余りの暑さに(当時はエアコンがなかったため)舌を出して「ハアハア」言っている。エアコンは結局ひと夏しか使わずに終わってしまい、愛犬のためにもっと早く設置するべきだったと深く後悔している。


 2020年6月3日(水)

 今日は愛犬の1周忌(正確には今晩遅くだが・・・・・・)。★

 ありきたりだが、長いような、短いような1年だった。

 この1ヶ月近い間、いつも以上に愛犬のことを頻繁に思い返し、特にその最期の日々を幾度となく反芻した。そうしようと思ったからではなく、自然とそういう思いに駆られた結果だった。

 昨年5月半ば、息苦しそうな素振りをし始めたため病院に連れて行った後、愛犬は約2週間苦しみ抜いた末に力尽きて逝ってしまったのだが、その短い、しかし同時に長く重苦しかった日々を改めて追経験するようだった。

 あれから1年という歳月が過ぎたが、時の経過は必ずしも大切な存在がいなくなった喪失や欠落の感覚を埋めたり消してくれた訳ではなく、むしろ反対に不在の感覚をしばしばこれまで以上に強く喚起し、意識させるようにもなった。さらに1年たった来年の今日、少しは落ち着いた気持ちで愛犬の死に向き合うことが出来ているだろうか・・・・・・。RIP.

 

(しかし余りに個人的な感情をこれ以上書くことはやめ、何枚か愛犬の在りし日の姿を以下に掲げておくに留めたい。ただしこれからも月命日にはしつこく愛犬のことを言及し続けるつもりである。

 一方、世の中の動きに目を向ければ、例えば米国で黒人差別反対の大規模なデモや暴動が全国的に発生しているように、コロナウイルスをめぐる動き以外にも日々様々な問題が起きつつあり、1年後の世界がどうなっているか誰にも見通すことが出来ない状況だと言っていい)

 

★ちなみに今日はフランツ・カフカの命日でもあるそうです。ちょうど今晩、カフカの「城」を読み終えたのも何かの縁だろうか。


 多くの動物に見られる(ただし人間は除く)、一点の曇りもない澄み切った眼差し・・・・・・

 体重測定のために体重計に載せられている

 お気に入りの毛布にくるまって爆睡中

 不安げな眼差しで果たして何を見ていたのか・・・・・・

 物欲しげに何か(おそらく食べ物)をねだっている姿

 暫くトリミングに行かず、毛むくじゃらだった時

 

 

 またまたついでだが、訃報を1件(敬称略)。

 漫画家のジョージ秋山(5月12日に死去。享年満77歳。下の写真左)。

 暫く前に「銭ゲバ」の原作と実写版映画を見たばかりだったので、今回の訃報には驚かされた。死去に際しては、ドラマにもなり40年以上連載の続いた「浮浪雲」に言及している報道が多く見られたが、挑発的&衝撃的な内容で発表当時も大いに物議を醸した「銭ゲバ」や「アシュラ」(下の画像右)、私は最初の方を読んだだけだが、引退騒動(後に復帰)を引き起こすきっかけとなった「告白」といった問題作こそが真の代表作だと私は思っている。

 

 

 他にも美保純主演で日活ロマンポルノのひとつとして映画化された「ピンクのカーテン」や、2014年にやはり映画化されて高く評価された「捨てがたき人々」、新旧約聖書を漫画化した「聖書」(全6巻)などの作品もある。

 故人の死を悼み、冥福を祈りたい。

 

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 この間に読んだ本は、

 

・カート・ヴォネガット・ジュニア「チャンピオンたちの朝食(原題:Breakfast of Champions, or Goodbye Blue Monday)」(ハヤカワ文庫Kindle版)
 もうこれ以上カート・ヴォネガット・ジュニアの作品は読まないつもりでいたのだが、Kindleのセールが終わってからも低価格のままだったためつい購入してしまった。今作では過去の「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」や「スローターハウス5」に出て来た「売れないSF作家」キルゴア・トラウトが主人公であることが、購入の最大の理由だったのだが、読了後、購入したことを後悔するしかなかった(作者は自分で今作をABCDのCとしており、この自己評価を信ずるべきだった→https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12589513981.html)。

 これを書いていた当時のカート・ヴォネガット・ジュニアは、おそらく精神的にかなり不安定な状態にあり(自身の母親の自殺についての言及もある)、特に自分が生まれ育ったアメリカという国に深く絶望していたに違いなく、そうした気持ちがそのまま直截的に吐露され、フィクションとして昇華(&消化)されていない印象が強い。
 SF作家キルゴア・トラウトと、自身の体内から分泌される「有害物質」によって徐々に狂っていく自動車販売業者ドウェイン・フーヴァーなる男が、「死期も真近なある惑星」で出会うまでを事細かに描写して行くプロットらしいプロットのない小説である。ドウェイン・フーヴァーは自分以外の人間を「自由意志を持たないロボット」と見做しているのだが、そこには作者の絶望と諦観に満ちた冷たい視線が大いに影響しているだろう。後半には「全能の創造者」である「わたし」(ヴォネガット)自身まで登場し、自らが創り出した登場人物たちを「解放」すると宣言して作品が終わるのだが、この作品を書き終えた当時には創作行為自体を放棄しようとしていたかも知れないと思わせる陰々滅々とした雰囲気が漂っている。

 ヴォネガットはこの作品において、全能者=作者によって整理され起承転結を持つ「まがいもの」を創り出す小説作法を否定的に捉え、意味や理屈のない「あるがままの世界」を描こうとしているようにも思えるのだが、そうした試みは何もヴォネガットが初めて手掛けたものではなく、例えばフランスの作家アンドレ・ジッドが「法王庁の抜け穴」や「贋金つくり」で所謂「無償の行為(acte gratuit)」を描き出そうとしたことは周知の事実である。そしてこうした試みは文学的・歴史的には意味がある(かつてあった)としても、大抵その結果は退屈で読むに耐えないものでしかなく、ヴォネガットのこの作品もその好例と言うしかない。
 今作にはヴォネガット自身の手になる「ヘタウマ」イラストが数多く用いられているのだが、そうした試みは初期の村上春樹作品にも少なからぬ影響を与えているに違いない。以下はそのうち恐らく最も有名なイラストで、ご覧の通り決して「品が良い」とは言えないが、その意味でもこの作品は発表当時にはかなり過激で挑発的だったに違いない)

 


・小酒井不木「死の接吻」、「死体蝋燭」(青空文庫Kindle版)

 今作を読もうと思ったきっかけは、愛知県の蟹江町役場という自治体が、村おこし(?)の一環として、地元出身の作家・小酒井不木の「死体蝋燭」を原作とする短編ドラマを作成、Youtubeにアップしたというニュースを目にしたことである。

 早速ドラマ(以下のアドレス参照)を見てみたのだが、併せて大分前にKindleにダウンロードしてあった(しかしひとつとして読んだことのなかった)小酒井不木の作品を読んでみる気になり、たまたま「死の接吻」という短編が疫病コレラが重要な役割を果たす「疫病小説」であることが分かって読んでみることにした次第である(個人的には「死体蝋燭」よりずっと面白かった。ちなみに以下のドラマ版「死体蝋燭」には、原作にはない結末が付け加えられている)。

 いずれの作品もなかなか面白かったため、これからこの作家の「積ん読」を少しずつ消化していこうと思っているところである。

 

☆ドラマ「死体蝋燭」告知ダイジェスト版(愛知県蟹江町役場) 約30秒

 https://www.youtube.com/watch?v=_5UrR8N_FUE

☆ドラマ「死体蝋燭」本編(愛知県蟹江町役場) 約13分

 https://www.youtube.com/watch?v=RXfDdGyeOHY

☆「死体蝋燭」原作(青空文庫)

 https://www.aozora.gr.jp/cards/000262/files/1456_20738.html

 

・エドガー・アラン・ポー「ペスト王(King Pest)」、「スフィンクス」、「赤死病の仮面」(いずれも創元推理文庫版「ポオ小説全集」より)
 これまたコロナ騒動に関連して読んだ「疫病小説」で、作品としては「赤死病の仮面」が最も有名な上不気味で謎めいていて読ませるが、残りの2作も(必ずしも疫病そのものが主題とは言えないものの)ポーらしい緻密で晦渋な文体で書かれており、短い作品ながらすらすら読み飛ばすことの出来ない濃密濃厚な内容である。
 どうでも良いことだが、英語ではペストのことを「plague」と言い(カミュの「ペスト」も英題は「The Plague」)、これは一般名詞として「大厄災、疫病」をも意味するため、日本語で「ペスト」と称する特定の病気を指す言葉としては(あくまで私にとって)なかなか違和感の抜けない単語のひとつである。
 一方の「pest」という英単語には疫病という意味も以前はあったようだが、今では害虫や有害生物、派生的に厄介な人、厄介者を指すことが多いようで、ネズミや害虫などの駆除を指す「pest control」といった表現をよく見かける。もっとも上のポーの「King Pest」の「Pest」は、日本語訳の通り、疫病一般ではなく病気の「ペスト」を指しているのだろうが・・・・・・。

 

 この間に見たドラマ・映画は、

 

・ドラマ「珈琲屋の人々」(全5話) インターネットで視聴

 暫く前に放送されたNHKのヴァラエティ番組「鶴瓶の家族に乾杯」の岐阜編で、原作者の池永陽氏がたまたま鶴瓶氏と遭遇し、自作のひとつがNHKのドラマになったと話していたことから、このドラマを探して見てみることにした次第である(この作者のことは生憎それまで全く知らなかった)。

 都内某所の昔ながらの商店街にある、その名もズバリ「珈琲屋」という喫茶店のマスター(高橋克典)と商店街の人々、そしてこのマスターが過去に犯した殺人事件に関わる人々との交流や葛藤を描いたもので、内容的にはよくある人情噺だと言っていい。

 善人と悪人とがはっきり描き分けられ、特に主人公(高橋克典)は過去に殺人を犯したことのある人間でありながら、これ以上ありえない程の善人として描かれ、昔ながらの庶民生活を描く現実的内容でありながら、おとぎ噺のようなファンタスティックな印象をもたらす作品である。

 個人的には木村多江が非常に印象的で(特別好きな女優という訳でもないのだが)、他にも小林稔侍や吉行和子などのヴェテラン勢をはじめ、津田寛治(いつもながらネチネチとした陰険な悪役を演じている)、渡辺えり、岩松了、倉科カナ、八嶋智人、壇蜜などの面々が出演(もっともいずれも演技は必ずしもうまいという訳ではなく、演出も凡庸である)、喫茶店の雰囲気やコーヒーを淹れる場面を見ているだけで落ち着いた気分になれ、暇つぶしには悪くない作品だろう(全5話という短さも長所のひとつである)。
 

・「何者(2016年)」(三浦大輔監督) 2.5点(IMDb 6.4) インターネットで視聴

 原作は朝井リョウの直木賞受賞作(未読)。

 最後に主人公(佐藤健)のある秘密が暴露されるのだが、正直この程度の嫉妬や悪意ならこれまでも幾らでも描かれて来たし、先日女子プロレスラーを自死に追いやった集団リンチなどを見れば、SNSなどの世界はこの何十倍、何百倍もの悪意や憎悪を吐き散らしている人間に満ちており、正直生ぬるさを覚えるしかなかった(ただし、以前日本に帰国する知人が他の多くの本とともに譲ってくれた原作を見つけ出し、結末部分を少しだけ覗いてみたところ、今作の一番大事なメッセージを含んでいると思われる台詞が映画版ではかなり端折られてしまっており、この映画を見ただけで原作まで評価するのは早計かも知れない。いずれ内容を忘れてしまった頃に原作を読んでみたいと思う)。

 演劇界出身の監督だということもあるだろうが、露骨なまでに演劇的な演出にも白けてしまった(原作の文庫版の解説はこの人が書いていて原作を高く評価しているのだが、映画の監督まではするべきではなかったかも知れない)。