フーリガン通信 -2ページ目

グローバル人材育成視点で考えてみた

「サッカーが上手になればオリンピックもあるし、世界中に行ける。」

京都太秦小学校時代に恩師・池田先生から掛けられたその一言で、日本が生んだ不世出のストライカーとなる釜本少年は“サッカー”をすることに決めた。周囲で人気があった“野球”ではなく…

残念ながら色々な理由があって釜本は海外のクラブでプレーする機会はなかった。しかし、彼は実際に1968年に日本サッカーの恩師デッドマール・クラマーの紹介で西ドイツの1FCザールブリュッケンへ2ヶ月の短期留学、同年10月には銅メダルを獲得したメキシコ・オリンピック、1980年にはスペインで世界選抜としてユニセフチャリティーマッチに出場しヨハン・クライフやミシェル・プラティニとともにプレーしている。その他にも日本代表やヤンマーディーゼルで数多くの海外遠征をして、釜本は「世界中に行く」という夢を十分に果たすことができたと言えよう。そして1984年8月25日満員の国立競技場で行われた「釜本邦茂引退試合」には、あの王様ペレやウォルフガング・オフェラートが今度は「世界から」駆けつけた。釜本自身が「ワールドクラス」であったことの証である。

釜本邦茂は1944年生まれ。彼の人生を決めた池田先生の一言は、今からから60年近くも前のことである。

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「マイナーからのスタートになると思うけれども、メジャーリーグに挑戦したい気持ちでいる。入学当初からの夢だった。若いうちに行きたい思いがあった。日本のプロにも憧れはあったが、メジャーへの憧れの方が強かった。」

昨年10月25日のプロ野球ドラフト会議に日本ハム・ファイターズから1位指名を受けた花巻東高等学校の高校3年生・大谷翔平は、直前の10月21日に記者会見を開き、メジャー挑戦を表明していた。

大谷自身の将来、日本のプロ野球の将来といった観点から、その決意に反対する声もあるにはあったが、昨今「日本の若者は内向き」、「グローバル人材の育成が急務」といった社会的な課題が叫ばれている中、18歳の若者が自身の「夢」を追いかけようとするその姿を応援する声も多かった。事実、日本のプロ野球界も時速160kmの速球を投げた逸材の指名を回避した。唯一、日ハムを除いては・・・

ご存知の通り、その後「大谷家」と日ハムは数度の交渉を行い、栗山監督直々の熱い勧誘もあり、大谷は日ハムに入団することになった。交渉の席で日ハムは、投手とバッターの“二刀流”という新たな「夢」を提示しながら、一方ででは既存の夢を打ち消す「現実」を提示したという。球団から示された30ページ以上といわれる資料には、大谷が当初入るであろうマイナーリーグの過酷さ、同じく高校卒業直後にアメリカへ渡った韓国選手の失敗例、日本球界で力をつけてからメジャーに行った方が活躍できるといったデータが綿々と語られていたという。さらに、契約金1億円+出来高払い5,000万円、年俸1500万円(推定)という最高級の「現ナマ」と、ダルビッシュの背番号11というオマケも添えて。

大谷はプロ野球オフシーズンの目玉として既に活躍している。2軍宿舎の入寮といっては騒がれ、バッターボックスに立てば騒がれ、ピッチャーズマウンドに立てば騒がれる。その合間には女子アナのインタビューに笑顔で応える。大谷は「まだ何も成し遂げてはいない」が、日ハムはそうやって大谷家に支払った投資を着々と回収している。大谷はそんなことに気付いていないし、知る必要もない。それがプロの世界である。

所詮は他人の人生。大谷の決断は尊重する。しかし、その18歳の若者が会見まで開いて語った小さい頃からの「夢」や「憧れ」を、周囲から加えれた打算的な“内向き”の力が抑え込んでしまったことは紛れもない事実だろう。「グローバル人材を目指せ!」と人には言うものの、どうやら社会のベクトルは事情によって色々な方向を向くらしい。

まあ、外からの説得で変わってしまう「決意」も、どこまで考えて出したものだったのか怪しいものだが…

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釜本邦茂と大谷翔平。異なる時代、異なる環境での2つの事例を改めて考えてみると、「若者が内向きになった」のは、若者を導くべき大人が“内向き”になったからではないだろうか?経済大国となった日本は“外向き”になる必要を失った。“リスク”を冒す必要もなくなった。遠くの夢よりも近くの現実。子供や若者に「夢を持て」といいながら、実は一方で、大人にとって都合が悪い夢は放棄させるようにうまく誘導しているのではないだろうか?すべては子供や若者のためではなく、自分たちのために。

就職氷河期、企業の採用担当者は「グローバル人材」の必要性を声高に叫ぶが、自分たちは英語も勉強せず世界を目指しもしなかったのに、そしてついこの間までは「それで良い」と受験勉強に埋没する教育を肯定し、“学歴”を重視していたのに、ちょっとおかしくはないか?こんな状況だから、選ぶ側は本当にグローバルで活躍できる人材を見極める目は持ち合わせていないし、せっかく採用しても失望だけを与えることになる。現実は「グローバル人材」を生かす環境にない。

だから思うのだ。グローバルであろうが世界であろうが、「夢」は小さい時に持たせ、その夢の実現のために準備をさせる。親にも覚悟は必要だし、子供もそのために頑張らなければならない。子供は弱いし、親や大人の考えに影響を受けやすいから、時として親が勝手に願う「勘違いの夢」のレールに、子供を乗せてしまうこともあるだろう。しかし、ある時期が来れば親も本人もよほどの馬鹿でなければ、可能性の限界というものは見えるものだ。逆に見えてこなければ、それだけ良く見ていないということになる。

子供や若者に一方的に何かを求める前に、我々大人はその求める素養を彼らが備えることが出来るように導いてやらねばならない。長い話である。だからこそ、早く着手すべきだろう。

ちょっと話が大きくなってしまったが、そもそも野茂やイチローをはじめ国内で実績を上げた選手がメジャーリーグに挑戦し今もその傾向が続く野球に対し、サッカーは奥寺や中田にはじまり今も若い選手が次々と本場の欧州に旅立って行く。同じ日本で、同じプロスポーツでも、グローバル志向が異なるのは興味深い事実である。明らかにまだまだ発展途上にある日本サッカーは、その成長のために若者の挑戦を後押しするが、既に国内で“業界”が確立してしまった野球界では、どこかで「内向き」のベクトルが働いているのだろう。今の日本社会の縮図のように。

将来のサッカーと野球、どっちが楽しみかって?
釜本少年に聞いてみるんだね。


魂のフーリガン

なぜか“皇帝の名言”が日経に・・・その3(最終回)

 197477日、ミュンヘン。その日の天気は「薄曇り」だった。





 証言者は私。忘れもしない。すでに8日に日付が変わろうとしていた深夜の日本で、高校生の私は確かに“ミュンヘンの灰色の空”を観ていたのである。日本初のW杯衛星生中継、翌日の期末試験より私には大事だった。(“幸い”関東は低気圧の接近で暴風雨。学校から翌朝に休校の連絡が入った。)





 曇り空ではあったが、ミュンヘン・オリンピック・スタジアムスタンドを覆う屋根が透明ボードの吊り天井だったからか、またはスタンドを覆う「黒・オレンジ・黄色」のドイツ国旗とオレンジ一色のオランダ応援団の派手な色彩のせいか、画面に拡がる光景はむしろ明るく感じたことを記憶している。そして、ミュンヘン時間午後4時(日本8日午前0時)、ドイツ人のチアー・ホルンの激しい反響の中、オランダ代表主将ヨハン・クライフのキックオフによりW杯西ドイツ大会決勝戦が始まった。





 キックオフからオランダが悠々とボールを回し始めた。黒い五角形と白い六角形の革が縫い合わされたadidas公式球“Telster”は、西ドイツの出方を探るようにオレンジの点の間を十数回繋がれ、ピッチ中央に浮遊していたクライフに収まった。「そろそろ行くか」という合図のように、おもむろにドリブルを開始したクライフは、その日の“クライフ番”、西ドイツの“火の玉小僧”ベルティ・フォクツを一瞬のスピードの緩急でかわすと、フォクツを引きずりながらドリブルのギアを上げて一気にペナルティ・エリア左に侵入する。前方で待ち受けていたはずのMFウリ・へーネスの懸命のタックルが捉えたのは、すでに彼の脇をすり抜け、ボールを前方に押し出した後のクライフの足だった。両手を上げて前方に投げ出されるクライフ。イングランドの主審ジャック・テーラーの迷いのないホイッスル(もちろん実際は音など聞こえなかった)・・・PK。信じがたいことに、試合開始からそれまで西ドイツの選手は一度もボールに触れていなかった。





 W杯決勝史上初の開始1分のPKを、ニースケンスはまるでシュート練習のように無造作に、力いっぱい蹴り込んだ。右に反応したGKゼップ・マイヤーが一瞬前まで立っていた位置を瞬時に通過したボールは、まさにネットを突き破るかのような勢いでゴールど真ん中に突き刺さった。瞬く間の0-1。西ドイツにとっては痛いビハインドではあったが、PKは事故のようなものである。ゲームはまだ89分残されていたし、ボールに触ってもいない西ドイツにとっては自らのキックオフがゲーム開始のようなもの。あまりに早い失点に対するダメージは、さほど大きくはなかったに違いない。リードされたゲームをひっくり返して最後に笑うのはこの国のお家芸でもある。


 しかし、反撃に転じようとした地元・西ドイツを、本当の悲劇が襲った。開始5分、クライフを削ったフォクツにイエローカードが提示されたのだ。相手の絶対的エースを封じる役目を命じられたフォクツが、残り85分間、そのクライフに対して自らの牙を封印された。西ドイツのサポーターの誰もが頭を抱えた瞬間だった。そして、ゲームもそのままオランダのペースで進んでゆく。余裕を持ったオランダは傷ついた獲物をいたぶるようにパス回しに興じ、欧州王者西ドイツを弄んだ。





しかし、前半26分、侮辱に耐えた西ドイツに転機が訪れる。小刻みなスラロームで巧みに左角からペナルティ・エリアに侵入した西ドイツFWベルント・ヘルツェンバインに、オランダMFビム・ヤンセンの出した足が“掛かった”(ように見えたが、実はヤンセンの足は掛かっていなかったという)。スピードがなかった割に大げさに身体を投げ出しバッタリ倒れるヘルツェンバインだったが、先にオランダにPKを与えていたテイラー主審は、「お相子」にするその機会を待っていたかのように、躊躇なく西ドイツにPKを与えた。執拗なオランダの抗議、騒然となるスタジアム。西ドイツの本来のPKキッカーはへーネスだったが、彼は前のポーランド戦でPKを失敗していた。そんな不安がよぎる中、22歳と思えない髭面で足首まで白いストッキングを降ろしたDFパウル・ブライトナーがボールをセットし、落ち着いて右足インサイドで冷静に蹴り込んだ。彼がPKを蹴った理由は「自分がボールの一番近くにいたから」・・・ブライトナー、恐るべし。何はともあれ1-1、西ドイツはPKで与えたリードをPKで帳消しにして、ゲームは文字通りの振り出しに戻った。




 同点として地元の猛声援に息を吹き返したドイツに対し、それまで明らかに西ドイツを舐めてかかっていたオランダに焦りが見え始める。攻め急ぐ強引なプレーは彼らから“規律”を奪った。オランダらしくない攻めを西ドイツが冷静に捌き、逆にチャンスを引き寄せる互角の展開。そして前半も終わりに近づいた43分、西ドイツ自陣前のルーズボールをダイビングヘッドでGKマイヤーにバックパスしたMFライナー・ボンホフが、立ち上がると一気にピッチを斜めに駆け上がる。マイヤーから2人を経由したボールが、右サイドに縦に出された時、そこには何とそのボンホフが走りこんいた。スピードを保ちながらDFアリー・ハーンを縦に抜き去った彼から、マイナスにグラウンダーのセンタリング。ニアサイドにはDFルート・クロルにぴったりとマークされていたCFゲルト・ミュラーがいた。クロルを背負ったミュラーのトラップはボールを2m後方に残した。彼は後にこのプレーがトラップミスであったことを述懐するが、そこからがミュラーの真骨頂。すぐさま後方に戻りながらボール横に左軸足を移し、素早い反転で右足シュートを放った。ボールが後方に置かれた分、寄せが一瞬遅れたクロルの左足がシュートコースに大きく投げ出されたが、足に巻き込まれたようなゴロのシュートは、クロルの股間を抜け、コロコロと逆サイドのネットに転がっていった。ミュラーの偉大なる“リトル・ゴール”。クロルの後方で本来のシュートコースに立ちはだかったGKヨングプルートは、棒立ちのままボールを見送るだけだった。そして、ミュラーを埋め尽くす白いシャツの歓喜と抱擁。スタンドの熱狂が天を衝いた。





 前半をそのまま2-1で終え、控室に向かうテイラー主審に抗議を始めたクライフにイエローカードが出される。審判を見下すかのような尊大な態度はいつも通りだが、そこには明らかに彼の苛立ちが見て取れた。そして後半。そんな苛立ちを表すかのように、オランダの力攻めに拍車が掛かる。一方的に攻めるオランダ、耐える西ドイツ。しかし、攻めてはいても焦りから本来の精度を失っていたオランダに対し、冷静なベッケンバウアー、鬼神の働きを見せるマイヤー、そして“ゲルマン魂”という見えない壁が厚く立ちふさがった。オランダの怒涛の攻めを受けながらも、ゲームをコントロールしていたのは西ドイツに見えた。実は日本ではオランダ代表の他のゲームの録画は、生中継の決勝戦の後で見ることになるのだが、「この日のオランダ代表」は明らかに「大会を席巻したオランダ」ではなかった。激しく、そして心地よく吹き抜けてきた“オランダ旋風”は、最後の最後、最も大切な時についにその勢いを失ったのである。





 そして、ゲームが終了した。その日、間違いなく世界王者は“西ドイツ代表”であった。





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「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ」





 冒頭のベッケンバウアーの「名言」は、そんなゲームの後に発せられたのである。 (・・・えっ、前置きが長すぎだって? はい!それが「フーリガン通信」です!嫌なら読まんでええ)





 地元開催のプレッシャー。決戦前のオランダ有利の下馬評。そして、その強い相手に何も出来ぬまま開始1分で先制を許した。それでも俺たち西ドイツ代表は、オランダを倒して世界チャンピオンになった。その西ドイツ代表を、今日まで引っ張ってきたキャプテンとしての「意地」と「プライド」。「勝った俺たちが強いんだ!」とベッケンバウアーが胸を張ってそう叫びたい気持ちはよく解る。


しかし、この名言には言葉通りの意味の他に、もう一つの意味があるという。





 「今日の戦いは、どちらが勝ってもおかしくなかった」





 それは、追い込まれてギリギリの闘いを強いられ、最後にそれを乗り越えたベッケンバウアーだからこそが言える言葉である。ただ単に「勝った俺達が強いのだ!」と相手を見下して発した言葉でも、「オランダ代表が強いって言ってたのは誰だ!」という世間に対する反抗でもない。死闘の相手・オランダ代表の“強さ”を十分にリスペクトしながら、その強いオランダに勝つことができた自分達の“強さ”を称えているのである。そこでいう「強さ」とは、“戦力的な強さ”ではなく、“精神的な強さ”に他ならない。だからこそ、この言葉は「名言」となったのである。







 この“言葉”が名言として語り継がれ、結果として多くの人々が使うようになった。中には、「結果オーライ」、「結果が全て」といった意味での使い方をされることも多く、そこにはベッケンバウアーが言葉に込めた、対戦相手に対するリスペクト、そして不条理であるがゆえに魂を惹きつける“Football”に対する愛情は、残念ながら存在しない。





 後にドイツ代表の監督としても1990年イタリア大会で優勝を果たし、バイエルン・ミュンヘン、ドイツサッカー連盟の要職を務めることになる“現代Football界の賢人”ベッケンバウアー。その言葉の意味を正しく伝えるのも、同じ時代を生きた者の務めであろう。





 わかったか?日本経済新聞よ。あんまり半端なことするんじゃねえぞ!





魂のフーリガン

なぜか”皇帝の名言”が日経に… その2

お待たせしましたさあ、“皇帝”ベッケンバウアーの名言の裏のお話を語らせてもらおう。

 1974年西ドイツW杯(当時はまだドイツは東西2つの国家に分裂していた)。この大会の話題を独占したのは貴公子ヨハン・クライフを中心としたオランダ代表の“オレンジ旋風”だった。大会直前から指揮を執った名将リヌス・ミヘルスの下、彼の指導で1971年から73年まで欧州チャンピオンズ・カップを3連覇したアヤックス・アムステルダムを母体としたチームがピッチ上に描いたのは、それまで誰も見たことのない「未来のフットボール」。GKまでも含め従来のポジションの概念を覆す“ローテーション・アタック”、後に現代のプレッシングに継承される“ボール狩り”、ボールを奪うことなく相手の攻撃権を奪う“オフサイド・トラップ”・・・「トータル・フットボール」と称されたその革命的なサッカーは、大会3日目の登場から世界中の目をくぎ付けにした。

 観客以上に驚いたのは対戦相手であろう。技術・体力・戦術理解に優れたオレンジ軍団がピッチの上に意図的に生み出す“規律あるカオス(混沌)”は並み居る強豪を恐怖に陥れた。CFのクライフが最後尾から攻撃を組み立て、SBのビム・シュルビアがサイドを駆け上がりセンタリングを上げ、リべロのクロルが最前線で強シュートを放つ。若いFWヨニー・レップやMFヨハン・ニースケンスが次々と放つシュートはまるで練習のようで、精度は低いが思い切りがよい。やっとの思いでボールを奪ってもすぐに大男達に囲まれ、前線に出したボールはオフサイド。抜けたと思ったスルーパスも“ペナルティ・エリア外”が定位置のGKヤン・ヨングブルートが“足”で見事に捌く・・・今なら見慣れた光景も、当時はすべてが初めての体験であった。
 オランダ代表は、ウルグアイ、スウェーデン、ブルガリアとの1次リーグはスウェーデンには引き分けるも2勝1分6得点1失点(オウンゴール)の首位通過、2次リーグでその勢いは増しアルゼンチンに4-0、東ドイツに2-0、そして前大会王者ブラジルを2-0で粉砕し、日に日に高まる熱狂とともに決勝に駒を進めた。

 一方の西ドイツは、1966年イングランド大会準優勝、1970年メキシコ大会3位、地元で開催される1974年大会での優勝は悲願だった。そして2年前の1972年欧州選手権(現在のEURO)では、皇帝ベッケンバウアー、“爆撃機”ゲルト・ミュラーに、40~50m級のロングパスを次々に通し攻撃陣を自在に操った天才MFギュンター・ネッツアーを加え、今もドイツ史上最強と言われる圧倒的な攻撃力で優勝を飾り、国民の優勝への期待も高まる一方であった。

 しかし、本大会を前に西ドイツは苦悩していた。1973年にボルシアMGからスペインのレアル・マドリードに移籍したネッツアーはその後代表戦への参加が減り、自身のコンディションも落とし、シェーン監督は大会直前まで司令塔をネッツアーにするか“左足の芸術家”ウォルフガング・オベラートにするか結論が出せずにいた。ピッチの外でも大会のボーナス闘争で選手とドイツ協会は対立するなど、政治的な問題も抱えていた。

 そんな状態でスタートした大会、地元の利がありながら1次リーグから苦戦が続いた。弱いとみられていたチリ、オーストラリアに連勝し2次リーグへの進出こそ決めたが、その内容は期待を裏切るもので、続く第3戦、負けてはならない東西ドイツ“宿命の対決”を0-1で落とす。
 ゲーム後に“影の監督”ベッケンバウアーの “檄”が飛んだ。闘わない選手を名指しで激しく非難したという。しかし、チームはここで初めて一つの“闘う集団”に変わった。一部のメンバーを入れ替えて臨んだ2次リーグではユーゴスラビアに2-0、スウェーデンに4-2、ポーランドに2-1と苦しみながらも勝利をつなげ本当に泥臭く決勝にたどり着く。(ドイツのピッチは雨の影響で確かに泥んこだった。)

 しかし、クライフを軸にした派手で先進的なオランダ代表に比べ、ネッツアーを欠く西ドイツ代表はポジションン毎に配したスペシャリストの能力に依存し、後方から“リベロ”ベッケンバウアーが統率するという地味な従来型サッカー。2次リーグでのミュラーの異能復活(3ゲームで2得点3アシスト)という要因はあったが、進撃を支えたものは地元の声援と不屈の“ゲルマン魂”であった。当然のことながら、ドイツ人以外のサッカーファンの多くはオランダの優勝を確信していた。仕方がない。ドイツの地の利を考えても、オランダ代表はそれだけ破壊的だった。

 そして迎えた7月7日、決勝戦の会場はベッケンバウアーが所属するバイエルン・ミュンヘンのホーム、ミュンヘン・オリンピックスタジアム。いよいよ後世に語り継がれる西ドイツとオランダの決勝戦が始まる・・・

冒頭で「お待たせしました。」と言っておきながら、続きはまた次回へ。
そう、“皇帝の名言”はそう簡単に生まれない。

魂のフーリガン