TODAY'S
 
本日の​旅日記・パリ旅行

 

2026/05/31

 

 

ジャン・ランヌが眠るパンテオン

 私が長谷川ナポレオンで一番大好きになったキャラといえば、もうご存じ

皇帝がただ一人「友」と呼んだ男ジャン・ランヌ(覇道進撃11巻の帯)

もうね、これほどランヌという人物を的確に言い表す言葉はないでしょう。「覇者がたった一人認めた対等の友」という点では私も最初は『銀河英雄伝説』のキルヒアイスのような存在を思い起こしていました。しかし、長谷川ナポレオンを読み進めていくうちにある意味でランヌは属性だけでは語れないくらいの「愛せずにはいられない」魅力があり、いつしか私でさえランヌにめちゃくちゃぞっこんになっていました。

好漢

ランヌの人柄を表するならこの言葉が一番。「大陸軍のローラン」といわれる勇者であり、ナポレオン・ボナパルトに対する献身、そしてどこかガキっぽさが残るヤンチャなエピソードの数々。

ランヌのエピソードを追っていくと面白すぎて、好きになって本当に会ってみたい

というくらいの思いを抑えきれなくなっていました。何よりこれだけランヌのことを取り上げるのは長谷川ナポレオンだけ!ボナパルトが赴く戦場には常にランヌの姿があり、彼が「本音」を話す時にはいつもランヌの姿がある。ボナパルトの躍進にはランヌの支えがあればこそ。そんなランヌですが、いつまでも終わりの見えない戦争にかつての狂戦士もいつしか戦いを忌むようになってくる。しかしそんな友の思いはボナパルトには伝わらず、遂に決別の時…ランヌが亡き後のボナパルトは嘘のように苦戦するようになっていきます。それは常に自分を支えてくれた「友」との別離が分水嶺になったかの如く…

長谷川センセイも本当によくぞ描いてくれました。何しろナポレオンの読み物とか映画とかではランヌがほとんど出てこないんだもん。佐藤賢一氏の小説ナポレオンなんか3巻に及ぶ大長編にもかかわらず、ランヌが登場する場面は限定的。もうそれこそマジでナポレオンのモブ元帥の一人なんだもん。リドリー・スコットのナポレオン映画なんか出番すらなかったしね。ダヴーやネイ、ミュラと比較しても早くに亡くなった彼ってあまり注目されない。藤本ひとみ先生の「ナポレオンの元帥たち」ではさすがに1章かけて彼の単独伝記となっているんだけどタイトルが

「女房に浮気された男」

なんで「NTR」がランヌの属性になっているんだよ!!(涙)

ランヌが悪いんでないの!

とまあいろいろな意味で不遇な中長谷川センセイの描くランヌは唯一無二の傑作といってもいい。ボナパルトとの出会い

同じ「友」としての歩み、常に傍らで居続け、

円熟した前線指揮官として成長していき、名将としてボナパルトを支え

でもガキっぽい性格は相変わらずで

時にはボナパルトとも喧嘩するヤンチャっぷり、でもね普通なら欠点でしかないこれらエピソードもむしろランヌの場合は「ランヌのやることだししゃーない」で全部片付いてしまう。むしろボナパルトも読者もそう思ってしまえるほど愛おしいのです(笑)

更に将兵にも慕われる「アイアース」(伝説の勇者の名前)

元部下であったウディノやスーシェからも慕われ続けたまさに有能な将を引っ張り上げる見事さ。特にスーシェについてはランヌなくして元帥まで登るチャンスを与えてくれたのですから。

しかしいつしか愛妻と子供たちと過ごしていくうちに戦いに明け暮れていた狂戦士もまた一人の人間へと帰りつつある「変化」そしてその中でも戦争をやめようとしない親友のもとで戦ううちにえん戦気分に支配されたこんな悲しい顔のランヌは見ていて辛いものがありました。

そしてその彼が遂に「退場」してしまったときの悲しみ、私にとってもこの展開は最初から分かっていた筈なのに、それでも迎えてほしくはなかった。そしてこの後の展開では本当に「ああ、もうランヌがいないんだ」と喪失感に支配されてました。それでもワーテルローではまるで亡霊のように現れた時には思わず声が出てしまった。それだけ私にとってもランヌは長谷川ナポレオンの重要な存在でした。

皇帝がただ一人「友」と呼んだ男

もうこれ以上の言葉はありません。そして実はいつかランヌの墓を巡りたいと思ったことが実は今回の欧州旅行の何よりの原動力でした。それはスケジュールでもランヌの墓を巡る日は5月31日にしようと思っていました。なぜならこの日は

ランヌの命日

さて、問題はここから。ランヌが眠る墓所があるのは実はフランスで二番目に有名な霊廟です(一番目は次回)「パンテオン」フランス革命を機に設けられたフランスの偉人(言うまでもなく革命以降の共和国という観点から)はここで「聖人」として祀られています。そして実はランヌもまたここに葬られているのです。ナポレオンの元帥の中でただ一人「聖人」の霊廟に祀られたこと自体がボナパルトからの親友への何よりの感謝のしるしでといってもいいかもしれません。そんなわけで今回は慎重に慎重を帰して、

日本人ガイド同伴でのパリツアーを決行

これはパリ在住の日本人がワンツーマンで旅行をアテンドしてくれるありがたい制度。もちろん割高ではありますが、それでも自分が決めたオーダーメイドの旅をするなら現地の事情を知悉しているガイドは必要不可欠。今回は現地在住で私と同年齢の女性ガイドのTさんのアテンドで非常に充実した旅ができました。Tさんには事前に「最優先目標はパンテオンでお願いします!これだけは絶対外せないので!」とお願いしておきました。

 

〇祭りの後のパリ・チュイルリー宮殿

Tさんとは宿で9時45分の待ち合わせ。ただ折角なので早朝から散歩気分でパリ中心部を散策することに。そしてこの日は

猛暑から解放されたかのように涼しい1日

となりました。まるで外にいながらにしてクーラーのかかった屋内にいるかのような快適な気候。本来、欧州の5月はこれが当たり前だったのに昨日までは異常な猛暑に苦しめられてきたのが嘘のようです。

前日、サッカー試合観戦での大暴動であったのが嘘のように人気がない静まり返った状態。そしてその中を清掃業者が「お祭り」の後片付けに追われていました。

随所随所に折られた標識などが散乱する状態。いやマジでサッカーの試合でここまでするか?と戦々恐々

コンコルド広場はかつては「ルイ15世広場」と呼ばれ、ルイ15世の騎馬像が中心部に備え付けられていましたが、フランス革命で撤去され、皮肉なことにここにギロチン台が設けられ、ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑された曰くつきの場所。その後「ヴァンデミエールの反乱」で一躍時の人となったボナパルトの時期に「コンコルド広場」と名付けられることになります。

 

①チュイルリー公園

かつてフランス王の王宮チュイルリー宮殿があった場所は今ではすっかり風光明媚な公園。流石に昨日の「お祭り」騒ぎ明けということもあってか殆ど人気のない静かな空間。かつてはフランス王宮として建設されましたが、その後ルイ14世の代に新たにヴェルサイユ宮殿が建設。その後、100年間は殆ど忘れ去られた存在と化していましたが、フランス革命を機にパリ市民に実質的に強制連行されたルイ16世一家が戻ってきたことで以降、ここは

フランスの歴代君主の宮殿

として90年の歴史を過ごしたのでした。逆に言うとヴェルサイユ宮殿は実質1世紀ほどで王宮としての役割を終えて、以降は王族もやってくることのなかったのでした。その後、王政が廃止されて以降はナポレオン・ボナパルトは皇帝即位した後はここを皇宮として大改装したのでした。ここでボナパルトは政務を見、そして嫡男であるローマ王誕生という人生のピークを過ごし…そして再び帝位を追われてこの宮殿を去ることになったのでした。さて、その後もルイ18世、シャルル10世、ルイ・フィリップ、そしてナポレオン3世と歴代君主はここで過ごしたのでしたが、遂にパリ・コミューン鎮圧時にコミューン側の兵士によって放火されて焼失。そしてこれ以降はフランスでは国王・皇帝が出ない共和政となったこともあって、再建されることはなかったのでした。今ではボナパルト時代の庭園と広大なる公園として憩いの場となっています。

池や庭園はさすがに洗練されたもので、やはりフランスらしい「優雅さ」を感じさせるものでした。

石像とかも時代を感じさせる代物

 

〇カルーゼル凱旋門とルーブル美術館

パリ装飾美術館

さてそのチュイルリー宮殿の脇にあるのがこちらカルーゼル凱旋門。有名なエトワール凱旋門の前にボナパルトがアウステルリッツの戦勝を記念して、1806年にローマ帝国の凱旋門を参考にして建造されました。しかし、ボナパルトにとっては規模が小さすぎると不満で、そのためもっと大がかりな凱旋門を建設させることにしたのでした。とはいえ、エトワール凱旋門の方は結局ボナパルトの時代には完成することはなかったので、こちらの凱旋門の方がある意味ボナパルト時代の象徴といえるでしょう。

内部にはボナパルトが関わった戦いがレリーフの装飾となっていました。ここで他の外国人観光客に記念撮影してもらいました。

装鉄城、ルーブルへ行かず

ルーブル美術館はもとはルーブル宮殿であり、実はチュイルリー宮殿よりも歴史の古い宮殿。元々は歴代フランスの文化財のコレクション倉庫として始まり、革命政府時代に美術館として一般開放され、ナポレオン時代にはドゥノンの元でボナパルトが征服で調達(勿論略奪)した美術品や文化財が飾られたナポレオン美術館となりました。しかし、ボナパルトの2回目の退位と外国軍の占領によって各国から略奪された美術品は強制的にボッシュート。長谷川ナポレオンでは根こそぎ持っていかれるという敗者の悲哀を強調する描写となっていましたが、史実ではドゥノンもさるもので、あれやこれやと手管を尽くして「個人コレクション」という形で多くの美術品を守り切ることに成功したのでした。早朝なので、当然ながらまだ開館時間前

ルーブル美術館も外観だけしか見れませんでした(涙)

 

 

〇フランス革命の起爆地パレ・ロワイアル

ルーブルから北の市街地へと行き、

狭い路地の建物を潜り抜けた先にあるのは

パレ・ロワイヤル

かつてのオルレアン公爵家の邸宅です。ルイ14世の弟を祖とする大貴族で、日本でいえば徳川御三家筆頭尾張徳川家にあたる存在。同家は尾張家がそうであったように宗家に対して王位を取って代わらんとする野心が強く、特にルイ16世時代の当主ルイ・フィリップ2世はかなりの野心家で当時の啓蒙思想に迎合、ルイ16世とは徹底的に対立し、その都合から自ら貴族の称号を捨て「フィリップ・エガリテ(平等)」を自称するほどでした。そのうえ、放漫財政で借金が膨らみ、返済のために今でいう貸テナントを行い、自らの邸宅と敷地を開放。結果、このパレ・ロワイヤルには多くのカフェや娼館が立ち並び、革命前には相手が王家の分家という家柄もあってか官憲も立ち入れない「聖域」として後に活躍する革命の志士達もここに出入りし、政治討議をするなど重要な場所でした。1789年7月12日、王政とパリ市民との間に不穏な空気が集まるとここに人々は終結。ここでカミーユ・デムーランが「諸君!武器を取れ!」との演説したことでパリ市民は決起に至った歴史的な場所でもあります。

 こうしてフランス革命に「貢献」したフィリップは処世のために過激な山岳派に属し、何とルイ16世の死刑投票にも賛成票を投じるに至りました。日本でいえば、「尾張徳川家が江戸の尾張藩邸にて倒幕の志士を匿い、最後の将軍徳川慶喜の死刑投票に賛成票を投じた」ようなものでこれは立場的にも如何なものであったでしょう。しかし、因果応報は世の倣い。フィリップにもその後、報いの時が訪れます。革命戦争のさなか、王党派であったデュムーリエ将軍は敵国オーストリアと手を結び、革命政府を潰すためにパリへの進軍を計画。兵士達は上官からの命令と革命への忠誠で板挟みになりますが、この時一人の士官が厳然と拒否。

ルイ・ニコラ・ダヴー、後に「不敗のダヴー」と呼ばれるこの男の前に兵士達もまた同調し、将軍は僅かな側近たちと共にオーストリア軍へ逃げ込むことに。そして側近の中にいたのがルイ・フィリップ、オルレアン公の息子もいたことから父親もまた裏切りを疑われ、結局自らもギロチン台に立つ羽目になるという結末に。こうして彼の野望は生前果たされぬままに終わったのでしたが、最終的にその野望は息子のルイ・フィリップが継ぎ、達成…と思ったら結局彼もまた革命で王位を追われることに。

そういう歴史的背景から現在でもフランスの政府機関がこの建物に入っています。

そしてその中庭部は常時開放されていて、自由に散策できました。

かつての革命の志士達の溜まり場であったここは今もカフェが立ち並び、人々に談義をする場を提供しているのです。

それにしてもこれだけ中心部が歴史的な建物が立ち並ぶって凄い壮観です。

パリメトロに乗り込み、次なる目的地へ。一部駅名には日本語もあるなど国際都市らしい光景も。

そして降り立ったのは…

エトワール凱旋門!!

パリの凱旋門=ココであり、パリを訪問してここに行かない選択肢は流石に存在しない。ボナパルトが自らの覇業に相応しい凱旋門として計画したものの、自らの生前には完成せず、30年近くかけてようやく完成したパリの象徴。まあこの後のブルボン復古王政下では不倶戴天の敵の記念碑をわざわざ完成させる義理もなく、全く別目的の施設にできないかと模索し、七月革命でルイ・フィリップの時代には革命への追憶として再び計画がスタートするというある意味フランスの有為転変を象徴する話でもあるのですが…それでもその後、生前果たせなかったこの凱旋門をボナパルトの遺骸がくぐるなど歴史的イベントでの重要な場所。こうして今も多くの観光客が詰めかけます。

 

上部には料金を払えば上まで登れる階段があるのですが、今回は朝早すぎてカット。

シャンゼリゼ通りをはじめ、12の通りが放射状にこの凱旋門に集まるまさにパリの中心軸ともなっています。

さ、それでは私も凱旋門をくぐるとしましょう。

あった!わが最愛の推しであるジャン・ランヌの名前をすぐに発見してしまったのはやはり彼への執着が生み出した奇跡であろうか。彼の名のスペルだけはすぐに分かってしまった。

ランヌ「べシェールさ~ん!」

犬猿の仲のべシェール元帥とは一つ挟んでいたのは彼らの不仲ぶりを知る後世の人間による配慮であろうか。モルティエさんグッジョブ(^^)vまあやはりべシェールと上下隣り合わせなんて泉下のランヌが知ったらまた大暴れするだろうからね。生前も好き嫌い関係の激しいナポレオン元帥達の中でもこの2人の喧嘩沙汰は特に際立っていて、特にアスペルン・エスリンクの戦いでの子供の喧嘩のようなみっともないエピソードは有名。ランヌ自重しろ

凱旋門の中心部にはフランスの歴代戦争で亡くなった兵士たちを祈念した「無名戦士の墓」がこうして綺麗に花を飾られて、神聖な空間として存在していました。

地下の真下はそのまま地下鉄駅という抜群のアクセスの良さを誇るエトワール凱旋門

地下鉄駅には様々な展示パネルがあるので必見です。

 

〇地元在住ガイドによる的確な助言 ノートルダム大聖堂

こうして早朝散歩にしては濃密すぎるパリ市内散策を終えた私はいよいよガイドのTさんとの待ち合わせのため「宿」入口で待ち合わせ。前日まで猛暑に苦しんでいたのが嘘のような快適な気候で、まさに天が祝福してくれた時。そしてパリ在住の日本人女性のTさんと遂に合流。私と同年齢ということもあって色々と話が弾み、今日一日楽しめそうな旅となりました。

まずはノートルダム大聖堂!ナポレオン関係でいえば、言わずもがな

皇帝になったボナパルトの戴冠式が挙行された現場

詳しくは『覇道進撃 4巻』を読んでいただくに越したことはないのですが、セーヌ川の中州にあたるここシテ島は元がパリ発祥の地とあって、いわばここがパリという都市の中心。そこに築かれたノートルダム大聖堂はまさにフランスの魂の結晶といってもいいでしょう。建設が1163年、パリに相応しい大聖堂建設をと建設され、ゴシック様式の建築はまさに当代最高級のものです。最終的な工事が完成したのは14世紀初期であり、実に150年近い歳月をかけて完成した大聖堂でした。

 フランス革命では反宗教が革命政府に席捲すると大聖堂も荒れるに任せますが、ボナパルトが1804年にここで戴冠式を挙行するにあたり、大修復を実施。以降はフランス国民にとっても欠かすことのできない象徴です。

「フランス国民の父となる」

ボナパルトが求めていたのは「奪う者ではなく、与える者。国家と自身を同一視してしまう壮大さ、長く辺境のコルシカ島出身として蔑まれていた「復讐」が自らが彼らの「父」となることで達成するという何とも歪んでいて凄い複雑な心理描写。長谷川センセイの解釈はなかなか辛辣にして、それでいて対象となる史実上の人物に対する愛がある。

さてノートルダム大聖堂といえば、2019年におきた火災で一部が焼け落ちたニュースが記憶に新しいです。幸いメイン部となるこの正面部は無事でしたが、尖塔と屋根の大部分が焼け落ち、2024年に修復工事が完了し、かつての荘厳な姿をまた拝観できるようになったのです。

大聖堂内部は入場料無料、その代わり凄いごった返すので予約しておくのがおススメ。今回は諸事情で予約できなかったので、Tさんの助言でここをまず最初に訪問したのですが、まさに的確。10時の開場とともにすんなりと中に入れました。やはり地元在住者の知識は非常に助かります。

かつてボナパルトらが集まり、自ら帝冠を戴いた場は今は荘厳な空気そのままミサが敢行され、音楽が流れる中での四周をぐるっと巡る見学ツアーとなりました。やはりこのステンドグラスの美はまこと「フランスの美の結晶」と呼ぶにふさわしい。絶対に見学しておいて正解でした。唯一の瑕瑾は日本語ガイドブックが無かったことくらい。ドイツでは結構な高頻度で日本語ガイドブックが売っていたのにフランスでは空振り率が高い。「フランスよ何故だ!?」という思いが巡らせてしまいました。

 

〇「たった一人の友」が眠るパンテオン

それではノートルダム大聖堂を後にして次なる目的地のセーヌ川南岸地区へと向かうことにしましょう。

今回の欧州旅行の真の目的地であるパンテオン

莫大な費用と海外旅行で強いられる労苦に躊躇しながらもそれでももう一回欧州まで行きたいと思った原動力はまさにここに眠る男の元へと辿り着きたいという愛から始まりました。パンテオンは元はパリの守護聖女ジュヌヴィエーブを祀る古い教会から始まりました。そしてフランス革命時には非宗教施設として

フランスに貢献した偉人を祀るパンテオン(霊廟)

として改修されたのでした。ただし、この「偉人」の選定基準は極めて生臭く、大抵は時の政権の思惑が絡んだ代物でもあり、埋葬された人間にとっても死後も翻弄されるような有為転変の連続でした。その何よりの証明がこのパンテオンに祀られた「聖人第一号」であるミラボー。初期のフランス革命においてカリスマ的存在だったミラボーは豪放淫楽にして、誰からも好かれる存在。そのため彼が途中で病で命を落とした時にはパリ市民は皆涙を流し、ここパンテオンに埋葬されることになりました。そして革命政府内部の紐帯となっていたミラボーの死を境に次第にフランスは王党派と共和派の対立、そして諸外国との革命戦争と恐怖政治による粛清へと「暴走」していくこととなったのです。あるいは彼がもう少し長生きしていれば…という思いがあります。しかし、運命は残酷。その後、ルイ16世の秘密書類が発見されたことで実はミラボーが裏で国王夫妻から金を受け取っていたことが発覚。1年前、彼の死に涙していたパリ市民は裏切られた怒りでパンテオンに埋葬されていた彼の遺骸をゴミ捨て場にポイ捨てされる末路を辿ったのでした。最近気がかりなことがあってミラボーとマラーが除外されたことで、またぞろポリコレ的配慮で革命期の人間が排除されているんじゃないかということ。そのためTさんにも事前にランヌの墓が無事かと確認しておいたのでした。内部は私一人で行っても良かったのですが、実はある予感に駆られていた私はTさんに同行(もちろん入館料は私負担)をお願いしておいたのでした。そして後でこの判断が正しかったと証明されることになります。さてそれでは入館料を払おうとした時に2人分の入館料&日本語オーディオガイド機レンタ料金を計算しようとすると

「三十六ユーロ」

と隣の受付カウンターにいた40代男性がめちゃくちゃ流暢な日本語で合計金額を教えてくれて、2人揃って目を丸くしてしまった。私達と直接応対しているわけではないのにしかもあの一瞬で合計金額まで計算してそれを日本語で普通に話せてしまうとか凄い人!…という驚嘆な思いであったのだ。

さて入館したはいいものの肝心の「偉人たちの墓」はどこだ?と右往左往する羽目に。中の係員にTさんがフォローで通訳で「ランヌの墓はどこですか?」と聞いても誰もランヌを知らない…いや流石にそれってどうよ?という焦りが心に芽生えてしまった。もしかしてランヌはもうどこか別の場所に…という嫌な予感が働いたのであるが、Tさんが必死にフォローで一緒に聞いて回ってくれたおかげで遂に場所判明。というか今まで聞いていたのは事務員だったようで、学芸員らしき女性に「マルシャル(元帥)ランヌ」と聞いたら一発で案内してくました…しかしこうして場所が判明したのは全てTさんが聞いて場所をしっかり確認してくれたおかげです。私一人だったら何も分からず、右往左往するだけだったのは確定的に明らか。

本当にTさんに来てもらって感謝しかありません。

パンテオンの偉人達が眠るのはパンテオンの地下。ここがまさにカタコンベのような構造となっていて、各部屋に偉人たちの棺が祀られています。流石にフランスを代表する「偉人」ということもあって解説展示も充実。墓所であり、顕彰施設でもあるパンテオンらしさ。日本だとわざわざ墓所内部をこんなあけっぴろげに公開するのは珍しいからね…そしてTさんの案内で

この空間に辿り着いた時には私の顔は↑状態。もう鎌倉で尊氏の供養塔に来た時の尊氏推しの友人のことを言えた義理ではないぐらいの感情モロ出しでありました。私を欧州へ再び誘ってくれた最愛の推し。ボナパルトのたった一人の「親友」が眠る墓。

キリスト教式に黙礼しながら、私も鎌倉で尊氏の供養塔に手を合わせていた親友の顰に倣い

「貴方のことが大好きで遥か極東の島国からやって来てしまいました。向こうでは某漫画のおかげで貴方のことが好きな人間が急増中です。本日は貴方に会えたことを誇りに思います。ボナパルトと同じくランヌ愛しているよ!」

と心の中で感情の赴くままに叫んでいました。でも本当、こうして優れた創作物を通してこうして推しが生まれることに本当に意義があります。同行していたTさんも多分内心呆れながらも

Tさん「これだけお墓に手を合わせていただけるなんて泉下のランヌさんも喜んでくれますよ」

と言っていただけました。まあ多分泉下のランヌも200年経ってまさか聞いたこともない地球の裏側でファンが急増中と知ったらどんな顔をするのかを知ってみたいという思いはありますよ。

それにしてもこの空間、ボナパルトの思いがこもっているように感じられました。他の偉人達の墓所は大体2~4人の相部屋が多いのに、ランヌはキチンと専用の部屋。そして飾られたフランス国旗とランヌの肖像画という特別な部屋感を感じてしまった。

もうこれはボナパルトからの親友へのせめてもの手向け

としか思えません。単なる「最初に戦死した帝国元帥」とかそんな政治的事情ではない、親友をせめて盛大に葬ってあげたいナポレオンの思いと私は信じたい。

滞在は10分ほど、ただひたすらランヌのことを偲び、217年前にどんな光景が広がっていたんだろうか…と思わずにはいられませんでした。史実ではボナパルトがランヌの死に立ち会ってはいなかったのはどうも確定っぽい。それでも決してこの涙は「作り話」ではないと私は信じています。そうでなければ、こんな「特別な存在」にはなれないのだから。

 

 

なお、長谷川ナポレオン関係では有名人としてはラザール・カルノーの存在も。確かにカルノーは軍事の実務面で革命政府を支え、後に大陸軍となる強大なる

地上最強!な革命軍を生み出した存在。ただし、彼がこのパンテオンに祀られたのは別の事情が見え隠れします。彼がここに祀られたのは19世紀末。実はこの時のフランス大統領は彼の孫…気にしない気にしない

再び1階に戻り、パンテオンに関する日本語解説に耳を傾けます。このパンテオンは先の通り、教会だったのを非宗教施設として改修し、その後体制がひっくり返る度に何度も性格を変えてきました。その目まぐるしさはパンテオンにかかわる人々にとっても困惑するくらいの有為転変ぶり。それでもそれはある意味トライ&エラーの連続であり、フランスの未来のためにであったという解説を聞いて目から鱗。某国では「ネタ」にされがちな体制転換の激しさのフランスですが、それはダメなら「とっかえてしまえばいい」というフランス流の考え。この辺はどちらが優劣とかそういう話ではなく、国民性の違いでもあるだけの話。

だからこのパンテオンもそういうわけで宗教的な部分と非宗教的な部分もあるというわけです。

こちらの像はオッシュ将軍像。革命戦争時に活躍した軍人であり、彼もまたボナパルトと同じく革命戦争で頭角を現した存在でありました。またこれは奇しくもですが、恐怖政治の中で投獄された時にはジョゼフィーヌと一緒の監獄で一緒にいつギロチン台に立つか分からん身ということで監獄の中で愛人関係にあった存在。彼自身は若くして亡くなり、ボナパルトの栄光の影で忘れ去られましたが、運命が変わっていたら果たしてどうなっていたか。

 

エントランス中央にあるのはフーコーの振り子。1851年に地球の自転を証明するためにフーコーが上部のドームに振り子を設置しての公開実験を行ったのを記念したものです。

かくして私の中で一つの人生の目標が達成された瞬間は感無量に終わりました。もちろんまだ墓参りはあと一か所残っているので、そちらで。次回は9月27日に公開予定です。そして改めて…

 

ランヌ、愛しているよ!!!