フーリガン通信 -4ページ目

フーリガン通信「再開」のお知らせ

A Happy New Year!
本日は2013年1月2日。新年を迎え、本日は皆さんにお知らせがある。
2010年2月に長い休刊に入ったこの「フーリガン通信」を再開させようと思うのだ。

昨年ゴンの引退発表に際し、彼のFootballにかけた魂に敬意を表し一度だけ配信したのだが、あの時点では再開をしようとは思っていなかった。実は思いが変わった理由は、テレビ東京の「FOOT×BRAIN」という番組で、その日のゲストであったセルジオ越後氏が語ったことに魂が揺さぶられたからである。

「日本のサッカーはまだ文化にはなっていない。」
「日本のサポーターはサポーターではない。ただのファン。」

メルマガ時代を含め古くからの読者の方なら、それが2002年の発刊からこのフーリガン通信で度々語ってきたことであることは同意いただけるであろう。私にはセルジオ氏のような、名声も実績もない、ただのFootball愛好家の一人にすぎないが、その想いはセルジオ氏に負けるとは思っていない。セルジオ氏が40年前に来日する前から、Footballを愛してきた。セルジオ氏の来日当時のプレーもこの目で見てきた私である。そんな私の視点で語ることでも、サッカーの素晴らしさは伝えられると思っている。

だから、もう一度始めようと思う。また、新たな気持ちで。

2010年2月の休刊前にトライアルで1ヶ月毎日発信できることは実証できた。Footballの世界には日々それだけのコンテンツがあるということだ。しかし、さすがに今回はもっと無理のないペースで配信しようと思う。目標は「週刊フーリガン通信」。発刊曜日は指定しないが、週に一回くらいは配信しようと思っている。その量も気楽に読んでいただけるように、適度な長さに抑えようと思う。(毎回、長すぎて読む気にならなかった方もいらしたかもしれないので…)

魂のNew Year's resolution、それは私自身の楽しみでもある。
どこまでできるかわからないが、よかったらまた立ち寄っていただきたい。

魂のフーリガン

タラタラの未練に乾杯

「まだ未練タラタラです」

2012年12月4日。札幌市内のホテルでの会見で、まるで泣きそうなる自分を鼓舞するかのように、力みのこもった口調で自らの引退を発表した男の本音は、この“一言”に凝縮されていた。

2009年11月、数々の栄光に包まれたJ1ジュビロ磐田から戦力外通告を受けた42歳の男は、スタッフ入りのオファーを断っても現役生活にこだわった。出場機会を求めた先はJ2コンサドーレ札幌。しかし、札幌での1年目こそ13試合に出場したが、2年目は出場ゼロ、そしてJ1に昇格した今季もピッチに立ったのはわずか1回。それも、史上最速でJ2降格が決まった後の最終節・対横浜Fマリノス戦、終了前の“3分間”であった。

その3分間は、磐田での最後のシーズン、戦力外通知を受けた後にホーム最終公式戦の後半途中に出場で残したJ1 最年長出場記録を自ら更新(45歳2ヵ月1日)することになったが、闘うことにこだわり続けてきた男にとっては、むしろその未練を増すものになったに違いない。残ったのは悔しさ。それも自分自身に対しての・・・

すべての報道機関が「引退会見」と報じたその日、マイクを前にした45歳の男は、「第一線を退く」とは言ったが、実は一度も「引退」という言葉を口にしなかった。
そして、読者の皆様は気が付いたであろうか。会見時に彼が締めていたネクタイは、ネイビーブルーの生地の中央に赤い縦1本のストライプ・・・そう、現在の日本代表のユニフォームのデザインであった。

彼の魂は、これからも永遠に闘い続けるだろう。
私にはわかる。そういう奴なのだ、“中山雅史”という男は。

魂のフーリガン 

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中山の“魂”に敬意を表して、本当に久々の発刊であった。
魂の叫びはやはり抑えきれない。
ついでに、彼にささげた2004年1月7日に発信した通信をもう一度掲載したい。
当時、多くの友人からコメントをもらった、私にとっても思い出深い通信である。
私の中にある中山は、いつもこんな男である。これからも・・・
中山、ありがとう。

★フーリガン通信 2004年1月7日★★★★★★★★

【ラスト・サムライ】
 中山がアップを始めた。誰よりも足を高く上げ、誰よりも激しくダッシュを繰り返した。いからせた肩から気合がみなぎっていた。誰が見ても「来るな」と思った通り、程なく背番号9はタッチラインからピッチに飛び出していった。

 元日の天皇杯決勝、中山が入ったのは0-0の膠着状態が続いた後半20分過ぎだった。MF成岡との交代で、中山が前方に飛び出す代わりに、グラウとツートップを組んでいた前田がトップ下に下がった。磐田での最後の指揮となる柳下監督の意図は「攻撃の活性化」と「チームの士気の高揚」。前者の役割を担うスーパーサブはいても、後者の役割ができるFWは日本では彼しかいない。きっと、彼ほど完璧にその役目を果たす選手は、世界的に見ても珍しい存在であろう。そしてこの男、ことごとくその期待を裏切らない。後半26分、右サイドで一瞬相手の裏に抜け出した中山から中央に返されたボールは前田を経由し、ゴール前のグラウに渡った。ゴール!!中山の一瞬の飛び出しが決めた決勝点だった。
 「国立がホームのようになった」試合後、服部は中山の投入についてそう語った。試合を変えたのはやはり中山だったのだ。なぜ彼にはそれが出来るのだろう。なぜ彼にしかそれができないのだろう。それは彼が背負っているものが、誰よりも重いからである。

 アメリカW杯最終予選。KAZUやラモスを中心としたJリーグ草創期の華やかなプロ選手だらけの日本代表に、中山は当時Jリーグ参加を見合わせたJFLのヤマハ発動機から僚友・吉田と共に参加した。それまでもスーパーサブとして起用されることが多かった中山は、イラン戦で2-0とリードされた終盤にピッチに送り出される。周囲が負けを覚悟していたその時、彼は左サイドゴールラインを割ろうとする誰も追わないボールをスライディングで止め、立ち上がるやいなや振り向きざまに角度のない所からシュートをねじ込んだ。そして次の瞬間にはゴールネットに絡まるボールめがけて猛然とダッシュすると、イラン選手からボールを奪い取り、センターサークルにめがけて全力疾走。彼の鬼の形相が忘れられない。
 そして「ドーハの悲劇」。イラン戦の活躍が認められ、以降スタメンに顔が並んだ中山は、その日のイラク戦もスタメンのピッチに立った。期待に応えて彼は日本の2点目を奪い、2-1の状態で終盤に武田と交代する。ロスタイム。役目を終えた彼がすべきことは歓喜の抱擁のためにピッチに飛び出す準備をすることだけだった。そんな彼がベンチから目にしたのは、GK松永の頭上を越えてネットに吸い込まれるボールの軌跡。そして耳に届いたのは地獄に落ちることを意味する笛。悲劇の始まりは自分の代わりに入った武田の、前線での不用意なパスミスだった。

 4年後、フランスW杯予選。最終予選の終盤に入り代表に呼び出された彼は、KAZUが出場停止となったカザフ戦で自分のシャツの下にKAZUのシャツを着込んでゴールを上げ、KAZUに捧げた。中東地区2位とのアジア第3代表決定戦へ駒を進めた一戦だった。イランとのジョホールバルの闘いではKAZUと共にスタメンに並び、見事な先取点を上げた。しかしイランにリードを許した後半途中、KAZUと共に城、ロペスにピッチを譲る。ベンチで試合の決着を見るのは4年前と同じだが、違ったのは結末が岡野の延長Vゴールによる歓喜であったこと。しかし夢に見たW杯に手が届いた時、本大会直前にKAZUが北澤と共にチームからの離脱することを知らされる。FWでは予選の一番最後に代表に加わった彼が残り、予選の最初からトップを張り続けた僚友がチームを去った。
 本大会に賭ける中山はまたもKAZUの魂を背負った。既にグループリーグ敗退が決まったジャマイカ戦。彼はロペスのヘッドの折り返しを体ごとゴールに叩き込んだ。クリーンシュートではない。しかし、それが記念すべき日本のW杯初ゴールだった。その後、彼は足を負傷する。最後の交代枠で登場した小野の代わりには名波が引っ込み、脚を引きずる中山はピッチに残された。交代できるタイミングでも彼はピッチから退こうとはしなかった。彼の魂が交代を拒んだのだ。ビッコを引き動けない中山は、それでも相手のパスをカットするために頭からダイブを敢行した。目頭が熱くなった。試合後に中山の負傷は“骨折”だったと発表された。遂に涙腺が壊れた。

 そして2003年J後期の最終節。いくら中山でも、横浜FM久保にまさかの逆転ゴールを許してからの数分間では運命を変えることはできなかった。万全の体調であればもっと早くピッチに飛び出して、結果は変わったものになっていただろう。雨中のピッチに故障上がりの彼を送り出すことをためらった柳下監督を責めることはできない。また一つ心に重荷を背負ってしまった中山・・・。

 特別に脚が速いわけではない。特別に上手いわけでもない。さらにルックスが良いわけでもない。それらは彼が一番良く知っていること。だからこそ、ピッチで誰よりも魂を熱く燃やす。その姿勢が人々の魂を激しく揺さぶる。加齢といった避けられない現実が存在する中で、プレイヤーとして期待に応えつづけることは容易ではない。激しいプレーを信条とする中山の場合、膝の故障、恥骨結合炎、眼窩壁骨折、手の骨折等、その代償も安くなかった。それでも、今なおそのアイデンティティを失わない中山。自らが愛するサッカーによって得た物、失った物、その全てを背負ってプレーする彼は、誰よりも激しくピッチを駆ける。そんな中山だから、そのピッチを離れた時の“軽さ”も、私にはピッチ上で本当の自分を隠さず曝け出した男の精一杯の“照れ隠し”に思えてならない。  
 
 元日のジュビロとしての初の天皇杯制覇は、そんな男への報酬としてはまだまだ安いものだ。神様には、もっと大きなご褒美を用意しておいて欲しい。2006年のW杯ドイツ大会の切符。彼にはそれを手にする資格がある。年齢?心配ない。現在でも36歳で、誰よりも激しく、誰よりも活動量のある男だ。次のW杯を迎える時は38歳となるが、彼には限られた時間でも日本代表を“違うチーム”に変える力がある。そういう選手の使い方があってもよいと思う。奇跡は、実際に起きてこそ“奇跡”と呼ばれる。2006年の“中山”という奇跡を私は信じたい。

 新年最初の“魂”の通信は、日本で最も“魂”を感じさせる男の話とさせていただいた。どこまで続けられる通信か判らないが、出来るところまで頑張りたい。中山が頑張っているのだから。

魂のフーリガン 

【魂の号外】 日本代表“本当のリスク”

先日休刊をお伝えしたばかりの“フーリガン通信”であるが、さすがに『魂の叫』は抑えられない。

と言うわけで、【魂の号外】と言うことで・・・(汗)


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「いいところ悪いところがあるが、総合判断して変えない方がいいだろうと判断した。今まで積み上げてきて、新しい人というのはリスクが大きすぎる。批判もあるだろうが、今まで目指したことを積み上げるのが最善だと思う。」


ご存知の通り、東アジア選手権で韓国に敗れた後、日本サッカー協会犬飼会長が”岡田監督の解任“の声に対して発したコメントである。


「新しい人というのはリスクが大きすぎる」・・・馬鹿なこと言うんじゃない!


“3年以上”も積み上げてきた結果が、ホーム大会での「東アジア3位」である。こんなチームに何が積み上がるのだ? 

このままのチームで本大会“ベスト4”を目指すこと以上のリスクが、いったいどこにあると言うのだ?


そして、分かっているのだろうか?責任を取るのは岡田監督じゃない。

どうでもいい瑣末なことには大声で文句を言うくせに、最も重要な“日本代表”に何の手も打たずにここまで引きずった“最高責任者”・・・犬飼会長。それはあなた自身である。


そもそも、“リスク”がどこにあるのかも分からないあなたに、“リスク”について語る資格などない。

なぜなら、日本サッカーの『最大のリスク』とは・・・


いや、すでに顕在化しているからリスクと言うよりも『最大のクライシス』といった方が適当だろう・・・


犬飼会長。教えてあげよう

・・・それは、お前が「そこ」いることだ



魂のフーリガン