「妻」といい、この「夫婦」といい、実に身も蓋もない題名の作品が続くが、それは妻や夫婦というものはこうしたものなのだという成瀬の自信の表れでもあるだろうか。 まだ倦怠期というほどではない夫婦(当時、上原謙は44歳、妻役の杉葉子は25歳と、夫婦役を演ずるには無理がある)のちょっとしたすれ違いや不和、それを乗り越えての和解と新生を描く家庭ドラマで、自分たち自身が危機にあるにもかかわらず(義)弟が結婚するのに際して自前の夫婦論をぶったりするところは滑稽で、結末が如何にも取ってつけたようではあるものの、しんみりさせられるのは成瀬演出のおかげか。 杉葉子が健気な若妻を生き生きと演じていて素晴らしく(彼女は昨年、90歳で亡くなったそうである)、愛妻を亡くしてすっかり意気消沈していながら、同僚の上原謙と杉葉子の夫婦とひょんなことから同居することになり、ふたりの間に割り込んでちょっとしたトラブルを惹き起こす三國連太郎が、今作でもユーモラスな役どころをうまく演じている(彼のことを密かに慕っている田代百合子という女優もなかなかチャーミングである)。上原謙は今作でもぶっきらぼうで表に感情を出さず、何事にも煮え切らない態度を取る中年の夫を演じていてうまい。 杉葉子の家族を演ずる藤原釜足や滝花久子、小林桂樹、岡田茉莉子などの脇役も豪華でいずれも役達者である。 今作には夫というものは妻以外の女にしか興味がないのだ、といった台詞があり、「セックスレス」全盛(?)の今ではなく、(当然のことかも知れないが)昔から男は大して変わっていないのだなと思わされた。 今作にも塩沢登代路(塩沢とき)が少しだけ登場(下の写真右)。・「めし (1951年)」(成瀬巳喜男監督) 4.0点(IMDb 7.7) テレビ放映を録画したもので再見 林芙美子原作(未読)。脚本は田中澄江と井手俊郎。 大阪を舞台とする前半部は、市内観光のシーンもあるにはあるが、倦怠期を迎えた夫婦(上原謙と原節子)とその間に突如闖入してきた夫の姪(島崎雪子)との神経戦が続いて密室劇のような息苦しさがあるのだが、妻と姪が東京に戻ってからはパッと世界が突如開けるような開放感がある。 結末は現代からすれば余りに男性中心主義に過ぎるきらいがあるものの(原作は未完で結末がなく、今作も当初は夫婦が離婚するという設定だったらしい)、実家に戻ってからの義弟や戦争未亡人の友人とのさりげないやりとりが原節子の目を開かせ、夫との関係を再考させる展開は見事である。 相変わらずのらくら態度のはっきりしない夫を演ずる上原謙もうまいのだが、何と言っても杉村春子演ずる母親のじっくり構えた「大いなる母」ぶりが素晴らしく、見ているだけでなぜか胸が熱くなる。原節子もいつもながらにシーンごとに全く違った相貌を見せるのだが、今作では小津作品や黒澤作品とは一味もふた味も違う役どころで、改めてその多彩な魅力を実感させられる。 主要な役回りではないものの、実家や他人の家に寄りかかって甘えているだけの原節子や島崎雪子にぴしゃりと厳しい言葉を投げかける(そして彼はそれを「親切」から言っているのだと断言するのだが)義弟役の小林桂樹や、幼い子供を抱えて先の見えない日々を送る戦争未亡人役の中北千枝子など、要所要所を固める俳優たちも見ものである。 ただ辛気臭いだけの内容ではなく、滑稽さを狙ったナヨナヨ男を演ずる大泉滉以外にも、ちょっとした台詞や場面で笑わせてくれる遊びのあるのが心地良い。 動物好きとしては、子猫のちょっとした使い方のうまさにも感心させられる。・「鰯雲(1958年)」(成瀬巳喜男監督) 3.5点(IMDb 7.6) テレビ放映を録画したもので視聴 原作:和田傳(未読)。脚本:橋本忍。 神奈川県の厚木がまだ水田や田んぼだらけだった時代の話で、旧態依然たる古い日本と新しい日本とを対比させたり、農家の労働条件などを巡る議論や台詞がところどころに出てくるものの、当時流行った石坂洋次郎作品のような青臭さ(嘘臭さ)は感じられない。古いものも新しいものもそのまま虚心坦懐に見つめ、時代が移り行くことを肯定も否定もせず、淡々と描いてみせている点に成瀬らしさがあると言って良く、決して派手でない演出も、かえって今作を大河小説でも見るようなどっしりと落ち着いた作品に作り上げている。 中村鴈治郎と杉村春子のコンビは、翌年公開の小津の「浮草」を想起させて微笑ましい。どうでも良いことだが、主演を演ずる淡島千景と新珠三千代はいずれも宝塚出身で、生涯独身だった。・「舞姫(1951年)」(成瀬巳喜男監督) 2.5点(IMDb 6.9) テレビ放映を録画したもので視聴 川端康成原作(未読)、脚本は新藤兼人。 コテコテのメロドラマのわりには結末は作り物めいた凡庸さで少しも川端らしくなく、どこまで原作に忠実なのか未読なので不明である(おそらく川端の原作には結末らしい結末など書かれていないに違いない)。 なぜ主人公の高峰三枝子が熱愛していた二本柳寛ではなく山村聰と結婚して2人の子を設け、20年も我慢し続けて来たのかが不明で(若かった二本柳が煮えきらなかったというだけでは十分な説明にならない)、原作に出てくるらしい「魔界」という意味深長な言葉も、舞台をバレエ界としたことにどんな意味があるのかも、今作を見ただけでは全く判然としない。 内容云々よりも、これが映画デビューとなる岡田茉莉子の初々しい演技と、まさに女盛りと言っていい高峰三枝子を見るための作品だと割り切る方が良いくらいかも知れない。成瀬もこの時はまだ成熟途上にあったのか、撮影や美術、演出などにも切れがなく、川端作品らしくないだけでなく、成瀬作品だという印象もほとんど受けることがない。・「山の音(1954年)」(成瀬巳喜男監督) 3.5点(IMDb 7.8) テレビ放映を録画したもので再見 これも川端康成原作で、脚本は水木洋子。 原作がこれほどウェットな結末だったか記憶に全くないのだが(近いうちに再読してみたいと思っているが、これまた明確結末などなかった気がする)、同じ成瀬の「めし」の離婚ヴァージョンだと言っていい。 冒頭で仕事帰りの舅の山村聰が近所の魚屋でさざえを買って家に戻ると、台所では嫁の原節子が伊勢海老や車海老を料理しようとしているところで、「海老にさざえは似たもので、蛇足だったね」と山村聰が言うのに、原節子が「江の島の茶店」と答える場面があるのだが(これは原作通り)、前々からこの意味がよく分からなかった。単に、江の島の茶店に行きでもしたかのように海鮮物が一堂に会しているというだけの意味なのかも知れないが、外国語に訳す際などには訳者は困るだろうななどと思った記憶がある。 結末で山村聰と並んで並木道を歩く原節子は、まるで「第三の男」のアリダ・ヴァリか、マリリン・モンローのようで実に見栄えがする。やはりこの人が日本人離れした体格と顔つきを持った、少しも「日本的」ではない女優だということを再認識させられた。