フーリガン通信 -31ページ目

【相太の頭】

途中経過をネットで見たときは前半で3-1のリード。今期勝ちどころか1点も取れていない浦和が、しかも3点はエジミウソンのハットトリック。代表抜きのナビスコ杯であっても、相手はJ1復帰組の京都。これでやっと一息つけるかと思っていたが、何と結果は3-3。浦和の今期の苦戦を予想した私であるが、ここまで重症とは。坪井も代表に復帰した方が良かったかも知れない・・・

まあ、浦和の話を続けてもズルズル行ってしまいそうなので、今回は今年本番の北京五輪を迎える反町ジャパンの話である。

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321日に発表された327U-23日本代表のアンゴラ戦のメンバーから平山相太(FC東京)が外れた。今回トップとして呼ばれたのはJ2山形の長身FW豊田。本来なら最終予選終盤でユース世代から抜擢されて活躍し、2月のU-23米国遠征でハットトリックを上げるなど好調だった“デカモリシ”森島康仁が一番手であろうが、彼は帰国後発症した腰痛に苦しんでいる。ならば米国遠征でも得点し、Jでも得点している平山が選ばれるのが当然なのに・・・

五輪世代で一番ネームバリューがある“平山”のまさかの落選(とは言ってもこのゲームだけなのだが)に、記者会見の会場も色めき立ち、すぐに記者から質問が飛んだ。そしてこの想定内の質問に対し、反町監督は「お望み通りの質問でありがとうございます。」と笑みを浮かべた上で、次のように答えた。

「今シーズンに入ってから、1枚も2枚もカードが出てきた中で、相太に関して言うと、まだ1枚むけていないかなというところから判断しました。チームの立ち上げから、かなり相太を呼んでチームに貢献してもらったのですが、実力社会の部分も当然ありますので。ここからは、ぜひ、ガムシャラになって、再び(代表に)呼ばれる状態になってほしいと思います。」

今回のアンゴラはA代表であり、反町監督も「北京で戦えるメンバーを見つけ出すため」のゲームと位置づけている。“闘えるメンバー”が「いないから探す」のか「既にいるけど他にも探す」かによってその意味も違うものとなるが、更なるアピールが必要な立場にあり、怪我もしていない平山にその機会が与えられず、代わりに呼ばれたのは再招集のJ2選手・・・。普通の選手なら、そんな状況でこのコメントを聞いてどう反応するだろう。

しかし、当の平山はマスコミにこう答えたという。

「ひと皮むければチャンスがあるので、コツコツと頑張りたい。」


そういうことじゃないだろ!! 反町監督はお前に奮起を期待したのだ。いまひとつパッとしないお前に“警鐘”を鳴らしたのだ。「お前にもプライドがあるだろ! 悔しかったらJで結果を出してみろ!!」と、彼はそう言っているのだ。だいたい「1枚も2枚も新たなカード」が出てきた中で、自分が「まだまだ」と指摘されているのに、言われたまま「一皮むければチャンスがある」と考えること自体が甘いだろう。最低でも“二皮”一気に、それも「剥ける」のを待つのではなく、自分で強引に「剥かなければならない」のだ。さらにこの期に及んで「コツコツ」などと言っている場合か! 「すぐに」結果を出さなければ、後はないのだ。反町は「ガムシャラに」と言っているではないか! あのラモス御大なら間違いなくマスコミに当り散らして、こう吐き捨てるに違いない。 「ふざけるなっ! 冗談じゃないよ!!」 そして次のJリーグ・マッチで誰にも文句を言わせない圧倒的な存在感を示し、自分を選ばなかった監督に「見たか! 」という明確なメッセージを叩き返すだろう。


平山相太の能力は誰もが認めるところであるが、この男、ヘディングは強いが頭は弱い。超高校級CFとして名を馳せた国見高校から卒業する時は、Jリーグや海外クラブからの多数の誘いを蹴って「将来は指導者になりたい」と言って筑波大学に進んだ。しかし、その高い志があるなら初志貫徹すべきであるのに、結局中途で大学を自主退学してオランダのヘラクレスでプロとなる。


そうは言ってもJリーガーを経ずして移籍金なしに海外でプロになるという新たな道を開拓し、最初のシーズンはデビュー戦での2得点を含め8得点と活躍。順風満帆かと思いきや、2年目は1試合出場時点で、クラブの会長が元気のない平山に奮起を促すために「やる気がないなら出ていってもいい」と言ったところ、彼はそのまま戦力外通告と受け止め退団。実はオランダの生活になじめず、日本が恋しくて仕方がなかった平山にとっては渡りに船で、失意どころか笑顔で帰国したのだ。そして「オランダでは言葉がわからず、自分の主張ができなかった。」との言い訳・・・だったらオランダ語を勉強しろ!! と藤田俊哉や小野伸二が怒ったかどうかは定かではないが、少なくとも私は大いに怒った。「指導者になる夢」を断ち切ってオランダに行った覚悟は所詮そんなものだったのだ。


そんな平山でも帰国後は多くのJクラブからの勧誘を受け、結局本人曰く「楽しそうだから」という理由でFC東京に入団。その上あろうことか「大学に復学したい」と言い出した。当然の事ながらこの“二足のわらじ”は実現しないが、自主退学しておきながら、プロでありながらのあまりに甘い考えには非難が集中した。しかし、それでも推定年俸5000万円。まったく“子供”を甘やかすにも程がある。その分活躍してくれればまだ許せるが、結局は反町監督の「一皮剥けない」という評価の通りである。


それでも、平山は北京五輪代表の最終メンバーに選ばれるだろう。こんな平山に期待をせざるを得ないのが日本代表の現状なのだ・・・もう、この際ラモスでも柱谷哲二でもいい。平山の頭に“強烈な蹴り”を一発入れてくれ!! 俺が許す!! それであのボンクラが覚醒してくれればしめたものだ。もっとも、私はあまり期待していないが・・・


魂のフーリガン

【浦和の裏は・・・追伸】

オジェック監督の解任でコーチから昇格したエンゲルス新監督であったが、初采配となった20日のナビスコ杯・神戸戦も0-1で破れた。神戸の1点はゲーム開始後わずか2分。しかも浦和がもっとも警戒していたレアンドロによるものである。これで開幕3連敗。浦和の大勢のサポーターは試合後、ホーム側のゴール裏に残り「フロント、GMの無能にはあきれるばかり。監督を切ってそれでOKか?」という横断幕を掲げ抗議を行った。どうやら世界基準となりつつあるレッズのサポーターは私と同じ問題意識をもってくれたようでホッとしている。しかし、本来こういう批判はマスコミからあって然るべき。改めて日本のサッカーメディアの質の向上を願いたい。

ところで、オジェックの後任監督のゲルト・エンゲルスはどうかって?ナビスコ杯の初采配も見ていない私に多くを語る資格はないが、これまでに知っている事実は伝えよう。

エンゲルスは今は無き「横浜フリューゲルス」を率いて1998年天皇杯を制した。しかし、皆様もご記憶になると思うが、このとき既にフリューゲルスの“消滅”が決定しており、決勝戦は明日の無い最後の闘いであった。魂のこもった闘いは今も私の魂に刻まれている。優勝したのにチームがなくなるとはエンゲルス自身の悲劇でもあったが、そこは“優勝監督”、1999年にはジェフユナイテッド市原の監督に納まる。しかし、悲しいかな2部降格を毎年争うクラブは序盤から低迷し、エンゲルスはファーストステージ限りで解任されてしまう。

解任したのは現在フランス2部のグルノーブルでGMをやっている祖母井(うばがい)秀隆氏。あのオシムをジェフの監督に招聘した男である。当時はジェフのGMになったばかりであったが、彼はエンゲルスを「めがね違い」であったと述懐している。エンゲルスは選手のモチベーションを高めるために予定外の休みを増やした。選手は喜んだが、練習の質は低下した。また、当時高校生であった阿部勇樹の試験の時間を優先して練習時間を変更し、エンゲルスはその“理由”を選手達に伝えた。阿部への気遣いは他の選手の不満を生んだ。祖母井氏は“厳しさ”のない彼の指導に、プロの監督としての能力に疑問を感じたという。そして、実際にクラブはリーグで低迷した。祖母井氏の不安は的中したわけである。

とはいってもジェフを解任された後、2000年には京都パープルサンガのコーチとなり、加茂周監督の途中解任を受け監督に昇格(何か岡田代表監督みたい)。その年はJ2に降格したが、翌年はJ2優勝、そしてJ1に復帰した2002年には朴智星、松井等の若い才能を活かし再び天皇杯を制する。しかし、翌2003年には開幕10ゲームを経過した時点で成績不振を理由に解任。浦和に加わったのは2004年のことである。

浮き沈みこそあれJリーグでそれだけの実績がありながら、エンゲルスは2人の監督の下で長くヘッドコーチを務めていた。1人はドイツ代表76試合で浦和でもプレーしたギド・ブッフバルト、もう1人は現役の実績はないが海外での代表監督やFIFA技術委員長といった派手な経歴を持つホルガー・オジェックである。ドイツ代表暦も海外での監督の実績もないエンゲルスがビッグな2人の下となるのはいかにも“肩書きに弱い日本”のクラブらしいが、そんな環境下ではこの日本語の上手なドイツ人は、ドイツ人監督と日本人の間のパイプ役として大いに機能する。そこにきてジェフでは裏目に出た選手に対する“温かい”性格である。当然のことながら選手側からの受けは良い。だから今回の電撃解任騒ぎの中にあって彼の監督昇格という事実は選手達から大いに歓迎されたし、藤口社長も「情熱と温かさでチームをまとめられる。選手のよりどころは今、ゲルトという感じ」と信頼しきっているのだ。

ではエンゲルス監督の下で“強い浦和”は復活するのか?私の答えはNOである。オジェックからの開放とエンゲルス昇格により選手のモチベーションは高まり、一時的に元気は出るだろう。結果も出るだろう。しかし、今回の騒動で多くの選手達は敗戦の理由を監督の指導力と采配に求めた。もちろん「戦うのは自分達だ」と言った高原を始め、何人かの選手はプロであるが、まだまだアマチュアの考え方をする選手がいる。主力選手の中でも。プライドは必要であるが、実力と資格を持たない奴のプライドはタチが悪い。そして“温かい”エンゲルスは、主にそんな甘い選手達に支持されているのだ。クラブの基盤は磐石とは言えない。

私は開幕の連敗はオジェックの責任だけではないと思っている。企業の紐が付いた“サラリーマン”のフロントに “自律性”のない選手達。彼らにも問題はあったはずだ。そして、今回そこに優秀な“コーチ”であるエンゲルスが加わっても、劇的な変化は期待できないのではないだろうか。気分やモチベーションだけでは勝てないのが“プロ”の世界。逆にそれで勝てるのなら、Jリーグのレベルがそんなものだということだ。

浦和が嫌いなわけではない。彼らが勝たなければJリーグは盛り上がらないし、その復活を期待している。その鍵が新監督であるエンゲルスであることは確かだ。それでも私は藤口社長や中村GMの言葉よりも、祖母井氏の評価を信じる。いくら過去のエンゲルスに対する評価であっても。なぜなら彼が“プロ”のGMだからである。

魂のフーリガン 

【浦和の裏は・・・】

今更話題にするのも恥ずかしいが、3月16日に浦和レッズが、Jリーグ開幕後わずか2試合を経過した時点でホルガー・オジェック監督の“電撃解任”を発表した。2006年に横浜FCが開幕戦後に監督を解任したので残念ながら新記録ではないが、横浜FCは当時J2にくらべ浦和は昨年のアジアチャンピオンで代表選手を多く抱える人気チーム、やはり“電撃”的な出来事と言えよう。

直接の原因は8日横浜との開幕戦、15日名古屋とのホーム初戦の連敗とそれら2試合におけるオジェック監督の采配であるが、決断の背後には監督と選手の間の確執があったという。浦和の藤口光紀社長は会見で「選手と監督の信頼関係が崩れていると感じた。チームが一つになっていない。重苦しい状況を打開するには監督交代が一番いい方法」と言い切った。そしてこの“監督批判”に終始した電撃発表は、監督の采配に対する主力選手たちの不満の声を添えて、「全てはオジェック監督が悪い」というクリアなメッセージとして日本中に伝播した。

しかし、私はこの発表を聞いて大きな違和感を感じた。それは「オジェックを監督にしたのは誰?」、という点である。オジェック1人を悪者にして、その監督を選択したフロントの責任が一切語られていないのである。皆様はおかしいとは思わないか。

15日の晩に緊急会談を開催しオジェック解任を決めたのは代表取締役社長・藤口光紀とGM中村修三の2人である。中村GMは会見で「2試合というよりも1年間を見て、監督にこちらの要求を伝えた中でこの状況。」と説明したが、ずっと見てきて何故この最悪のタイミングなのか?今頃になってやっと要求が伝わらないと判ったのか?昨年アジアチャンピオンにこそなったが、リーグ終盤には失速しリーグ優勝を逃し、小野、ワシントンとの衝突の結果、浦和を愛する2つの偉大な魂を失った。それでもオジェック監督の続投を決めたのは、他ならぬあなたたちである。「過去を振り返ってもしょうがないし、早く決断した方が良いという判断になった。」という説明もあったが、そこでいう「過去」とは自分達が誤った決断をした事実であり、もっと「早く決断した方が良い」のはあなた方自身だったはずである。

サッカーにおいて最も責任があるのは監督であるが、その監督を選び、適性を判断するのはGMの仕事である。当然GMの判断を承認するのが社長である。従って、そんな問題のある監督の続投を決定した社長とGMの責任は本来極めて重いはずなのである。しかし、彼ら二人は実に淡々としており、周囲からも彼らを糾弾する姿勢は見られない。何故か?それは彼らが浦和レッズの前身である日本サッカーリーグの「三菱重工業サッカー部」の生え抜きだからである。  

藤口光紀は慶応大学時代に既に日本代表に選ばれたウインガーで、杉山隆一、高田和美といった三菱が誇った正統ウインガーの系譜を継ぐプリンスとして活躍した。私と同じ年齢の中村修三は藤口より世代は遅れるが、小兵ながら疲れを知らない豊富な運動量で三菱の中盤を支えたダイナモであった。共に外見どおり派手ではないが、玄人受けする選手であったと言えよう。日本サッカーがアマチュア時代のこともあり、結果的に2人は三菱一筋で現役を過ごし、引退後は藤口は慶応大学、中村は青山学院大学と母校サッカー部の監督になっている。


一方2人が所属していた「三菱重工業サッカー部」は1990年に子会社の三菱自動車工業 にチームを移管して「三菱自動車工業サッカー部」へと名称を変更、1992年に「株式会社 三菱自動車フットボールクラブ」が発足し、同社は1993年のJリーグにクラブ参加する。1996年にクラブ名が現在の「浦和レッドダイヤモンズ」となるが、その法人名は「株式会社 三菱自動車フットボールクラブ」なのである。筆頭株主は三菱自動車工業株式会社(50.65%保有)、同社からは最も多くの役員が派遣されている。要するに会社としてのレッズは浦和市民のものではなく、“三菱のもの”なのだ。

Jリーグはその前身がJSL、即ち社名の宣伝を目的とした「企業スポーツ」だった。Jリーグ発足時に参加した各クラブの母体もその殆どがそれら企業サッカー部であり、各企業の狙いはやはり企業の宣伝であった。当初、読売のナベツネが「読売ヴェルディ」から「川崎ヴェルディ」への名称変更に最後まで反対したのを覚えているだろう。しかし、Jリーグも当初はバブルで景気は良かったが、選手の年棒高騰が負担となり、結局は毎年大株主であるスポンサー企業の“広告宣伝費”で赤字を補填しなければならなかった。そしてこの構造は、殆どのクラブで現在も続いている。その中で日本一の人気クラブとなった浦和はさいたま市や地元企業への第三者割り当て増資によりクラブを「浦和のもの」にすることを望んでいるのだが、皮肉なもので、今度は経営が安定し広告価値が大きい浦和レッズを三菱側が手放そうとしない。

そこで藤口社長、中村GMである。会社の経営の最高責任者は社長であり、クラブ運営現場の最高責任者はGMである。筆頭株主である三菱はその重要なポジションに「三菱OB」を配置しているのだ。つまり、筆頭株主である三菱にとってもっとも都合が良い彼らの立場は絶対に守るのだ。クラブの成績が良いに越したことはないが、株主としては三菱自動車としての企業メリットの実現の方が重要であり、そのためには監督よりも三菱に忠実な経営陣の方がはるかに重要なのである。藤口社長や中村GMが他人事のようにオジェック監督解任を発表できるのもそんな背景がある。そのことは「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」の事業内容を見ればよくわかる。

1.サッカー試合の興行及びサッカーチームの運営

2.三菱自動車を始めとする三菱会社の広報及びその製品の宣伝

3.スポーツ教室及びスポーツイベントの企画、管理、運営

4.キャラクター及びグッズ商品の企画、販売

15年目を迎えたJリーグ。平均入場者数世界第6位。全国33クラブ体制。その急激な発展は賞賛に値する。しかし、この浦和レッズの裏の(本当の)事業内容は、Jリーグが企業スポーツの域から脱していないことを表している。日本一、そしてアジア一になり、その成功が持てはやされるクラブの実態がこんなものなのである。いくら見栄えは良くても、中身が伴わなければ何事もその衰退は早い。選手はプロになった。後はフロントのプロ化を急いで欲しい。日本サッカーを愛する者としての“魂の提言”である。

魂のフーリガン