30年目のバリクバヤン  -24ページ目

30年目のバリクバヤン 

「バリクバヤン」とは、フリィピンの言葉で「里帰り」の意味。
1978年にフリィピン人と結婚。今年2月にサラリーマンを卒業。
4月下旬から3週間の里帰りを予定しています。
出会い~結婚~現在までの38年間と里帰りの顛末を綴ります。

昨日の続きです。


お約束の8:10になったがビデオを止める気配なし。

ここで下手すると揉めると判断した私は暫く放置する。


8:30ここで私が妻に声を掛ける。「8:30になりました。あと1時間で出発の時間ですが、準備大丈夫ですか?」

「はいはい、仕事じゃないのに時間決めなくて良い」と言いながらもビデオを止め、準備に掛かる。


それでも家を出発したのは、10:00。天気は弱い雨。

流山インターから三郷・中央環状線・湾岸をとおり、横浜経由で藤沢着は12:45分着。(途中大井PAでトイレ休憩10分)


長兄宅には、長後に住む次兄夫婦も来ており、3兄弟夫婦が顔を合わせるのは、今年初めて。(電話では、月に1回連絡しています)


全員で昼食を摂る。以前は出前を取ったり、手料理でもてなしてくれたが、皆年を取ると簡単に手軽にしたいので、美味しいお弁当を準備していてくれた。


食事が終わるとお茶を飲みながら昔話(50年前の子供のころの話になる)


次兄は、68歳で長兄と同じ会社に勤めていた。60歳で定年退職後、近所の公民館で週2・3回のアルバイトをしながら近所の畑で野菜作りをしている。この日も手作りの大根・ニラ・

レタス・ねぎなどをくれた。


長兄は、昔から体を動かすのが嫌いなのと年齢から来る足腰の老化で今は家から殆どでない。それでも夫婦で30分程度の散歩はしてるらしい。


今年に入って電話で話しても長い話は出来なくて、人の名前も間違えるようになり、中程度の痴呆である。

それでも、まだ我々の顔と名前がでるだけ良しとしよう。


16:30に藤沢の兄宅を出て帰路に着く、帰りも3時間弱で19:15に自宅着。


今後も年2・3回兄弟で会う機会を作りたいと思います。

昨日久しぶりに藤沢の長兄宅へ向かった。


予定では、9:00か9:30に出発したいと前夜から妻を洗脳。

当日、長女が勤めのため、6:30頃台所でガタガタしてると、

妻が起床。我々は朝食の準備を省くため、コンビニで購入いたサンドイッチを食べる。ここまで順調に時は進む。


ここで予想外の展開が、突然録画してあるビデオの観賞開始。時間は7:30、このままでは確実に遅れると予感し、妻に30分だけと提案し、了解を貰う。


8:00過ぎに声を掛ける。「8:00だからビデオ止めて準備お願いします。それはビデオだから帰ってきてから続きを見ればいいでしょう」「判ったけど、今いいところだからもうすこし」

と言われ、10分延長で妥協。


なにしろ、今日藤沢までの高速道路の運転を妻にお願いしているので、精神的に興奮させずに出発したい私なのです。


長兄は80歳で今年結婚50年(金婚式)である。リタイアして20年。ずっと家で過ごしているため足腰の弱りと、最近痴呆が見え隠れし、突然脈絡の無い話をしだす。


この兄は、私と15歳違いで父が亡くなった時、私4歳・兄19歳で以降ずっと我々の母を助けて働いてくれた、私にとっては父親のような存在である。


我々が結婚する時も、強烈に反対されたけど、その後の我々の結婚生活をみて、その後は良き理解者になってくれた。

私の妻は、サプリが大好き。毎朝仕事へ行く前に4種類くらい飲む。ビタミン剤といろいろ。飲まない日は調子が悪いみたいで帰宅後疲れたを連発します。


反対に私は今まで1回も飲んだことはありません。

疲れたら美味しい物を食べ、風呂に入って寝る。これが一番、ビタミンCが必要ならミカンを食べる。錠剤はいけません。不自然です。自然の食べ物から摂取しましょう。


老化も自然にまかせます。自然に逆らうのは良くありません。リラックスしてストレスを溜めない。自分の嫌いなことはしない。


これが私の健康法。従ってサプリは飲みません。

私は、30年くらい総務を担当していたので、業務の一環として、葬儀のお手伝いを数多く経験した。その中で変わったエピソードを少々。


1.友人の実父の葬儀を手伝った時、受付に身なりの粗末な

 お婆さんが来た。所々破れた服に伸びた髪、普通は喪服  

 を着るから人目で違和感を覚える。(ホームレスである)

 受付で香典袋を出すが記帳はしない。受付の係りから私  

 に相談があった。これは、たまにある。彼らは返礼品が目 

 的、香典袋の中は、多くて100円。これでお酒・のり・お茶

 などが貰える。こういう時は騒いではだめ、粛々と何もない 

 ように対応。

2.会社の人の葬儀で受付をしていた。必ずその場で中を確 

 かめ香典帳に記入する。あるとき、袋に10,000円と書いて

 あるが、中身はからであった。その人が知人だったので、

 ○○さん、香典袋が空ですよと言ったら。思い当たる節が 

 あったみたいでその場で財布から10,000円頂いた。

3.告別式の人数が少ない。

 当時は、家族葬とか直送とかはない時代。私の遠い親戚

 で75歳の女性が亡くなった。家族以外は2名のみ。私と死 

 亡された方の長男の会社関係の人1名。人数が少ないと

 坊さんのお経の長さや焼香のタイミングが難しい。


今までに50回程度は、お手伝いした。

「東村山音頭」というと大半の方は、志村けんが全員集合で歌っていたのを想像すると思いますが、実際は正調「東村山音頭」があり、こちらは三橋美智也さんでレコード化されています。(裏面は、春日八郎の多摩湖小唄です)


私は、1960年~1988年(10歳~38歳)まで、東村山に住んでいました。小・中も地元の学校で、志村けんとは同学年で隣の中学でした。私は、東村山三中で彼は四中です。

もちろん、それは後年彼がTVで活躍するようになって知りました。


当時の東村山町→東村山市になったのを記念して1968年に農協が主体になって作られました。夏の盆踊りの定番として必ず「東京音頭」と「東村山音頭」が流れます。


正調東村山音頭の歌詞を1番のみ記します。


東村山 庭先ゃ多摩湖 ソレヤレソレ

狭山 茶どころ 人情(なさけ)にあつい


チョイト チョクラチョイト チョイト おいで

よかたら おいでよ お茶いれる


志村けんがTVで歌いだしたのが、1976年。

妻と結婚して暮らし始めたのが1978年ですから、私の妻も

「東村山音頭」は、正調も志村バージョンも両方知っています。どちらかというと、妻は賑やかな志村バージョンがお好みのようです。