フーリガン通信 -32ページ目

【ゲームコントロール】

31日、日本サッカーの聖地・国立で行われたゼロックス・スーパーカップは天皇杯準優勝の“J2”広島が、J1、天皇杯のダブル・クラウン(2冠)“J1”鹿島をPK戦で制し、初優勝を果たした。いくらシーズン・イン前の一発勝負とは言え、本来なら“大番狂わせ”の結果に対する厳しい評論がなされるはずであるが、ゲーム後の戦評の多くは、イエロー11枚、レッド3枚、PKやり直し3回(内2回はPK戦)と暴れまくった家本主審のレフェリングに関するものであった。


そのレフェリングそのものに対して、日本サッカー協会の松崎審判委員長は「ひとつひとつは大きく間違っていない」と家本氏を擁護しながら、一方で「十分に試合をコントロールできなかった。選手の信頼を得られなかった」と苦言を呈している。しかし、おかしな話ではないか。レフェリングが大きく間違っていないのに、どうして試合をコントロールできず、選手の信頼を得られなかったのだろうか?

答えは簡単。家本主審がこの試合をコントロールできなかった理由は、彼自身が“ゲームをコントロールしようとした”からである。ゲームがコントロールできなかったと非難されているわけであるから、彼の意志自体は決して間違ってはいないし、むしろそうあるべきだったのであるが、残念ながらこの日の家本氏はその自意識が強すぎた。その結果が前半12分に早くも2枚目のイエローでの鹿島の岩政退場につながる。早い段階でゲームを抑えようとした意図であったのだろうが、納得の行かない不当な処罰が、主審への不信感を生み、ゲームは意図した方向と逆の向きに舵を切った。切った舵を戻すため、家本氏はまたさらに逆方向に強引に舵を切る。こうなると誰もその舵取りを信用できなくなる。このようにゲームコントロールしようという意識が強すぎて、家本氏は自分自身をコントロールできなくなったのである。


主審だけでなく、何かを決定する立場の人間には毅然とした態度が必要である。オドオドしたり優柔不断な態度での意思決定であれば、その決定に従う立場の人間は不安になる。安心してその人に着いて行けないのである。しかし、責任ある立場にあるというだけで裏付けもなく毅然と振舞うのもいけない。信頼されない人間による一方的な断定や、納得の行かない意思決定には、周囲の人間は異を唱え、嫌悪や反発が起こる。では意思決定者はどうすれば良いのか。ここで重要なのがバランスである。場を読んだ臨機応変の対応が出来るかどうかなのだ。相手を見て、時に毅然に、時に穏やかに、時にすばやく、時にゆっくりと。そして必要な説明責任は果たし、相手を納得させなければならない。自分の意志に従わない相手に一方的にカードを切ることで、その場を強引に仕切ることが出来ても、そこに不信感が生まれれば、求心力は失われるのである。


欧州でビッグゲームを仕切る主審達を見ているとあることに気付く。それは彼らの表情が実に豊かだということである。名審判の誉れが高い、かのピエール・ルイジ・コリーナ氏などは、ハゲ・眉なし・ギョロ目で黙っていたら結構怖い顔立ちであるが、その表情は喜怒哀楽の起伏が豊かで、時に厳しい判定を下しても一方で選手をなだめ、そのゲームは荒れることが少なかった。欧米人だからではない。日本人の審判だって86年、90年のW杯で笛を吹いた(主審を務めた)高田静夫氏、そして02年、06年、特にドイツでは1つの大会で主審3回、その3回目は地元ドイツ対ポルトガルの3位決定戦という重要な笛を吹いた上川徹氏なども表情はとても豊かで、その歯切れの良いジャッジも大いに賞賛された。


彼らのような優秀と言われる主審の表情は、有名なオーケストラ指揮者に通じるところがある。彼らもまた、時に激しく、時に穏やかに、その豊かな表情が全ての楽器の美しいハーモニーを創造する。指揮者は自分で楽器をプレイしない。そしてサッカーの主審もまた自分はプレイしない。しかし、共に目の前のプレイヤー達に安心して気持ちよくプレイさせる“プロ”である。目立ちすぎず、それでいて存在感があり、流れを抑える場面、盛り上げる場面、その全てを自らのタクト(笛)で仕切り、1つの戯曲(ゲーム)を演出する。指揮者がいなければ、それぞれの楽器の音色は調和することなく、審判がいなければ、サッカーのゲームも秩序を失うのである。


良いオーケストラでは奏者に信頼される優秀な指揮者がタクトを振るのと同様、サッカーも重要なゲームではプレイヤーに信頼される優秀な審判が笛を吹くべきである。しかし、聞くところによると家本氏は06、判定に一貫性がないとして日本サッカー協会審判委員会から1カ月間の研修を課されるという処分を受け、Jリーグ、JFL含めすべての試合から外されていたという。今回主審を任された背景には「悪いイメージを払拭するための試金石」という見方もあったそうだ。ゲームは荒れるべくして荒れたという側面もあるのだ。


そうだとすると、今回のゲームが荒れた責任は、そういう“審判人事”を行った日本サッカー協会にも存在する。しかし、当の日本サッカー協会の川淵三郎会長は「ゲームコントロールが悪かった。問題があったと言わざるを得ない」と語り、Jリーグチェアマンも務める鬼武健二副会長は「審判は反省しているはず。リーグ開幕までに準備をやり直してほしい。」と、責任を家本氏1人に押し付け、まったくの他人事といった態度。 この“オーケストラのプロデューサー”の無責任体質が直らない限り、日本のサッカーは“東アジア・レベル”から脱することは出来ない。そして“あなたたち”にも、東アジア選手権の日本-中国戦で笛を吹いた北朝鮮の主審を非難する資格はない。


魂のフーリガン

【球際の強さの正体】

球際の弱さ・・・東アジア選手権での日本に対する批判で数多く目にした言葉であり、かくいう私も、遠藤と中村に対して指摘したポイントであった。球際というからには、ボールはどちらにも転がりうる状態のはずであるが、何故かそのボールに日本選手の足は届かなかった。韓国選手の足は届いてくるのに。ヘディングの競り合いも“球際の争い”ではあるが、今回は相手との接触の中での足元のボールの争奪に焦点を絞って私の見解を説明してみよう。


日韓戦で感じた点は2つある。1つは日本選手がボールを奪いに行く時の身体の寄せの遅さ、そしてもう1つはその際の甘さである。日本の選手は相手がボールを持った時にすぐに飛び込まない。組織で守ることを意識しているのか、まず彼らがすることは、近くにいる選手がとにかく相手の進路を抑えるようにプレスをかけにゆく。進路を遮られた韓国選手はボールと日本選手の間に身体を置き、ボールをキープする。そして日本選手は、援軍が来るまで相手を止めはするが、迂闊に足は出さない。確かに自軍の態勢が整わないうちに飛び込んで、抜かれることは相手に数的優位と攻撃のコースを空けることになり、そこは状況判断が大事である。従って待つことが一概に悪いとは言えない。しかし、本当の問題は次である。


日本は援軍が来て、複数で相手を囲んだ時に初めて身体を寄せて足を出してゆくのだが、この時に身体を深く当てに行かないで、複数の方向から足でボールを取りに行くのだ。これでボールを取れれば実にスマートなのだが、実際は身体を当てられない上足元の技術のしっかりした韓国選手は態勢を崩すことなく、複数の日本選手を引きずってそのままボールをキープし続ける。確かに相手のプレーを遅らせた間に味方の守備は整うのだが、韓国側もサポートの選手が近くに寄ってきて選択肢が増える。反転してパスを出す、味方を囮にしてDFの間を突破する。日本に比べ展開が大きかった韓国ではFWの2人は孤立することが多かったが、彼らはこのようにして、1人でもなかなかボールを失わなかった。


では韓国選手の守備はどうであったか。近くにいる選手がプレスに行くのは同じである。そして危険な時は相手を抑えながら援軍を待つ。しかし、彼らはただ待ってはいなかった。抜かれてはいけないコース、パスを出されてはいけないコースを切りながら、彼らは積極的に身体を当てに来た。素早く身体を寄せ、1対1で勝負に来るのだ。しかも後ろから巧妙にガツンと。体が小さく、重心が高い日本選手はバランスを崩しながらのキープとなり、更に激しく身体を寄せられてボールに触られたり、不十分な態勢から近くの味方への「責任逃れの」パスを出す。そのパスは大抵横か後ろへ。しかも自身が潰されながらのパスでは、「パス&ゴー」の動きができず、自身は次の「展開」のオプションにはなり得ない。また、明らかにアピールをしながら大げさに倒れるため、主審もなかなかファールは取らない。今回の日本はそのように、中盤のパスの起点でボールを失うことが多かった。違うだろうか。


日本で韓国の選手と同じような守備が出来ていたのは中澤鈴木である。彼らは大きな身体で巧みにスクリーニングをする相手に積極的に身体を当てていった。時には相手を引き倒しながらでも強引に足を出していった。自ら先に、積極的に1対1の闘いを仕掛けていったのである。そして彼らは自分がボールを持つ時も、韓国選手から同様のチャージを受けながらも、身体を使い、重心を低くして、ハンズオフで執拗に食い下がる背後の相手を引き剥がしながら持ちこたえ、容易にボールを失わなかった。そして、彼らが倒れる時、主審はファールの笛を吹いた。彼らはピッチでそうして「闘った」のである。この試合で彼らが光ったのは、そういうプレーを90分を通して行っていたからである。


今回の岡田ジャパンは「戦う気持ちが足りない」、「気迫がない」と言われた。しかし、「戦う気持ち」や「気迫」とは、「やられたらやり返す」、「乱闘も辞さない」ということではない。サッカーは競技そのものが既に格闘技なのだ。選手は「戦う気持ち」も「気迫」も十分に持っている。少なくとも私はそう信じている。だから、必要なのは、相手より早い第一歩を出すことと、行く時は身体全体で当たってゆくという勇気を“見せる”と言うこと、“表現する”ということなのである。難しいことではないはずだ。22番の男の背中を見れば、自分達がどうすべきかおのずと見えてくる。


さあ、次はW杯予選のバーレーン戦。今度こそピッチの至る所で、「中澤達」、「鈴木達」の姿が見られることを期待している。


魂のフーリガン


【新たな発見】

2008年東アジア選手権、日本の最後の相手は“宿敵”韓国。共にそこまで1勝1分得失点差+1、総得点が少ない日本が優勝するためには勝利が必要であったが結果は1-1。またしても韓国というアジアの壁日本は超えることはできなかった。


岡田監督は「タイトルを取りにいった」というコメントを残している。もちろん目の前の戦い、しかもアジアでの戦いで「勝ちに来た」と言わない指揮官には監督の資格はないから、私はそのコメントを鵜呑みしていないし、マスコミのように「初優勝」に拘ってもいなかった。W杯予選突破に照準を絞り、欧州組を召集しない上に、コンディションに不安のある国内組の主力も不参加となった今大会の位置付けは、まず普段は出場機会が限られる1.5~2軍のメンバーに実戦経験を積ませ、その中で新たな選択肢を探ること、そして今後の代表選考で当落線上に位置するであろう彼らの力量を実戦の中で見極めることであったはずだ。私はそんな観点から、この日韓戦を観ていた。


結果はどうであったか。まず、新しい選手達が“宿敵”と戦えたことは良かっただろう。韓国は相手が日本である場合、その気迫と厳しさはレベルが上がる。しかも、反日感情が強い重慶のスタジアムは満員ではなかったが、明らかに韓国側の応援に回っていたので、アウェイの雰囲気も味わえた。しかし、雰囲気以外にこの対戦から何が得られたのか、どんな選択肢が見つかったのか。残念ながらなかったと言わざるを得ない。一つも。


新たな発見がなかったとは言わない。しかし、それらは残念ながらネガティブな点ばかり。個々の選手で言えば「橋本は攻撃で使えない」、「加地は左SBでは使えない」、「山瀬はシャドーストライカーの能力はみせたが、攻撃を作れない」、「内田は攻撃も守備も中途半端」、「今野はポジショニングが悪い」、「田代は潰れ役はできるが、楔の役には立たない(ターゲット、繋ぎ、キープのいずれもできない)」、「遠藤、中村は予想以上に球際に弱い」・・・要するに期待通りに頑張ったのは川口、中澤、鈴木の3人だけということになる。交代選手は安田だけ攻撃で存在感があったが、他の選手はプレー時間が短すぎて、まったく何のために出てきたのか判らない。ということは「岡田監督は交代のタイミングが遅すぎる」ということになる。さすがに私はこの期に及んで“監督を変えろ”とは言わないが、試されたテストは全てが失敗、今回の選手の多くも当落線上から落ちることはあっても、抜け出すことは難しいだろう。


もう一つ大きな発見がある。これは誰の目にも明らかだろう。大会中もけが人が続出したことから、岡田監督も思うような采配がふるえなかったという事情はあったが、それ以前に、チームとしてもオシムのときにあれだけ見られた“3人目の動き”、“追い越す動き”がなくなったのである。そのために、ボールを持っても韓国にプレスを掛けられるとパスは横と後ろに向けてのものばかり。攻めが起点でノッキングを起こすから、韓国のDFはその間に態勢を整える。そして数人に囲まれて、激しいチェックを受けてボールは韓国に奪われる。岡田監督が掲げた「接近、展開、連続」で表現すれば、“接近”からの“展開”が「とりあえず預ける」というものであれば、その先の“連続”は存在しない。岡田監督の試合後の怒りは優勝できなかったことに対するものではなく、自らのサッカーが表現できなかったことに対する苛立ちではなかっただろうか。


個々の選手が未熟であることはわかっていた。そういう選手を使わざるをえなかったという事情も理解する。しかし、「韓国に勝てない」という結果は同じでも、少なくともオシムのときに感じた“ワクワク感”、断片的にでも感じられた“日本サッカーの意志”を、遂に今回の岡田のチームからは感じることが出来なかった。私が“一番見つけたくなかった発見”である。


大きなジャンプをするためには、一度膝を深く曲げて、力を貯めなければならない。その力を反動にして、大ジャンプが可能になるのだ。今回の“ネガティブな発見”が、今後の日本代表の飛躍の前に一度膝を曲げただけなのだと思いたい。せめてそうとでも思わない限り、やってられないから・・・


魂のフーリガン