今回もドイツの指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの「音楽を語る」という本を読んで考えたことを書きます。

↓フルトベングラーの文章。

(演奏者が)自分で理解している状態からしか、語られたことは、正しいひびきをおびることはできないのです。
演奏者自身の感じていることだけからしか、歌われたものや演奏されたものは、他の人に理解させる正しい色彩や正しい姿を得ることができないのです。
前にお話した演奏(几帳面で正確に歌われていたが無味乾燥で退屈なバッハのマタイ受難曲の演奏)には、こうした正しい色彩や正しい姿が完全に欠けていたのです。
その演奏は、理解されていないものであり、したがってまた、完全に正確だったにもかかわらず、もっと高い意味で不可解なものだったのです。
驚いたことに新聞にはその演奏について、ついに受難曲の模範的な演奏を体験したというのを読んだ。
現代の知性の立場からみると明らかにバッハの精神に相応じていると思われたようだ。
この演奏状態では、渇望している魂については、バッハは、何も語ってなく、しかもまた全然何も述べていないにちがいなかったといえるのですが、まさにこのことが、わが新聞記者を心の底から満足させたかのように思えたのです。

私の感想。

インテリな人は正確で模範的な演奏になりがちで、それはダンサーにも言えます。

こういったものは【凄い演奏だ】と満足させることは出来ても、演奏や動きで何かを語ることは出来ないのです。

表現する側がインテリ思考の場合、見る側もインテリでどのようなものが正しいかという知識がある人を関心させ、凄いと満足させるだけの舞台になってしまう。

本来人は関心したい生き物ではなく感動したい生き物なのですが、頭が先な人は心が先に動くということがあまりないので、自分の感覚すら関心を感動と間違えてしまっているのかもしれません。

そしてこういった方は他人に対しても臨機応変な寛大さはなく、厳しくなりがちです。

正しいとするものがくっきりしているからです。