2020年8月20日(木)

 そうこうするうちに、ようやくここソウルでも梅雨が明けた。

 しかし今夏は昨年以上の猛暑となるだろうと予想していた韓国気象庁の予測は(いつもながらに)ハズれ、梅雨明けで韓国にも夏の暑さが到来してはいるものの、まさに今猛暑に喘いでいる日本とは違って、その暑さには既にどこか秋の気配が濃厚である。

 そのため、今は亡き愛犬のためにおととし設置したエアコンも、どうやら今夏は使わずに済みそうで(夜などは窓を明けたまま眠ると、明け方には寒さを覚える程である)、その分、電気代も多少は節約できそうである。

 

 前回アップする予定だった食に関する記事を。

 しかし書く前から非常に長くなりそうな気がするので、今回は、そもそも完全な味音痴で食べることに全く興味のない私が、どうして食に関する記事を書こうなどと思いたったのかという前段(端書き)部分のみ。

 

 キーワードは以下の3つである(敬称略)。

①  吉田健一                                                  

②  太田和彦

③  ●●●●ちゃんねる

 

 最初は、暫く前にこのブログで○○呼ばわりした日本の某政治家(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12602933101.html)の伯父で(むろんそれ以前に大久保利通のひ孫であり、牧野伸顕の孫、そして吉田茂の長男であることは周知の通りだが)、作家&英文学者である吉田健一について。

 この人の書いた食に関するエッセイ(以下、「食随筆」と表記。同様に旅に関するものは「旅随筆」★)のことは10年程前に採り上げたことがあり(★★)、これまでこの人の作品では、食随筆や旅随筆、英国に関する文章に、文学論や英語関連のエッセイしか読んだことがなかった。特に小説は全くと言っていい程手付かずだったのだが、最近になって手持ちの小説を一気に「消化」しようと思いたって鋭意実行中だった。

【★今回、「食味随筆」というジャンルがあることを知ったのだが、何だか分かったようでよく意味が分からない言葉なので、あえて使わないことにした。

★★「莢豌豆とワンタン、あるいは真水のような酒」 https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502038791.html ←最近この記事に吉田健一が愛犬を抱いている写真を追加してみた。他にも「ハムステッドのハム、あるいは、さらばロンドン」(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502039348.html)や「旅は汽車に乗って」(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502039575.html)にも、吉田健一の食随筆や旅随筆への言及がある。】

 

 

 

 早速「瓦礫の中」と「絵空ごと/百鬼の会」という小説はさして困難なく読み終えたのだが、その次の「本当のような話」からは、いくら読んでも内容が頭に全く入って来なくなり、心ならずも現在この読破計画を一時中断しているところである(手持ちの小説には他にも「東京の昔」、「金沢 / 酒宴」、「旅の時間」、「怪奇な話」などがあるのだが・・・・・・)。

 そこでふと何気なく、これまで幾度となく読み返してきた「酒 肴 酒」(光文社文庫)や「新編 酒に呑まれた頭」(ちくま文庫)などの食随筆をパラパラめくってみたところ、小説と違ってそれこそスイスイ読み進めることが出来、まさに無類の面白さなのだった。

 

 「旅は汽車に乗って」と題する上の記事にも引用したが、「旅行するのと食べること、および飲むことは切っても切れない関係にあるように思われる。(中略)旅行をしていると、日常生活での三度の食事とは違った意味を帯びて来る」と書いていることからも分かる通り、吉田健一の食随筆には旅(特に汽車旅)の話もよく出てくるので、現実に食事したり旅に出るよりも、本や映画などのヴァーチャル世界で食事や旅の場面に浸る方が好きな私にとって、吉田健一の文章は現実世界をしばし離れて妄想に浸るには格好なのである。

 

 もっとも(これは後で触れる太田和彦という人の文章についても言えることだが)私は、実在の飲食店を訪れてその店に関する詳細な情報を紹介するような実用的な文章にはとんと関心がなく、どこにあるとも知れない(そしてとうになくなってしまったやも知れぬ)名もなき店に立ち寄り、そこで触れた食べ物や人々、風景などについて書かれた文章の方に惹かれるのだ。そういう意味では、私は食随筆や旅随筆にも、ルポやドキュメンタリーのような実際的な側面ではなく、短篇小説やつげ義春のマンガのような虚構的リアリティーや作品性を期待しているのかも知れない。

 

 吉田健一にも「舌鼓ところどころ」や「私の食物誌」などの、実在の店舗を訪れて取材・執筆した、より実用的な食随筆もあるにはあるのだが(今ではこれら2作が一緒に収められた便利な文庫本も出ている→http://www.chuko.co.jp/bunko/2017/05/206409.html)、たとえそれが吉田健一の例の饒舌体で綴られ、この作家ならではの視点で貫かれていようと、私の「食指」は余り動かないのである(吉田健一がどんな文章を書いていたのかの一例として、上に挙げた「莢豌豆とワンタン、あるいは真水のような酒」という過去記事にも引用したものを、この記事の最後に再掲しておく)。

 

 ともあれ、そうして久々に吉田健一の文章を読み返していたら、私もむくむく自分と「食」の関わりについて何か綴ってみたくなったという訳である。

 

 と、まだ記事の(しかもその前段の)①~③のうちの①について触れただけなのだが、既に十分長くなってしまったので(そうでなくても最近どんどん文章が長くなっていくようで自分でも困惑しているので)、今回はこれまでにしておきたい。

 

 

 ちなみに吉田氏の食随筆としては、個人的には光文社文庫から出ている「酒 肴 酒」という本(上の写真)が一番のお勧めで、ここには上記の通り食べ物のみならず旅に関する文章も収録されており、日本だけでなく、吉田健一氏の専門領域である英国に関する文章も併せて読むことが出来る。

 また、エッセイとも小説とも判じかねる「海坊主」や「酒宴」などの、短いながらも文学的興趣にも満ちた作品も収録されているし(後者は講談社文芸文庫では、小説「金沢」と併せて1巻を成していて、完全に小説としての扱いである)、私の好みではないものの、「舌鼓ところどころ」の一部も収められている。

 

 そしてもう1冊、ちくま文庫から出ている「新編 酒に呑まれた頭」も、一部「酒 肴 酒」と重複する内容もあるものの、「旅と酒 三題」や、「旅に出る楽しみの大部分は、食べることにあるような気がすることがよくある」で始まる「旅と食べ物」など、旅と食(お酒)について書かれた文章があって捨てがたいのでお勧めしたい。この本の解説は、「吉田健一の時間―黄昏の優雅」という著書もあり、集英社の「吉田健一著作集」(全30巻、補巻2。最初の写真)や「新潮日本文学アルバム」吉田健一篇の編者でもある仏文学者・清水徹による実に素晴らしいもので、吉田健一という人に興味があるならば必読ものである。

                                          

 吉田健一の食随筆は、自宅などでくつろぎながら読むのも良いが、汽車旅にでも携えて行って、ビールでもちびちびやりながらページをくれば、まさに言うことなしだろう。もっとも私は根っからの出不精で上記の通り完全に「ヴァーチャル」派なので、実際に汽車の旅に出て吉田健一の本を持っていくようなことはおそらく今後もないだろうが・・・・・・。

 

 

 (山藤章二のイラストが表紙の単行本)    (こちらが私の持っている文庫版)

 

 最後に吉田健一の食随筆の1例を(「酒 肴 酒」光文社文庫版23ページ 「食べものあれこれ」の「2 支那」より)。

 

《支那のワンタンでは、うどん粉は皮で、その中に豚肉が一杯詰り、はち切れそうなのを皮の上からまた指で押し返した跡が幾つもついていて、おそろしくでっぷりした莢豌豆(さやえんどう)のような形をしたのが、支那でしかない匂いが立ち昇る汁の中に互いにぶつかり合って浮んでいる。そしてその一つを口の中に入れた瞬間が大事なので、皮が破れると同時に何ともいえない、ただ食べることを誘うばかりの匂いがする汁が豚肉と一緒に流れ出て、あとはその通り、ただもう食べるだけである。》

 

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 この間に読んだ本は、

 

・ヘルマン・ヘッセ「知と愛」(原題:ナルチスとゴルトムント)(新潮文庫、高橋健二訳)

 作者自身の若き日の経験に着想したと思われる作品だが、既に一家を成した大家による自己肯定の書と受け取れなくもない(作中にも同じ表現が登場するのだが、まさに「放蕩息子の帰還」といった趣である)。理性や禁欲の化身でやがて修道院の長となるナルチスと、反対に感情や欲望に忠実で、芸術(彫刻)に生き甲斐を見出すゴルトムントという、互いに性格も理想も180度異なりながら、生涯にわたって深い絆を保ち続ける2人の人物を描きつつ、人間存在に内在する「聖と俗」、「信仰者と芸術家」といった互いに相容れない価値観の葛藤と和解についての思索を展開している。

 小説はもっぱらゴルトムントを中心に進行するのだが、作者自身の分身と言っていいだろうこの人物の自己中心的な放埒ぶりや(日本語タイトルには「愛」とあるが、むしろ「情欲」であり「肉欲」でしかない)芸術至上主義とも取れる考えには必ずしも共感できないし、そもそも余りに単純明快な二項対立に支配された図式的な作品世界には違和感を覚えるしかない。

 終始我欲の命ずるままに行動するゴルトムントに、修道院長となったナルチスは愛の告白までするのだが(そこに同性愛的な要素を見たとしても決して的外れとは思えない無条件で絶対的な愛情告白である)、それまでゴルトムントの独善的で自己批判や反省をほとんど知らない生き様を見て来た私には、彼の何がナルチスを惹きつけるのか全く理解不能なのでもある(むろん愛情は狂気の一種でしかなく、自分と正反対な存在に対する漠然とした憧憬でも、ナルチスの美貌でも何でも狂気の理由になりうるのだが・・・・・・)。

 理性や知識に対するほとんど偏見と言っていいだろうゴルトムントの懐疑や軽視、その度を越したプライドの高さ、全く節操なく女を次々と取っ替え引っ替えし(彼が興味を示すと、たちまち女性たちがほぼ例外なく心も体も投げ出してくる場面の連続には失笑するしかなかった。これまたヘッセ自身の経験に基づいているのだろうか? 笑)、死ぬ直前まで女性のみならず他者に対する征服欲や支配欲から自由になれない点(そしてそのために彼は結局命を落とすことにもなる)など、およそ人間として(私には)魅力的な点が悉く欠如したゴルトムントなる人物の物語を延々読まされるのは正直苦痛でしかなかった。

 時としてゴルトムントは不意に、作者自身の考えでもあるだろう芸術や人生について深遠な(あるいはそう見えるだけの)言葉を操りもするのだが、そうした思想が言動に結びつかないだけでなく、単に他者を否定したり見下すためだったり、自分の生き方を肯定するためだけに弄されているとしか思えないのも確かなのである。

 今作で個人的に最も興味深かったのはペスト流行に関する部分で(今回の新型コロナウイルスの感染拡大で、カミュやデフォーの「ペスト」に言及した人は少なくなかったが、ヘッセの「知と愛」に触れた人はほとんどいなかったのではないか。もっとも今作には新型コロナウイルスの流行に際して参考になるような記述はほとんどないと言っていいのも確かなのであるが・・・・・・)、パニックに陥った人々がユダヤ人に対する流言飛語や虐待を行う場面は、関東大震災の際の朝鮮人虐殺を思わせるのと同時に、今作が発表された1930年時点ではまだナチスはさほど台頭していなかったはずだが、ヘッセが既にドイツ国内に漂う反ユダヤ主義の臭いを敏感に嗅ぎ取って批判的に採り上げたのだろうことは想像に難くない。

 

 この間に見た映画は(感想は出来るだけ省略した)、

 

・「シリアスマン(2009年)」(ジョエル&イーサン・コーエン監督) 3.5点(IMDb 7.0) Amazonプライムビデオで視聴

 冒頭部から画面に釘付けになるほど面白かったのだが、その面白さの正体がよく分からない作品でもある。全編ユダヤ教の世界(より正確には旧約聖書「ヨブ記」の世界)であり、ジャンルとしてはコメディ作品だろうにもかかわらず、たまにクスッと笑える程の可笑しさでしかなく、言うなれば「シリアス」なウディ・アレン作品と言ってもいいものなのだが、なぜか無類に面白いのである。

 結末らしい結末もなく、全編にわたって「登場人物たちが不運に見舞われる」エピソードの羅列でしかないとも言えるのだが、冒頭に置かれた「身に降りかかる出来事をあるがままに受け入れよ(Receive with simplicity everything that happens to you.)」という言葉が今作のすべてを言い表しているのかも知れない。

 

・「世界最速のインディアン(2005年)」(ロジャー・ドナルドソン監督) 3.0点(IMDb 7.8) 日本版DVDで視聴

 1,000cc未満のオートバイの陸上最速記録を持つ実在の人物バート・マンローをモデルに作られた作品。ニュージーランドを旅立ってアメリカ・ユタ州にあるボンヌヴィルにたどり着くまでの過程がさながら一篇のロード・ムーヴィーのようで、ロード・ムーヴィー好きの私にはかなり楽しめた一方、私はオートバイ(ついでに自動車も)にもスピードにも全く興味がないため、予定調和に向かっていくだけの後半部はただただ退屈でしかなかった。どんな苦境に陥っても楽天的で、誰にもたちまち好かれてしまう主人公を演ずるアンソニー・ホプキンスはいつもながらに芸達者で見せるのだが・・・・・・。

 

・「ブロンドの恋(1965年)」(ミロス・フォアマン監督) 3.0点(IMDb 7.6) 日本版DVDで視聴

 「カッコーの巣の上で」や「アマデウス」のフォアマン監督のチェコ時代の初期作品。

 工場労働者である少女たちと、(妻子ありで中年の)予備兵たちとのダンス・パーティを中心にしたドタバタ喜劇で、内容というほどの内容もない他愛のない作品。1967年の「火事だよ! カワイ子ちゃん」同様、少女たちを何とかして誘い出そう(あわよくばモノにしよう)とするおバカで卑猥な中年オヤジたちの姿が滑稽で哀しい。

 

 未見作を見てからまとめて書くつもりだったのだが、現在は(これという理由もなく)中断している木下惠介監督作をとりあえず何作か。

 

・「二人で歩いた幾春秋(1962年)」(木下惠介監督) 3.0点(IMDb 6.5) テレビ放映を録画したもので視聴

 個人的に木下惠介作品は前から余り得意ではないのだが、今作はその中ではかなり相性の良かった作品だと言っていい。

 とは言え、善良でまっすぐな人たちばかり出てくるのは居心地が悪く、ベタベタ感傷的で大仰な主題歌(?)を何度となく繰り返し流す感性もやはり理解不能で、一切無音だったら遙かに優れた作品たりえていただろうと思わずにいられなかった(音楽は監督の実弟・木下忠司が担当しているが、この人の音楽を良いと思ったことはこれまで一度もなく、他の人に音楽を任せていれば木下作品はもう少しマシになっていたかも知れない)。

 主人公夫婦を演ずる高峰秀子と佐田啓二の演技は今作でも実に手堅いのだが、脇を固める久我美子や菅井きんの存在も貴重で、彼女たちなくしては今作はかなり魅力の乏しいものになっていたに違いない。

 

・「カルメン故郷に帰る (1951年)」(木下惠介監督) 3.5点(IMDb 6.6) テレビ放映を録画したもので視聴

 予告篇→ https://www.youtube.com/watch?v=DehuoPOXpps

 これまで何度も出だしを見ただけで挫折して来た作品なのだが、今回は無事に最後まで見られ、おまけにそれなりに感動までしてしまった。頭の足りない天真爛漫な「踊り子」役を演ずる高峰秀子が出色で(最後に彼女が披露する踊りは、滑稽でありながらなかなか魅力的でもある)、私の中では余り色気のない太い声のオバちゃんというイメージしかなかった高峰秀子がお色気たっぷり(のはず)の役柄を演じているのは新鮮だった(もっともやはりお色気はほとんど感じられないのだが・・・・・・)。

 オツムの弱い、しかし純粋で一本気な娘を不憫がって心を痛める父親役の坂本武も良い。全体としてはお気楽なコメディ作品なのだが、日本初の長編カラー映画という「大役」を担いながら、わざわざストリッパーを主人公とする肩の力を抜いたコメディを作ってしまう木下惠介には脱帽するしかない。

 今作には白黒で撮られた(しかも全編別撮りとのこと)ヴァージョンもあり、Blurayには特典として収録されているらしいので、いずれ見てみたいものである。

 

・「カルメン純情す(1952年)」(木下惠介監督) 2.0点(IMDb 6.4) テレビ放映を録画したもので視聴。

 「カルメン故郷に帰る」の続編と言っていいが、今作は一転してモノクロ(白黒)作品である。

 内容らしい内容もなく、カルメン(高峰秀子)と女にだらしなくイカガワしい現代美術家、前作以来の相棒で、剣劇役者と出来て子供が生まれたもののあっさり棄てられる小林トシ子との関係を軸とした(前作と同様)ドタバタ喜劇である。

 一方で原爆への恐怖や戦争反対といったメッセージがこめられ、さらに画面を頻繁に斜めに傾ける奇抜な撮影手法が取られているのだが、それにどんな意味があるのかは不明(おそらく意味などないのだろう)。