茨城県…思えば2年間だけの生活でしたが、その職場は過去最高で初めて「この職場で一生働きたい…」と思えるものでした。東京からも近く、色々な意味で過ごし易かった茨城での生活…今となっては懐かしく感じています。そんな常陸国は城跡巡りの方も2年間で多く回ってきました。これまで旅行の中では比較的関東の中では少なかった茨城県…しかし「地元」として過ごしてみると色々なこれはこれで茨城らしい特徴ある多くの城跡と歴史がありました。今回からはそれを紹介していきます。まずは一つ目は県南部の城から。
〇北関東にも及んだ北条氏の城
牛久城の歴史は常陸南部に大きな勢力を及ぼした小田氏一族(先祖は鎌倉幕府御家人の八田知家)の岡見氏で南北朝時代に小田氏一門から分立して常陸南部に勢力を拡大。牛久城主として史料に残るのは永禄7年(1564)、この頃関東は勢力を拡大する北条氏(小田原)と反北条勢力との間で激しい攻防戦を展開。この時、小田氏は越後からくる上杉謙信の攻撃目標となっており、この時の味方として、岡見氏も「牛久城主」として「敵」として認定されていることが分かります(『上杉文書』)小田氏が小田城を失うキッカケとなった永禄12年の手這坂の合戦で岡見山城守が戦死。常陸国内では小田氏の衰退と共に佐竹氏が大きな勢力を持ち始め、岡見氏はその圧迫を受けていました。追い詰められた岡見氏は「敵の敵は味方」論理で北条氏に接近し、その勢力傘下に入ることとなりました。
天正15年(1587)に佐竹陣営の多賀谷氏によって牛久沼を挟んだ西側に泊崎城が築城され、岡見氏はいよいよ窮地に陥りました。これに対して、北条氏は「境目の城」として、近隣の北条傘下の武将が援軍として宛がわれることで持ち堪えることに成功。南関東において圧倒的な覇者となった北条氏はいよいよ北関東においても反北条勢力を圧迫し始め、上野・下野、そしてここ常陸においても勢力を拡大することになったのでした。このままいけば、牛久城は北条氏の常陸進出も夢ではない…と思われた矢先
天正10年(1590)の豊臣政権による小田原征伐
によって北条氏は崩壊。牛久城もこの時落城したのでした。もし時間があれば…北条は文字通り関東の覇者となっていた可能性も決して夢物語ではなかったと思えます。
〇竹林に残る牛久の城跡
牛久城へはJR常磐線で牛久駅まで向かい、そこから更に南へと向かいます。もっとも城までの距離は非常に長く、徒歩35分もの時間がかかりました。
道路沿いに牛久沼が見えていきます。「沼」というよりは湖に近いもので、この牛久沼があることこそこの城の戦略的価値を示しています。そして多賀谷氏もまたこの沼を通しての水運による補給を遮断するために付城を設けたほどでした。
入口となる「根小屋」地区
今となっては民家が建ち並んでいますが、城跡への入り口部分はかつての城跡の形を残している印象
城内は竹藪で覆われており、かなり薄暗い印象
土橋跡
空堀
城跡の主郭部分、広大なる面積でそして中心部は平面となっており、明らかにここが城の中心部だと分かる構造です。
そして茨城県城郭名物・張り巡らされた深空堀が出迎えてくれます。これがあるから茨城の城は楽しい!
土塁
2郭への進路
空堀跡
土塁
2郭との間の土橋部分
ちょっとここは草で覆われてしまっており、画像では空堀と分かりにくいのが残念
3郭へのつながる「虎口」跡
土橋と呼ばれる狭い通路とその両脇を固めるがごとき土塁で外からは内部が見えないようになっています。
牛久沼を見下ろす台地の突端部に築かれた牛久城はシンプルながらもなかなかに味わい深い「廃城」でもありました。もう少し整備が進んでくれれば、更に見所多い茨城県の城としてスポットが集まる潜在的な可能性が感じられました。
〇アクセス
JR常磐線牛久駅から徒歩35分
「牛久城に狼煙が一本…」