「あの真面目ないい子がなぜ…?」 〜感情のダムの決壊 その1〜
このブログでは、「あの真面目ないい子だった◯◯ちゃんがなぜ…」と言われた私が、当事者(加害者)目線でその「なぜ」の背景について話してみようと思う。**おとなしいタイプの人間が、あるきっかけで突然「キレる」…。そういった我慢に我慢を重ねた挙げ句にキャパオーバーし、感情が崩壊する様子を、「ダムの決壊」にたとえて表現することがある。この記事では、「ダムの決壊」に至らずとも、「(我慢を貯めるダムの)水量が明らかに増えた」ときのことを書こうと思う。************************私の実家はいわゆる「本家」というやつで、しかも親戚が多かった(皆、近所に住んでいる)ことから、平日・休日を問わず来客があった。学校から帰ると、居間には親戚のおじさん・おばさんがいて、私の親や祖父母と談笑ということがしょっちゅうだった。私は、「孫」世代の長子として、よく同席させらるのだ…が、それがかなりの苦痛であった。まず、その会話の内容のほどんどが身内や近所の誰かの悪口である。男尊女卑も激しい。「どこそこの嫁が〜…」「どこどこのせがれが〜…」「どこのウチの子が〜…」…そして、それは本人がいてもおかまいなしだ。「お嫁さん」など、本人が目の前で給仕をしていてもまるで空気のように扱われ、大きな声で「バカ嫁」などと言って笑われている。私の扱いも、例外ではない。女だからといって、容姿について勝手に品評会をされる。姉妹やいとこもいれば、女同士並べられ、「誰が一番美人だ、不細工だ。結婚が一番早いのは◯◯に違いない!ガハハハ(笑)」など勝手に評価される。この品評会が本当に嫌だった。母親(←本家長女として特別扱い)は笑っていた。それどころか、母は、娘である私の失敗談や恥ずかしいエピソードを披露して、年配者の笑いを取っていた。(我が家は時事・芸能人のネタなどは話題にならないので)「子供」がよく笑いのネタとなっていた。母親自身が積極的に私をコケにし、嘲笑の対象として…生贄として提供していた。また、子供であった私は、年配者の前で様々な芸を披露させられた。(母は犬に芸を仕込んでそれを人前で披露するのも得意なのだが)、私に芸を命令するときの掛け声が…犬に対するものと同じなのだ。私は、なんだか自分が猿回しの猿になったようで嫌な気分だった。**あの田舎で生き延びるためには、年配者のご機嫌を取らなければならない…。アラフォーとなった今の私には、それが理解できる。でも、当時の私には理解が及ばなかった。中高生になり、自我が出てくるにつれ、「人前で私を貶すのをやめてほしい」と主張するようになった。だが、返ってくる答えはたいてい「親が人前で子供を貶すのは当たり前。日本文化。受け流せないお前が悪い。真に受けるな、馬鹿。」である。(学校の先生も、これを丁寧に言い換えたバージョンで返してくる時代だった。)私は思う。子供を、大人の…年配者の「笑い」に参加させるには、やはり親が子に「世代の違い」や「価値観の相違」を教え、説明してやらねばならない。当時の私には、昭和一桁生まれの祖父母世代の…差別用語満載の会話が苦痛であった。常に誰か馬鹿にする対象を必要とする会話が苦痛であったのだ。私は思う。あの時、母が「(年配の会話に)合わせてくれてありがとね」「我慢してくれてありがとね」と一言、たった一言言ってくれたら、私は犯罪者にはならなかった、と。当時から、ずっと、思っている。しかし、「人前で貶されるのは、傷つくからやめてほしい」「勉強や日常生活に支障が出るほど傷つくからやめてほしい」「自分が抑えられなくなるから、本当にやめてほしい」主張するたびに、「祖父の顔に泥を塗るな」と激しく叱責された。だから、一生懸命我慢した。一生懸命、一生懸命、我慢した。そんなある日、おばさんが見かねて言った。「(豚、豚といってからかうのは)かわいそうじゃない?」すると、母はそれに答えて言った。「大〜丈夫よぉおお!この子、ドン(鈍)だもん!!なぁ〜あんにも気にしてないわよぉ。三歩歩いたら忘れちゃうんだから、ねっ!!」我慢のダムが、決壊に向けてぐっと水かさを増したのを感じた瞬間だった。***多くの人は、私に言う。「実家が嫌なら、高校を出てすぐ働いて自立すべきだった」と。私も、大人になった今、それに同意する。異論はない。ただ、爆発するということは、まだ親を信じているのだ。「私の話を聞いてよぉおおお!!」と特大の声で言っているだけなのだ。主張するということは、大きな声を出せばまだ聞いてもらえると思っているのだ。(もちろん暴力を伴えば、それは犯罪だ)現在、私は罪を認めて慰謝料を支払い、家族の求める「いい子」に戻った。だが、もう何も主張はしない。諦めている。心が消滅した。