議事堂のトイレットペーパーも俺が買ったわけじゃねぇけどさ。  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
    
    
     
    
現在40歳を過ぎた俺自身にも、今は子供(6歳)もいて、今年小学校一年生。
「これからの時代、自分の命は自分で守れ!」
という馬鹿な
親の勝手な要望 もあり、週2回ずつの空手教室と英会話教室へ通わせている。
合気道と中国語の方がいいか? それともトランペットか?    
そのほかに、町の図書館で模様される
読み聞かせ教室とかいうところにも
お母さん(俺の妻)と一緒に月に何度か通ってるんだけど
本人は、その
読み聞かせ教室が いちばん楽しいらしい。
独りっ子で、兄弟もない、爺さんを除いては変な大人ばかりの家族構成の中で
何をして遊ぶにも、エネルギッシュな相手が少ないのか
そういう田舎街の図書館の集まり(無料参加)に数少ない子供しかいない状態でも
好きな色を遣って自由に絵を描いたり、折り紙あそびをしたり…
その空間と時間に在る存在が決して独りだけではないので
自分の親や大人よりも子供の自由意志が尊重されるらしい現場の仲、
それなりに解放感もあり、お友達の興奮状態も普段よりは活気ある模様。
んまぁ、塾通いとか習い事の楽しさとは、また別なモノがあるんだろうな。
    
佐渡という地方。日本列島から離れた孤島。そこに世間で言うところの
「地域格差」だの「生活格差」だのという言葉や地域社会の諸事情がどうあろうと
この辺りに限らず、日本全国各地の田舎地域。その津々浦々では
太陽暦と太陰暦だとか西暦や旧暦という学者の頭にあるような問題に拘ることなく
暦の上では、都会の5月5日が子供の日でも、田舎はひと月おくれで
6月5日も「子供の日」ということもあり、男の子がいる一般家屋の多くでは
まるまる一ヶ月以上もコイノボリをあげている。
そしてそういう日は、一年に一度、
野生に生息する草のうち、ヨモギとショウブの葉っぱを風呂へ入れて
『菖蒲湯』というものに、まず、その家の長男が入る。
んで、成人であるなら酒も飲めるので、チマキを食べる日の夜は
『ショウブ酒』というものを呑む。男だけが。
それは昔からの慣わしで、自分の人生。これからの男としての生き方に
「勝負がつく」ということから、暦の上での祝いごとのひとつであったわけだ。
家の前の田んぼの周りにも蓬やショウブはいっぱいあるので
そういうモノを花屋で買ってくる心配もない俺の家出は
子供が1歳の頃から毎年やっている。
気分的な問題だけど、そういう風呂へ入る前と入ったあとでは
どことなく自分自身でも何かが成長して前へ進んだようにも想える。
    
    
俺の家のコイノボリは、もう5年目になるので、この気象変化の激しい島では
雨風に叩かれ、通常の出し入れ期間よりも長く陽の光に曝されて、それは 
“おひさま”がワルイわけじゃないんだけど、かなり色褪せている。
んで、そのコイノボリってのは、どこで誰が買ったモノなのか? 
ポールは近所の竹薮から数メートルのモノを運んでくる俺と爺さんの手による手づくりでも
コイノボリと、上の方でクルクル回るヤツ? その主なる部分はすべて
量販店とかホームセンターの「安くても丈夫な品!」ではないし、
俺が買ったモノではない。
今はもう、かなりの進行状態で惚けちまってるけど
自分の家(昔ながらの小さな農家)に、世継ぎの可能性のなかった娘が、
世間一般常識よりも遅くに結婚して、やや遅めに孫まで授かり、
それを近所に自慢する如くの、“田舎に よくありがちな見栄と体裁”から、
田舎町の玩具店で高額な値段で買いつけた代物で
今はもう、買った本人の人生の如く、みすぼらしくも色褪せている状態。
田舎に よくありがちな見栄と体裁ってのは、たとえば
「まだ充分 使えるけんど、隣んちが新しく冷蔵庫 買ったからウチも買い換えよう!」
とかいう、程度の低い大衆意識そのものをいう。
自分自身の筋の通し方もほとんどなく、右を見て左を見て上下の顔色を覗って生きて
「みんなと同じようにやってりゃぁ安心」というような風潮の、
人としても、その品格に欠けるような
田舎(者)根性のこった。
そういうのも、今もまだ、日本全国のどこにでもある。とくに高齢者の多い田舎にはな。
黒船来航時代に遡って、明治・大正・昭和の旧い常識やシキタリ、
今の時代に生きるためには、もう役に立たないような腐った慣わしとか、
そういう賞味期限切れなモノを意識・無意識に関わらず、
ただ引きずって来ただけの日本の世の中なので
明治・大正・昭和のレトロな感覚にノスタルジーを感じたり
旧き善き時代の風習を見直そうと考える地域活動や運動などとは別に
今の時代は、日本人である大勢の者に、
今でも捨てられない安物の靴が何足も下駄箱の中で黴てる人生のようなもんだよな。
http://ameblo.jp/badlife/entry-10033920880.html  May 17, 2007 
現代医療や
最近の教育現場 にしても、国の経済(科学や宗教、カネで回るマツリゴトを含む)にしても
政府が玩具の将棋ゲームみてぇなことをやってるうちは
少子化や高齢化に悩める今の日本人の苦悩は日増しに悪化することになる。
汚職も自殺も犯罪も、医療難民も奇形児出産も、何かの資格取得を済ませた人の失業もニートも、
学校や職場の虐めも政界の深い闇も、ウワベだけの地域格差対策も生活格差の穴埋めも、
そういったことは単に、義務を伴わない個の権利の勝手な主義主張を並べてる教育の垢でしかない。
少子化なのに、なぜ青少年の自殺や犯罪が増えるのか? 
戦後に一生懸命に生きたつもりの高齢者の余生は楽しいはずなのに
どうして、最期まで自分の力で自分の肉体を運び動かすことができないような惚け老人が
今の日本の世の中に多いのか? 
そういうことに、素直に疑問を持つべきなのに、
日本の将来有望株であろう最近の20代後半~30代、40代、50代の日本人の仲には
「彼氏もいません」「彼女もできません」「結婚しても子供はつくりません」
などということが、人類の子孫繁栄の義務には関係なく、
個人の権利や時代の流行り廃りのようになってる変な社会。
こういう世の中では、かつてアメリカの地で幌馬車の旧いホロ生地から作られたズボンが
ブルーカラーの労働階級に普及して、今や、着る物にも食べる物にも困らず裕福な
発展過剰国の日本では、その“貧乏人の色”をヴィンテージだのプレミアだの
「色褪せ方にも味がある」だのというファッショ的ファッションとして持ち囃して
結婚や「子づくり」という本来あるべき人間の姿の時期を外した人に向けての応援歌まである。
ちっとも新しい時代の自然の成り行きではない。
人類として自然界に対する叛逆行為でしかねぇじゃん。どの生き様も。
…いや、今はまだ、この云い方は云い過ぎかもな。
まだ本当に恐ろしい現実の世界へは到達してない。
誰も。
    
そんなふうに色褪せても世間の埃で煤けなくても、
5月5日の「こどもの日」のコイノボリなんてもんとは無縁な人もいて
やがては無縁仏になりそうな方々にとっては、天より低い恋ノボリ。
巷のコイノボリも恋ノボラン状態。
云い方を替えると、ある程度の(中途半端な)五体満足で
ユニセックスカラーとしてのグレーのジーンズを申し合わせたように穿いている男女年齢を問わず、
「自分が生きてるだけで この世は終わり」風な、固体満足。
まぁその程度だ。今の日本人のほとんどは。
おかしいだろ? どう見ても。どう考えても。
これが人間の世の中なのか? 
そういう意味でも、
昨日まで35年間も歌い続けた人の人生における一曲、
汚れなき天使のブルース #
そこに描かれた人類の恵みとしての音楽の素晴らしさも理解されないほど
今の日本の世の中の男女の区別・識別・判別は不明瞭・不透明・視界不良にカタマリつつある。
http://ameblo.jp/badlife/entry-10034735784.html  May 26, 2007 
http://ameblo.jp/badlife/entry-10032595081.html  May 04, 2007 
    
俺は今、個人の価値観とか誰かの権利だとか
何者かの自由意志の尊重の仕方、その捉え方ウンヌンの話をしているわけじゃねぇよ。わりぃけど。
赤組でも何でも、「教育は素晴らしい!」などと人間の薄汚れて行き詰まった部分を
今まだ、なんとか引きづり、ひきつって
自然界に対しても突っ張った生き方に徹してる人 が実際にいた として
もしも、
そういう理屈を捏ねたい方々 があるなら…という設定で、
んじゃぁ、訊きますけど、個人てなに? 
その存在の意味、自分自身は今、この地球上で何者なのか? 
男なのか? 女なのか? 人間なのか? 
人間てのはどうして、この地球上に存在しているのか? 
俺に納得いかせるように、『何かの本の知識』に頼らず、
自分自身の言葉で応えてみな。できやしねぇから。 ザマミロ。
俺か? 俺は書いてるじゃん。堂々と。自分の言葉で。
これをインターネット上で誰か他にやってっか? 
見たことねぇぞ。人間とは何かの答えを明確にしてるとこわ。
    
ただ、俺も完成のありえない人間だ。
本の知識や他人の人生の考察の途中経過や、
中途半端な「習い、習わせ、植えつけ」のナゾリ、ナスリ合いで
テキトォ~に出来あがっちまうわけにもいかない。
そんなのは団塊世代に任せておきゃぁいい。
人生に失敗はありえない。成功もありえない。日々死ぬまで成長あるのみ。
目的は何かを嘲笑って死ぬことではない。
いかに今日というこの一日、この瞬間を
自分を見失わずに、その姿かたちも、その精神も、
自分らしく満足して生きられるか否か…
それは単に、目先鼻先の欲求を満たしながら自由奔放に、勝手気ままに生きるということでもなく
解脱する必要ない人が瞑想する必要もないし、
その人生のどこかで自由を束縛され、満たされない人生に言い訳をテンコ盛りにして
世捨て仙人や先祖の生き方に拘る必要もないし、その場シノギでの癒しを騙る必要もない。
常に、いついかなる時も、自分自身であることに徹すりゃぁいいだけのこった。
簡単だよ。
http://ameblo.jp/badlife/entry-10028711466.html
男でも、女でも、その肉体も心も、創られた通りに、
自分に素直でありゃぁいいだけのこった。ほかになにがある? 
それこそ「ナニナニ健康法」とか「ナントカ・テクニック」なんてことも必要ない。
やりたい人にだけ勝手にやらせておきゃぁいい。
そんな小さな王国で、いつまでも お山の大将を気取りてぇなら、一生やってりゃぁいい。
平和なツラを見繕ってな。
俺はもう、そういう連中との付き合いもよした。まっぴら御免。
結局、寄ってタカって誰かが誰かを悪モノ扱いしないと小さくひとつに纏まれないでいやがる
教育も、医療も、経済も、宗教も、政治も。この狭い国土の日本劣等の中だけでな。
世界は拡い、そこでその中で独りの人生なんてのは、あまりにも短すぎる。
どうすりゃぁいいのか? 
自分から、自分だけが独りだと想わなきゃいい。
人間は誰もが、勝手に産まれて勝手に死ぬわけではない。
国境も、人種も民族も、思想も、宗派も関係なく、
“自分の今”をストレートに表現するロックンロールは、そうやって
世界中の人間の心と心をつなぐことを大きく発展させてきた。
    
    
と、ここまでの内容は、今日まで、ある程度はシツコク書いてきた。 June 27, 2007 21:21:21  
たいした進歩もなかったかも知れないけど 
俺はもう、そこから先へ進まなければならない。

    
    
    
    
    平常心を装わずに、つづく。    おたの隅に。  
                         http://ameblo.jp/badlife/entry-10039594454.html
    
    
    
    

 
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