【球際の強さの正体】 | フーリガン通信

【球際の強さの正体】

球際の弱さ・・・東アジア選手権での日本に対する批判で数多く目にした言葉であり、かくいう私も、遠藤と中村に対して指摘したポイントであった。球際というからには、ボールはどちらにも転がりうる状態のはずであるが、何故かそのボールに日本選手の足は届かなかった。韓国選手の足は届いてくるのに。ヘディングの競り合いも“球際の争い”ではあるが、今回は相手との接触の中での足元のボールの争奪に焦点を絞って私の見解を説明してみよう。


日韓戦で感じた点は2つある。1つは日本選手がボールを奪いに行く時の身体の寄せの遅さ、そしてもう1つはその際の甘さである。日本の選手は相手がボールを持った時にすぐに飛び込まない。組織で守ることを意識しているのか、まず彼らがすることは、近くにいる選手がとにかく相手の進路を抑えるようにプレスをかけにゆく。進路を遮られた韓国選手はボールと日本選手の間に身体を置き、ボールをキープする。そして日本選手は、援軍が来るまで相手を止めはするが、迂闊に足は出さない。確かに自軍の態勢が整わないうちに飛び込んで、抜かれることは相手に数的優位と攻撃のコースを空けることになり、そこは状況判断が大事である。従って待つことが一概に悪いとは言えない。しかし、本当の問題は次である。


日本は援軍が来て、複数で相手を囲んだ時に初めて身体を寄せて足を出してゆくのだが、この時に身体を深く当てに行かないで、複数の方向から足でボールを取りに行くのだ。これでボールを取れれば実にスマートなのだが、実際は身体を当てられない上足元の技術のしっかりした韓国選手は態勢を崩すことなく、複数の日本選手を引きずってそのままボールをキープし続ける。確かに相手のプレーを遅らせた間に味方の守備は整うのだが、韓国側もサポートの選手が近くに寄ってきて選択肢が増える。反転してパスを出す、味方を囮にしてDFの間を突破する。日本に比べ展開が大きかった韓国ではFWの2人は孤立することが多かったが、彼らはこのようにして、1人でもなかなかボールを失わなかった。


では韓国選手の守備はどうであったか。近くにいる選手がプレスに行くのは同じである。そして危険な時は相手を抑えながら援軍を待つ。しかし、彼らはただ待ってはいなかった。抜かれてはいけないコース、パスを出されてはいけないコースを切りながら、彼らは積極的に身体を当てに来た。素早く身体を寄せ、1対1で勝負に来るのだ。しかも後ろから巧妙にガツンと。体が小さく、重心が高い日本選手はバランスを崩しながらのキープとなり、更に激しく身体を寄せられてボールに触られたり、不十分な態勢から近くの味方への「責任逃れの」パスを出す。そのパスは大抵横か後ろへ。しかも自身が潰されながらのパスでは、「パス&ゴー」の動きができず、自身は次の「展開」のオプションにはなり得ない。また、明らかにアピールをしながら大げさに倒れるため、主審もなかなかファールは取らない。今回の日本はそのように、中盤のパスの起点でボールを失うことが多かった。違うだろうか。


日本で韓国の選手と同じような守備が出来ていたのは中澤鈴木である。彼らは大きな身体で巧みにスクリーニングをする相手に積極的に身体を当てていった。時には相手を引き倒しながらでも強引に足を出していった。自ら先に、積極的に1対1の闘いを仕掛けていったのである。そして彼らは自分がボールを持つ時も、韓国選手から同様のチャージを受けながらも、身体を使い、重心を低くして、ハンズオフで執拗に食い下がる背後の相手を引き剥がしながら持ちこたえ、容易にボールを失わなかった。そして、彼らが倒れる時、主審はファールの笛を吹いた。彼らはピッチでそうして「闘った」のである。この試合で彼らが光ったのは、そういうプレーを90分を通して行っていたからである。


今回の岡田ジャパンは「戦う気持ちが足りない」、「気迫がない」と言われた。しかし、「戦う気持ち」や「気迫」とは、「やられたらやり返す」、「乱闘も辞さない」ということではない。サッカーは競技そのものが既に格闘技なのだ。選手は「戦う気持ち」も「気迫」も十分に持っている。少なくとも私はそう信じている。だから、必要なのは、相手より早い第一歩を出すことと、行く時は身体全体で当たってゆくという勇気を“見せる”と言うこと、“表現する”ということなのである。難しいことではないはずだ。22番の男の背中を見れば、自分達がどうすべきかおのずと見えてくる。


さあ、次はW杯予選のバーレーン戦。今度こそピッチの至る所で、「中澤達」、「鈴木達」の姿が見られることを期待している。


魂のフーリガン