2月16日、仙台城(別名:青葉城)を1年半ぶりに攻城。
前回は地下鉄の駅から遺構を見ながら仙台城の上まで徒歩で登り、帰りはバスだったが、涼しい時期でも暑かった。
なので今回は行きをバス、帰りに遺構を見ながら下りることに。
上まで行くのはこの周遊バス「るーぷる仙台」
瑞鳳殿、仙台城、大崎八幡宮などの名所を回るため、観光客で満員。
また結構カーブや交差点をさほど減速せずに曲がるため、横G(横への加速度)が強く、倒れないように摑まるのに必死。エラく疲れる。
運チャンが各所を解説しながら運転してくれるのはいいんだけど。
てっぺんの本丸に着き、さっそくここへ。
復活した伊達政宗公騎馬像。
2022年3月16日の地震で損傷したが、修理されて戻ってきました。
逆光で表情が読み取れないけど。
台座も全方向から見てみる。
台座の右側
左側
全て伊達政宗が描かれています。
背面だけは、仙台市観光協会会長の言葉。
この像は昭和39年(1964年)に観光協会によって建てられたもの。
仙台市内の眺望
眼下には広瀬川が流れる
日本一高い観音像も見えますよ。
本丸大広間の跡
大広間の図
石垣モデル
築城初期の野面積み。石垣の背後には筑石(つきいし)があって、崩れにくい、排水などの効果があります。
1600年代後半に入り、本丸の土台に使われた石垣モデル
江戸切りを呼ばれる切込接(きりこみはぎ)
石垣の大石が奥に行くにつれて細くして、揺れに対する自由度を大きくしてある。
背後には野面積み同様に築石があります。
本丸にある仙台城見聞館(入場無料)に日本100名城スタンプがあります。
仙台城見聞館には伊達政宗城の変遷もあった。
1567年、伊達政宗は山形県の米沢城で生まれる。
米沢城訪問記 https://ameblo.jp/bass-50up/entry-12777873545.html
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに遅れた罰として、宮城県大崎市の岩出山城へ移封される。
岩出山城訪問記 https://ameblo.jp/bass-50up/entry-12829084095.html
豊臣秀吉の朝鮮出兵時には、一時的に佐賀県唐津市の肥前名護屋城の近くに移る。
1600年、関ヶ原の戦いの後、仙台城の築城を開始し、岩出山城から移る。
そして江戸時代の1627年、こんな高い本丸へ行くのが嫌になった伊達政宗は、仙台市内の平地へ若林城を造って移住。
若林城訪問記 https://ameblo.jp/bass-50up/entry-12842140069.html
若林城は初代藩主・伊達政宗の時代までしか使われなかった。
2代藩主からは仙台城ふもとの二の丸、三の丸がメインで使われたそうな。
最初から高い場所の仙台城ではなく平地に造ってくれれば、我々も疲れることが無かったのに。
本松大広間の模型
地形図
本丸は青葉山の上、二の丸、三の丸は下の平地。
広瀬川が自然の要害になっている。
本丸詰門跡を通って下ります。
門の両側は土塁の上に積み上げられた石垣
本丸の石垣
戦場になったことが無かった上に、伊達政宗も登るのが嫌に・・・
せっかく造ったのに、あまり使われなかったとは。
角には直方体の石を交互に向きを変えている算木積み。
沢門跡で右へ曲がる。
真っすぐ行くと大手門です。
へぇ~ カエンダケがあるんだ。
清水門
2011年の東日本大震災で崩れました。
再び崩落しても人に当たらないよう、バリケードが置かれています。
造酒屋敷跡
清水門近くの曲輪で酒を造っていました。
酒造りに良い清水が湧いていたから清水門。
伊達政宗が若林城へ移ると、酒屋敷も移転。
その後、宮城の酒造り技術に寄与しました。
仙台市博物館(改修工事のため休館中)の裏手、三の丸にある支倉常長の碑。
支倉常長は初代仙台城主の伊達政宗の家臣。
政宗の命で、サン・ファン・バウティスタ号で太平洋をメキシコまで渡り、さらに大西洋を渡ってスペインに赴く。しかしスペインとの通商交渉は締結できずに帰国。
これはスペイン国王に伊達政宗の書面を渡すシーン。
巽門跡
三の丸土塁と、堀跡の長沼
以前 三の丸にあった伊達政宗胸像は、青葉山公園に新しく造られた仙臺緑彩館の裏手に移動していました。
ポケモンGOのポケストップも移動していたが、ポケストップ画像は以前のまま。政宗像の背後には三の丸の木々が写っている。
仙臺緑彩館
ここは片倉小十郎の屋敷があった場所。
片倉小十郎は伊達政宗の筆頭家臣。ただ政宗より10歳年長で、米沢城時代から教育係のように接していました。
天然痘で飛び出た政宗の右目を切り落としてあげて片眼でも出世できることを説いたり、小田原攻めに遅れた際、豊臣秀吉に誠意を示すために白装束を着るよう進言したことなどの逸話があります。
1602年に片倉小十郎は宮城県白石市の白石城(しろいしじょう)を与えられました。
三の丸堀
三の丸のマンホール
大手門脇櫓
これは門自体ではなく、門に繋がっていた櫓。
戦災で焼失したが、昭和42年に再建されたもの。
櫓に直角に接続される形で、右手前に門があった。
(手前の道を塞ぐように大きな門がありました。)
櫓の北側、道路を挟んだ二の丸には支倉常長像
二の丸の土塀
戦災を免れ、仙台城で唯一残っている建物。
仙台城、2度目の攻略完了。