このブログでは、「あの真面目ないい子だった◯◯ちゃんがなぜ…」と言われた当事者目線で、その「なぜ」の背景について話してみようと思う。

 

私は、「元いい子」、現更生中(慰謝料支払い中)のアラフォーだ。

 

 

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私の家族はみな、非常に規範的であった。

 

クソ真面目であった。

 

 

…子育てにおける(身体的・精神的)暴力も、最初は「行き過ぎたしつけ」の範疇であったと思う。

 

子供の側でも、それはわかる。

 

たとえそれが「行き過ぎている」とわかっていても、しつけとして行っていることが伝われば理不尽であろうと我慢できた。

 

 

 

 

しかし、我が家の場合は、それがエスカレートしてまったように思う。

 

親の側が、いじめる快感に目覚めてしまったとき、そしてそれが子供側に伝わってしまったとき、全てが崩壊した…ように思う。

 

 

 

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思い返せば、もともと「しつけ」としてやっていたことも、やや虐待気味ではあった。

 

 

オリンピック選手を育てるTVドキュメンタリーを家族で見ていた時、選手をボロクソに貶し怒鳴りつけるコーチを見て、祖父はえらく感心していた。

 

「これだ!!ここまでしないとトップは狙いないんだよ!」

 

そして、子供を怒鳴り罵る大義名分を得た親たち(親・祖父母)は、なおのこと一層子供たちを「スパルタ教育」した。

 

 

 

後々、某柔道選手がパワハラでコーチを訴えてニュースになっていたが、そのとき、

「〜〜〜等の言葉で罵られ…」と報じられていた言動の数々に、

「そのまんま我が家やんけ!!!!」

と思わず声が出てしまった。

 

 

印象的だったのが「お前なんか、柔道できなきゃただのブタ」というセリフである。

この「柔道」を「勉強」に置き換えたフレーズが、我が家では「激励」の言葉としてよく使われていた。

 

 

もちろん、「やめてほしい」と言ったことはある。

 

勉強を頑張らせるのに、執拗に「ブス、ブス」という言葉をかける必要はないと主張した。

 

しかし、その主張は「お母さんたちが、こうして厳しくしてるからいい成績が取れてるんでしょ?」という言葉にかき消された。

 

事実、成績が落ちれば長期間(毎日長時間、そして何日何週間もの長期間)馬鹿にされるので、必死に成績を落とさないようにしてきた。

 

なので、悔しいながらも自分自身どこか納得してしまっており、いつしか「人格否定をやめてほしい」と主張するより、「罵られたくなかったら自分が頑張って東大行くしかない」という思考になっていった。

 

(先生に相談しても、「親からキツいことを言われたくなかったら、やるべきことをしっかりやって、怒られない自分になりなさい」としか言われなかったしね…)

 

 

 

そして、親たちも「間違った成功体験」を積み、罵倒して頑張らせる方法がエスカレートしていった。

 

 

 

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私が、従順に頑張れなくなったのは、親たちがそこに快楽を見出していることに気づいたからだ。

 

母は、明らかに私を罵ることを楽しんでいた。

 

なんともいえないギラギラした目で私を監視し、何かミスを発見すると、間髪入れずに、

「ほら失敗した!バカ!デブ!!ブス!!!豚ァ!!!!

豚は豚小屋に帰れ!役立たず!」

くらいの事は言う。

 

 

そのときの「ほ〜ら失敗した!!」の口調がやたら嬉しそうなのである。

 

もはや嬉々としている。

 

さらには、その監視する目である。

 

なんとも言えないギラギラした目で、ミスを探そう探そうとしてるのがわかる。

 

そして、普段から「次はこんな言葉をいってやろう…www」とでも考えていないと出てこないような罵りの言葉の数々がスラスラと出てくる。もはや、(母は専業主婦だったので)娘を効果的に傷つける言葉を日々考え、頭の中でシミュレーションしていたとしか思えない。

 

そして、娘のミスを発見するやいなや「そらきた!!!」とばかりに新技(人格否定ワード)を披露していたのだと思う。

 

 

 

…反対に、私が何か成果を出した時、母はムスッとしている。

 

当時の母は、私が成果を上げれば何故か不機嫌で、私が失敗するとパッと顔を輝かせ、目をギラつかせて喜んでいるようにしか見えなかった。

 

 

そのあたりから、私の中に不信感が芽生えていった。

 

「成績を伸ばすために、心を鬼にして罵ったり叩いたりしているんじゃなかったの…?」

 

なんで「テスト100点だったよ(お母さんきっと喜んでくれる)」に対する返しが、「…フンッ。友達いないくせに。」なの?

 

 

 

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成長するにつれ、その疑問・不信感が膨らんでいった。

 

人に危害を加えたわけでなく、「ミスをした(漢字や計算を間違えた)」ことに対して、そこまで罵るのはしつけとは違うんじゃないか?…そう思うようになっていった。

 

 

…ただ、長年のことでもあったので、「自分が間違えないようにすればいいだけ。自分が悪い」という思考も同時に湧いてくる。

 

 

それにしても、やはり、決め手は母の表情なのだ。

 

 

私を罵ることを、明らかに楽しんでいる。

 

 

母は、最後まで「しつけのためだった。もっと頑張ってほしかったから…」と言っていた。認めたくない…というより、多分「頭」の中では本当にそうだったのだろう。

 

でも、おそらく、「感情」は高揚していたはずだ。

 

いじめの快感におぼれていたと思う。

 

 

 

 

…いじめはなぜなくならないのか。

 

 

ストレスをより弱い立場の者にぶつけてしまうことか。

 

いや、なにより楽しいからだ。

(大人になって数々の記事を読むようになって、ハッとした)

 

自分が優位に立っているという快感。

 

自分の言葉で相手を圧倒していくことはスカッとするのだろう。

 

 

 

「指導(オリンピック選手のコーチでもやってる!)」という大義名分を得て、罪悪感なく、思う存分に他人(子供)を罵ることができるのだから、そりゃやめられないだろう。

 

おまけに、「自分の指導で娘の成績が良い」というさらなる快感もついてくる。

 

 

 

だが、言っておく。

 

 

その反動は大きい。

 

 

あからさまなイジメに対して、「あなたのため、あなたのため…」というタイプのイジメは、いじめられた側の怒りの矛先が、最初は加害者に向かない。

 

その矛先は内側(いじめられている本人の内側)に向く。

 

悔しさも怒りも、小出しにできず、自分の中で圧縮されていき、さながら「圧力釜」状態になっていく。

 

そして、

 

お母さん、いじめを楽しんでた、よ、ね?

 

その確信が「圧力釜」に亀裂を入れたことは間違いない。

 

…これが、私が犯罪者になった大きな要因のひとつだったように思う。