#10 会員様や信者さん募る以前に人類の頭数がテンパってちゃぁなぁ・・・・  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
 
 
    
    
 もしも今、全国にいる治療士、鍼灸でも、整体でも、マッサージ師でも、開業医として
生計を立てようという考えのもとに、自分自身がまず一歩でも、こうした問題 に気づき、
まず自分から前へ進んでゆきたいと考えるなら、巻末に載せた各県の窓口へ問い合わせることを
お勧めする
。そしていつの日か機会に恵まれ、私と会うことができた時に私は、
わずか一時間もしないうちに、その心と体のすべてを解く。これまでも何百人、何千人と逢ってきた人
のうち、医者、学校の先生、会社経営者、歯科開業医、看護士、消防士、プロゴルファー、音楽家…。
また、障害ある子供を持つ親… そうした人達もすべて、世の指導者として生かされるように 
その心と体の今の状態を詳しく、本人が納得いくまで明確に説いてきた。それにより、己に気づいて、
素直に学校の先生を辞めた人もいれば、社員を顎で遣い、必要のない者はどんどん切り捨てて
業績をあげる企業の社長にも、その人に本当に今、これからも、指導者や社長としての器があるかどうか。
それをその人自身で判るようにしてきた。その中には、たとえば、二時間なら二時間、私と二人だけで
話をしたあとに、立ちあがって、 
「今日は本当に来てよかったよ。今ここでぜんぶ、何もかも楽になって、
俺はもう、いつ死んでもいいよ。そう思った。」
そうやって晴れ晴れとした顔で、その日のうちに自分の生きる場所へ帰って行った人も何十人もいる。
 何が自分に合うのか。どうすれば楽しく、どうすれば仕事がうまくできるのか。そのためには、
どういうふうに創られているのか。それを知るためには、何の努力もいらない。
本人がそれに気づけばいい。それを知らなければ何をやっても駄目だし、何をやっても楽しくない。
 現世に形づくられ実在する者すべて、その者が生きていくために必要な知識。その職責職能は、
既に無から有に変わるとき、完全に決められている。
 人間なら人間は、受胎の瞬間に既に入ってしまっている。
 たとえば、灰皿がどんなにきれいで、どんなに美しく作られていても、それは決して、
湯呑みにはならない。灰皿に お茶をさして飲むわけにもいかない。最初から、
灰皿は灰皿として遣われるように、湯呑みは湯呑みとして遣われるように作られているのである。
 人も、自然界も、すべての者がそうである。空を飛ぶように創られて生きる鳥が生涯、
陸地を這い回るわけにはいかない。海の魚が丘へあがって歩くわけにはいかない。
栴檀は双葉より芳し 人には、人に訊かなくても、できる人もいれば、ただ単に見れば判る人もいる。
そして、幾ら訊いてみても、どんなに丁寧に教えられてみても、できない人には絶対にできないし、
解らない人は決して解らない。すべての人の頭が同一に創られてはいない。そこに程度があり、
それぞれに創られ方のちがいがある。
 オリンピック選手にしても、プロ野球選手にしても、それを見ている人にとっては、到底、
考えられないような行動、動きをしている。あれは決して、練習し、努力しただけではない。
どんなに努力しても、どんなに頑張ってみても、できない人にはできない。
最初から創られ方が違う。いわゆる天才。それは、適材適所。職責職能。産まれる以前から
既に決められていた能力。己が生きるための知識である。
 すべてのものは、できる前に、創る前に決められている。
 野生の草も、木も、すべての物は、いつ芽をつけ、いつ花が咲き、いつ頃に結実するのか。
全部が決められてできているのであって、その時々に適当に…ということも絶対にありえない。
 そして人間も、右の方に右の手があって右の格好をしていて、それは、
右の方で動かして遣えるように創られている。左の手も、腕も、指も、まったくその通りである。
間違っても右の手を左の方へ付けても大丈夫なようには創られていない。どんなことがあっても、 
右の手は、親指一本にしても左に付けるわけにはいかない。
 自然界とは、何の決まりもないように動いているように見えたり思えたり、感じたりしても、 
それを誰が意識する・しないには関係なく、完全に決められ、整然とした流れの中にある。
その自然界の規則、決まりは、人間が造った法律よりも、もっともっと厳しく生きている。
その法則を破り、健康で、楽しく、明るく…ということは決してありえない。
 
 私は、その人の顔を一目 見ただけで、その相手のすべてが解る。
 その人の考えていることも、そして、どのように創られた人間なのか。
何をやれば面白く、楽しく過ごせるのか。
その肉体そのもの、頭の天辺から足の爪先まで、体の方々がどうなっているのか。何が原因で、
どの部分がどのように悪いのか。それは男性ばかりでなく、どんな女性一人 目の前にしても、
その年齢に関係なく、その人の子宮の位置、内臓の位置が今、どこにどのように傾いているのか。
常日頃の生理の時期や、その状態はどうなっているのか。どんな服を着ている状態であっても、
それこそ、陰部の形や陰毛の生え方まで、すべてを見通して、自分で自分の体を治す方法も伝えてきた。
その人が創られた通りに生きるには、どうしたらよいのか。
誰を目の前にしても、すべてを応えることができる。
形あるすべての物。創られた者は、創った側から見れば、何も聞かなくてもすべて解るはずである。
私が人間を創ったわけではないが、どの顔も、どのような体型の人も、一秒間も見ないうちに 
頭の天辺から足の爪先まで解る。しかも、その人が出生する時に、どういう形で産まれ、
どのような格好で母親の胎内にいたのか。それこそ、その人の出す尿や排便の色はおろか、
それを必要として訊かれるならば、いつ頃に死ぬのか。その期日も応えられるし、
死ぬ時の格好。その状態も一瞬にして視えてしまう。それが私である。
 今まで数多くの人が、私の前へ立った。そして一緒にお茶を飲みながら話をする中で私はいつも 
「肉体とは心の容器であり、肉体は心によって動く」と言っている。
 今、何が自分に合うことなのか。どうすれば満足できるのか。
そうしたことを具体的に話して、本人が納得いくまで会話、説明する時間を第一に考えている。
そして今後は私ばかりでなく、社会で、教育現場で、医療現場で、企業の中で、
そうしたことを私以外の人にもできるように考えている。 
    
 寄らば大樹の影。弱い人は強い人に縋ればいい。解らない人は解る人に素直に聞けばいい。
知るは一時の恥。知らぬは末代の恥。どんなことも、今その人に必要なら丁寧に教えてあげればいい。
水が飲みたい人には水を、腹が空いた人には御飯を食べさせればいい。
 解ったフリをする必要もない。強いフリをする必要もない。できないときは「できません」でいい。
 できないくせに、できるフリ、解ったフリをするから、今、社会は、人の世は、先に述べた通り、
そうした結果を招いて、今後も益々、大勢の者が悩み苦しむことになってしまうのである。
 必要以上の知識は常に、己を攻撃し、己にとって最大の敵となる。
 たとえば、人間が生きる絶対条件のひとつ。食べるということにしても
食事をして、体内で消化されてもされなくても、やがて排泄するまでには
食べた物の半分は、その体にとって毒になる。この食毒【しょくどく】は常に 
休みなく呼吸をして、全身の筋肉を動かし生きるために流れる血液の中にあってはならない。
人間の体の中の臓と腑。その陰陽の関係は、そのことによってもバランスを崩すことになる。
ところが最近の人間は、食べること、入れることよりも出すことができず、体の中に溜め込んでしまい、 
様々に肉体を汚してしまっている。同じように知識も、周りと自分を比べてみて、
とくかく、ないものを入れる、入れようとすることを考えても、
自分が生きるために必要以上の物を出すことをしない。
 入れるのではなく、あるものを遣えばよい。それが、己が生きるために必要な知識である。
その最初から備えられたものも遠慮せず、出せばよい。
 人間がこの世にいて、肉体を持って自然界に生かされているうちに、そうしたことの一切を改めなければ、
今後、教育の世界も、政【まつりごと】や企業での指導の世界も、治療の世界も、絶対にありえない。
最早、その限界に達していることは、その人達がよく知っているはずである。
要するに、何か誰かの嘘や勝手な想像で書き連ねられた成功哲学でもない。過去に生きた聖人君子の
格言や教訓でもないし、物事にはすべてにおいて流れがあり、道理がある。その道理を無視して
何事も成しえないのは事実である。 
 すべて、物には決まりがある。自然界の日の出も日の入りも、すべて決められて、その通りに、
日の出があり、その通りに日の入りがある。だから、人間の世界。我々人間も、まったくその通りである。
    
 たとえば、どんなに大きなテレビにしても、それがそこにあって目に見える部分では、
その画面があり、それは外観だけであったとしても、そのフタを取ってあけて陰を覗いて見れば、
その中には無数の配線がある。
商売人や技術者は別として、素人がその陰を見た時、何が何だか何一つ分からない。
しかし、これを見る商売人も、それを作った人。設計した人。この人達が
中を覗けば、それが故障した箇所も、壊れた原因も、
その設計図に基づき、いとも簡単に直すことができる。そういう事実もある。
 人間とて、まったくその通りである。強い、ものすごい流れがあり、その流れの中に生きている。 
 だがしかし、これまでの人間の世の中に、
自然と人間の関係を詳しく説いた『人間の設計図』がなかったために 
治療士も、教育者も、企業のセミナーの講師、トレーナーの人達も、この人達は、
「どうやったらいいのか」 「何を教えていいのか」 
そうしたことの最も重要で、大勢の者が必要としてきたことを何一つ解らなかったのである。またそれは、
過去に生きたいかなる歴史上の人物も、聖人君子、釈迦もキリストも、
それ以前に存在したとされるダイバダッタにしても同じである。 
 だから私は、『自然と人間の設計図』という本(注釈:
西暦1993年9月発行の初版とは別の、後年に出版を予定された完全版を示す。)
を創り、私の名前で世に送り出し、
今後も次々に出版してゆく中で、そこには、
「人間とは、どう創られ、どう生きているのか」 
その人間の創られ方の事実を克明に記すことになる。
どうして創られたのか。 どうすれば治るのか。 
それにより人々は、いともたやすく人間について分かり、
己自身を理解してゆきながら、自分で自分を救うことができるように、最初の状態へ戻す。気づかせる。
 その創られ方、整然とした自然界の取り決めにある流れ方を分かるなら、
どんなに体が悪い人であっても、何事に悩んでいる人であっても、いとも簡単に治すことができる。
治癒力を養い、自分自身の力で治すことができる。
 ただ、何度もいうように決して、方法や策とか、教育によって人は創られていない。
 医学、宗教、哲学、ありとあらゆる思想と、今の世の中にあるどの教育も、何の教えも、誰の指導手順も、
そのような非常に時代に遅れた方法では、人の心も体も治せない。 あくまでも、創られ方。その動き方。
この根本的な事実の説き証しが絶対に必要であることに一時も早く気づくことである。 
    
 また、子を持つ母親は、自分の子供が朝、学校へ行く前に、簡単に起きられるのかどうなのか。
声をかけてもかけなくても、すぐに起きあがって、自分の私宅をすんなりと整えられるのか、どうなのか。
それを見て、常日頃、何をどう言っているのか。 
 起きて御飯を食べて、学校へ、気分よく気持ちよく、明るく登校できるのか。今はほとんどの子供が、
朝 起きるのがまったく大変になっている。
朝、起きたとしても、御飯を食べようとしても、思うように喉を通らない子供。その母親は、
そのことにどこまで気づいているのか、いないのか。
また本人は、学校へ行っても午前中はなんとなく、ボーッとしている。
読者自身の子供に限らず、そうした子供達は今、全国に大勢いて、これをこのまま続けさせることで 
子供の未来はどうなるのか。親は一時も早く、そのことに気づくべきである。
「早くしなさい」 「早く食べなさい」 「落ち着きなさい」 「早く、早く!」 
親も教育者も大人になるまでの間、これまでの人の世で、社会の常識の中で、同じように躾けられ、
同じように教育された経験や記憶があったとしても、それを今、自分の子供が、自分達の教え子が、
決して、同じように、その親が望む通りに、言われた通りに出きるわけではない。
実に子供の負担である。これ以上は絶対に無理である。
まず母親が逸早くこのことに気づくべきである。
産まれた時にどんなに小さく可愛らしく、その生命が成長して大きくなってゆく過程を見ながら、
その一人一人の子供の体も、心の状態も、昨日より今日、今日よりも明日、 
どのような状態で過ごしているのか。
「なせばなる」 「やればできる」 「お前にもできる」 
またそのように世の親は、教育者は、一人一人の創られ方の違いを無視して、
人間と人間を比較してしまう。その、比較することが止められないほど得意な社会、常識の中にいて、
大人の勝手な決めつけで判断するならば、まず、自分自身が子供の頃はどうであったのか。 
果たして、親が言う通りにできて、それにどこまで従って生きてこられたのか。
それ以前に今、自分自身の肉体はどうなのか。 朝は気持ちよく起きられるのか。
前日の疲れを残したまま、働いたり、炊事、洗濯をするにも、その体、肉体派は本当に
自分の思い通りになっているのか。 
 人は今、生きるために必要な教育は必要としても、生きるために必要でない教育は一切すべきではない。
    
 如何にせよ、心の容器である肉体が壊れ、肉体の容器である地球が壊れてしまった。
母体、母なる大地は、破滅寸前である。
 山は、樹木は、酸性雨によって ほとんど枯れ出している。それによって全国各地の山林の地盤は、
もう次の雨で音を立てて崩れるほど弱くなってきている。
 その事実を見て判っている者がいたとしても、人間は、何か起きてみて、はじめて気がつく。
 起こる前に知っておけばよい。解らない人は常に、解る人に素直に訊いてみればよい。
 科学者、教育者、指導者、医学者…。この者達が一時も早く、このことに気づき、
教育の方針を変えなければ、日本は、人類は、この世にありえなくなる。
    
 しかし、最近の人間は、こういった簡単なことでさえ解らないし、人によっては、自分に
必要以上の知識が邪魔をしてしまい、理解できないかも知れない。
 それでも何も心配することはない。 
 この本も、そして、私の言ったことを否定すれば必ず、自然界が抹消してくれる。 
『人間の設計図』とは、それほど、自然と人間。物事の道理。基礎。この自然界に
最初からある決まりについてを言っているのである。そして今、自然界は、
それほど必要でない者を捨てようとしている。
    
    
    
   以上、出版お蔵入り未公開原稿 『大自然の気による政治革命』仮題:「地球という母体」原文より。 
   
   なお、この内容を記し残した人物は既に、2001年2月14日未明に他界。 享年75歳。 
   ただし、病死ではなく、ある意味、他殺のようなもので、
   非常にくだらない邪まな気の持ち主に付き合わされたことで肉体を破壊し命を絶たれた… 
   という解釈が最も適切とする今の俺の考え方が、今後いつの日か改められることも期待して、
   直筆の原稿と口述記録により、ここへ編集して公開。また、本文中の公的機関名称ほか
   一部の表現、表記については、1994年現在のまま掲載。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
                 つづく ☞ ending  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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