初心者同志 -60ページ目

御利益あるブログ。

毎年、新年を迎える瞬間には、近くのお寺に鐘をつきにいって、

境内にあがり、手を叩いて、

お賽銭と共に、今年一年の自分と、自分の手が届く範囲の、

わずかな人たちの健康を願うようにしている。


このとき、一緒にいく友人をいつも募るのだけど、

今年はなぜか、参加を希望する人たちが少なかった。


「あれ、今年はみんな、何か用事でもあるのかなあ」

と聞いたんだけど、みんな答えないし、なぜか私のことをチラチラ。


で、気が付いた。


そういえば、今年は、最後に私が風邪をひいてしまい、

家族にも大病をする人がでるなどで、

決して万全とはいえない一年だった。


うーん、願うときの念が、少し足りなかったかなぁ。


で、友人たちの意見によると、

「いや、やっぱり、どうせ願うなら、御利益のありそうな人と一緒にさ・・・・・・」


お、お前ら、それは、私では御利益が薄いってことかあっ!!


私はいつも、自分と自分以外の人の健康まで祈ってるんだぞっ!

まあ、それで、少し一人一人にいく御利益は減ってるかも知れないけどさぁ・・・・・・。


ん。そうか、そのせいで、私も今年の最後には御利益が薄れて、

風邪をひいたのかも知れないなあ。


で、結局、大体いつもの顔ぶれで行く事になったんだけど、

やっぱり私は、今年も同じことを願おうと思っている。


もとより、神頼みですべて解決したいとは思っていない。

これは、そうあればいいという新年の決意なのだ。

やっぱり、健康でいるには、なによりも本人の努力が必要なんだよ。


と、ようやく風邪が治りかけている私は、

それ以前の自分の不養生だった毎日を思って、しみじみ感じているのだった。



来年こそは健康に過ごせますように。

御利益の薄い私だけど、これを読んでくれた全ての皆さんの健康もお祈りしつつ、

今年のブログはこれでおしまい。


来年もよろしくお願いします。

自分自身。

1年が終わる前に、その年の大反省会をする人もいるだろうけど、

そんなとき、できたら今の自分を反省するだけじゃなく、

【始まり】の自分を見つめ直す作業もしてほしい。


ふとすると、見失いそうになる、自分の【始まり】の姿だ。



よく人は、失敗をした人に対して、「気にするな」と言う。

「また、次やるときに成功すればいいじゃないか」と言う。

「今の失敗は忘れろ」「前を向いていきなよ」、なんて言う。


はたして、本当にそれは正しいのだろうか。


私は、そう思わない。


失敗は、抱えるべきだと思う。

忘れるべきじゃないと思う。


もちろん、誰か別の人のせいにしたり、

自分の、日ごろの行いのせいにしたりするべきでもないと思う。


失敗以外でも、挫折したこと、やろうと思いながら結局できなかったこと、

やってみたけど、思うような結果が出なかったこと。


そういったものは、すべて忘れて、新しくやり直せば、

すべては済んでしまうのだろうか。


時々、「失敗をいつまでも、引きずってても仕方ないだろ」

なんて言う人がいるが、私はそれを聞くと、

それはあまりに物事を簡単にしすぎだよ、と思ってしまう。


はたして、失敗とは、忘れるべき過去、なんだろうか。

失敗を引きずる行為は、無駄なことでしかないのだろうか。


だってさ、たとえ失敗であろとも、それは自分自身が起こした行動の

結果なんだよ。

だったらそれは、自分自身の一部ということだ。

それを簡単に、いらないって捨て去ってしまうことが、本当にいいことだと言えるのだろうか。


自分の身に起きたことを、次々と過去にしていくってことは、

新しいことを、どんどん自分自身に貼り付けていくってことだ。


自分の中に最初からあったものの上に

どんどんと重ねていってしまったら、

本当の自分を必要としたとき、いったいどこから、それを見つけだせばいいのだろう。


私たちは、当たり前のようにやってくる毎日を、

当たり前のように過ごしていくうちに、今の自分に慣れていく。

あらゆることが、すべて【つづき】【終わり】だけで出来ているのだと、

思いかけてしまう。


でも、それは違うはずだ。

今の自分になったのだって、元の自分のどこかに、

そうなる理由の、何かがあったからなんだ。


人にとっての終わりが、【死】なのか、【人生に満足した瞬間】なのか、

【できることを全てやり尽くした時】なのか、それは私にはわからない。

私は、【終わり】には興味がない。

それは、他人が決めたらいいと思う。


でも、【始まり】だけは譲れないのだ。

たとえそれが、記憶しておくのも辛いような失敗であろうとも、

私がしたことの一部であるなら、私はそれを抱えようと思う。


なぜなら、私には、私自身が必要だからだ。


あまりにも当たり前なことだから、私たちはそのことをついつい、

忘れてしまっているのかも知れない。


でも、もし、悩んだり、どうしたらいいのか、わからなくなるようなことがあったら、

試してみる価値はある思う。


本当に必要なのは、新しい時間でも、次のチャンスでもない。

自分自身なんだということを。


ただ、それも、時と場合によるってことを、忘れちゃいけないかも知れない。


「確かに偽装表示するように指示したけど、それだって自分自身を1番大切したからなんだっ!」

えーい、見苦しいっ!



現実世界ハンター。

子供のころは、いつも傷だらけだった。


周りの大人たちからは、君の遊び方はムチャクチャだなぁ、と

よく言われたのを、覚えている。


怪我を怖いと思ったことはなかった。

どんなことにも、手加減しないで一生懸命やらないと、

気がすまない子供だったのだ。


今は社会人になって、いくらかの責任を背負い、

毎日するべきことも少なからずあって、ただ全力で生きるだけでは

それらを全て、やり遂げることができなくなってしまった。


ああ、大人って大変だよなぁ。


それで、ちょっと疲れていたりすると、明日のことを考えて

早めに寝ようかな、なんて思ったり、

友人が遊びに来ても、明日のことを考えて、疲れを残さないように、

騒ぐのは程ほどにしようかな、なんて考えるようになった。


それは、きっと生きていく上では、必要なことなんだろうけど、

ときには、仕事もことも、明日のことも、自分の体のことも忘れて、

なにも考えず、ただ一心不乱になって、

何かに突撃したくなるときがある。


ボロボロになって、ヨレヨレになって、フラフラになって、

それで初めて味わえる感覚っていうのも、あると思うんだ。


でも、現実ではさすがにそれは無理なので、

それで私は、それをゲームの世界で、実行しているのかも知れない。



オンラインゲーム「MHF」

巨大なモンスターたちが住む、巨大な世界。


よーし、突撃だあっ!



MHFss210

 うおおおおおおっ!


声を出して遊ぼう。

【高速カードバトル カードヒーロー】 


Card heroe


【サンダー】よ、来いっ!

と、わたしは心から願っていた。


追い込まれ、打つ手もなく、次に相手の番になった瞬間、

敗北が決定してしまう私にとって、

ただ一つ、逆転し大勝利できる可能性が、そのカードを使うことだからだ。


滑るようにして目の前に配られてきたカードを、私は祈るような思いで凝視した・・・・・・!



ゲームをしているとき、私はよく声を出している。

らしい。

熱くなり、ついつい夢中になって、自然と声が出ているみたいだ。

でも、私はそれは、正しいゲームの遊び方だと思うなぁ。

だってさ、黙々と遊ぶのはやっぱり寂しいじゃないか。


この「高速カードバトル カードヒーロー」で遊んでいるときも、

そんな状況に何度も陥ることがある


「高速カードバトル カードヒーロー」とは、任天堂DS用のゲームソフト。

ゲーム内で収集し、自分用に編集したカードたちを使って、

対戦相手と戦うガードゲームだ。


その対戦中、ほとんどゼロかも知れない可能性に、それでもかける瞬間。

絶対に揺るがない、と思った勝利が、一瞬にして崩れる瞬間。

確信していたこと、確信してしていなかったことが、

みんなふいにやってきて、しかも一瞬で去っていく。


こんなことが、人生で実際に何度も起きるようだったら、

とても耐えられないけれど、これはゲームだ。


私はそのたびに、言葉にならない声を出し、

悔しいよお、とか、やった大逆転!とか思いつつ、

さらに予想できない、新しい決定的な一瞬を求めて、

ふたたびゲームをスタートする。


ただ、私の場合、少し「悔しい」と思う度合いが多すぎる気がするんだけどさ・・・・・・。

うーむ、こればかりは、これからの練習次第ということかも知れない。


風邪をひいて、スタートが出遅れた私に、同じゲームを買った、

二人の友人もまったく容赦がない。

なんだか、見たことのない強いカードを使って、

私を容赦なく敗北させようとするのだ。


「それ、まだ持ってないんだけど、一枚でいいから交換してくれないかなあ」


とお願いしたら、怒鳴られた。


「初心者が、いきなり強いカードをもらおうとして、どーする!

まずは地道に少しずつ進めることを考えろ!」


うっ、確かに、それはそうなんだけどさ。

でも、その初心者に、容赦なく強いカードを使う、お前たちだって問題あるぞ!



カードが配られてきた。

【スパーク】・・・・・・!

待っていた【サンダー】の弱体版だ

意地悪のつもりで、そのカードを使って相手を攻撃。

相手の番、私はまた敗北した。


地道て、辛いなあ・・・・・・。



衝撃の瞬間。

普段出かけるときに履く靴だけは、奮発をして、

結構、高価なランニング用シューズを買っている。


もともとは、学生時代に部活中に膝を痛めてしまい、

それを保護するために、クッション性が高い靴を選ぶようになったのが

きっかけだった。


スポーツ用品店の人に、膝のことを話したら、

「今のランニンシューズはすごいよ」

と言われて、実際に履かせてもらったのだ。


とにかく、違いは歴然だった。


履いて、ちょっとその場で飛び跳ねてみるだけで、違いがはっきりとわかるんだよ。

ドシン!と来るはずの衝撃が、薦められて履いた、

高級なランニングシューズの場合には、一切ないんだ。


静かそのもの。

もちろん、膝も痛まない。


当時、普通に歩くことにさえ苦労していた私は、それで、すぐに購入を決定。

以来、それが今も続いていて、靴選びだけは、

私にとって妥協できないものになっている。


のだけど、そのクッション性がやみつきになってしまって

最近、それ以外の靴を履いたとき、微妙にシックリとこなくて困っている。


友人たちとボウリングなんかに行ったときは、その代表格なんだけど、

最近、もっと問題になってきているのは、室内にいるとき。


靴下やスリッパを履いた状態では、どうしても心が落ち着かないんだよぉ・・・・・・。

なんだか、歩くたびに膝に負担がかかっている気がするのだ。


それで、ちょっと軽い気持ちで、まだ外で履いていない新品のシューズ

家の中で履いて歩いてみたら、これがとても快適。


うーん、室内履きに採用することを、本気で検討してみようかしら。

なんて思っていたところに、ふいに友人が訪ねてきて、

ついつい、そのままの姿で玄関まで出ていってしまい、


「ばかやろう、なにカッコつけてんだ、家の中で!」


と言われてしまった。


わーん、ちょっと実験してみただけなんだよおっ!


それで、あえなくこのアイデアは中止になってしまい、

今も違和感を持ちながら、どうするべきだろう、と悩んでいるのだった。