【ゲームコントロール】 | フーリガン通信

【ゲームコントロール】

31日、日本サッカーの聖地・国立で行われたゼロックス・スーパーカップは天皇杯準優勝の“J2”広島が、J1、天皇杯のダブル・クラウン(2冠)“J1”鹿島をPK戦で制し、初優勝を果たした。いくらシーズン・イン前の一発勝負とは言え、本来なら“大番狂わせ”の結果に対する厳しい評論がなされるはずであるが、ゲーム後の戦評の多くは、イエロー11枚、レッド3枚、PKやり直し3回(内2回はPK戦)と暴れまくった家本主審のレフェリングに関するものであった。


そのレフェリングそのものに対して、日本サッカー協会の松崎審判委員長は「ひとつひとつは大きく間違っていない」と家本氏を擁護しながら、一方で「十分に試合をコントロールできなかった。選手の信頼を得られなかった」と苦言を呈している。しかし、おかしな話ではないか。レフェリングが大きく間違っていないのに、どうして試合をコントロールできず、選手の信頼を得られなかったのだろうか?

答えは簡単。家本主審がこの試合をコントロールできなかった理由は、彼自身が“ゲームをコントロールしようとした”からである。ゲームがコントロールできなかったと非難されているわけであるから、彼の意志自体は決して間違ってはいないし、むしろそうあるべきだったのであるが、残念ながらこの日の家本氏はその自意識が強すぎた。その結果が前半12分に早くも2枚目のイエローでの鹿島の岩政退場につながる。早い段階でゲームを抑えようとした意図であったのだろうが、納得の行かない不当な処罰が、主審への不信感を生み、ゲームは意図した方向と逆の向きに舵を切った。切った舵を戻すため、家本氏はまたさらに逆方向に強引に舵を切る。こうなると誰もその舵取りを信用できなくなる。このようにゲームコントロールしようという意識が強すぎて、家本氏は自分自身をコントロールできなくなったのである。


主審だけでなく、何かを決定する立場の人間には毅然とした態度が必要である。オドオドしたり優柔不断な態度での意思決定であれば、その決定に従う立場の人間は不安になる。安心してその人に着いて行けないのである。しかし、責任ある立場にあるというだけで裏付けもなく毅然と振舞うのもいけない。信頼されない人間による一方的な断定や、納得の行かない意思決定には、周囲の人間は異を唱え、嫌悪や反発が起こる。では意思決定者はどうすれば良いのか。ここで重要なのがバランスである。場を読んだ臨機応変の対応が出来るかどうかなのだ。相手を見て、時に毅然に、時に穏やかに、時にすばやく、時にゆっくりと。そして必要な説明責任は果たし、相手を納得させなければならない。自分の意志に従わない相手に一方的にカードを切ることで、その場を強引に仕切ることが出来ても、そこに不信感が生まれれば、求心力は失われるのである。


欧州でビッグゲームを仕切る主審達を見ているとあることに気付く。それは彼らの表情が実に豊かだということである。名審判の誉れが高い、かのピエール・ルイジ・コリーナ氏などは、ハゲ・眉なし・ギョロ目で黙っていたら結構怖い顔立ちであるが、その表情は喜怒哀楽の起伏が豊かで、時に厳しい判定を下しても一方で選手をなだめ、そのゲームは荒れることが少なかった。欧米人だからではない。日本人の審判だって86年、90年のW杯で笛を吹いた(主審を務めた)高田静夫氏、そして02年、06年、特にドイツでは1つの大会で主審3回、その3回目は地元ドイツ対ポルトガルの3位決定戦という重要な笛を吹いた上川徹氏なども表情はとても豊かで、その歯切れの良いジャッジも大いに賞賛された。


彼らのような優秀と言われる主審の表情は、有名なオーケストラ指揮者に通じるところがある。彼らもまた、時に激しく、時に穏やかに、その豊かな表情が全ての楽器の美しいハーモニーを創造する。指揮者は自分で楽器をプレイしない。そしてサッカーの主審もまた自分はプレイしない。しかし、共に目の前のプレイヤー達に安心して気持ちよくプレイさせる“プロ”である。目立ちすぎず、それでいて存在感があり、流れを抑える場面、盛り上げる場面、その全てを自らのタクト(笛)で仕切り、1つの戯曲(ゲーム)を演出する。指揮者がいなければ、それぞれの楽器の音色は調和することなく、審判がいなければ、サッカーのゲームも秩序を失うのである。


良いオーケストラでは奏者に信頼される優秀な指揮者がタクトを振るのと同様、サッカーも重要なゲームではプレイヤーに信頼される優秀な審判が笛を吹くべきである。しかし、聞くところによると家本氏は06、判定に一貫性がないとして日本サッカー協会審判委員会から1カ月間の研修を課されるという処分を受け、Jリーグ、JFL含めすべての試合から外されていたという。今回主審を任された背景には「悪いイメージを払拭するための試金石」という見方もあったそうだ。ゲームは荒れるべくして荒れたという側面もあるのだ。


そうだとすると、今回のゲームが荒れた責任は、そういう“審判人事”を行った日本サッカー協会にも存在する。しかし、当の日本サッカー協会の川淵三郎会長は「ゲームコントロールが悪かった。問題があったと言わざるを得ない」と語り、Jリーグチェアマンも務める鬼武健二副会長は「審判は反省しているはず。リーグ開幕までに準備をやり直してほしい。」と、責任を家本氏1人に押し付け、まったくの他人事といった態度。 この“オーケストラのプロデューサー”の無責任体質が直らない限り、日本のサッカーは“東アジア・レベル”から脱することは出来ない。そして“あなたたち”にも、東アジア選手権の日本-中国戦で笛を吹いた北朝鮮の主審を非難する資格はない。


魂のフーリガン