部活動と不良品レッテルの嘘。    (20年前以上のお値段です!)  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
    
    
     
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    昨日は子供の運動会へ参加して、ふと… 
    色々と想い出した。

    
中学生のとき陸上部だった。
最初は卓球部だったんだけど
実際に入部してみると、その時期の俺がいた学校では
なんとも面白みのない卓球部だった。
夏の暑さの中も冬の寒さの中も
天井にはアスベストが貼りつけられた換気の悪い体育館内で
雨の日になると他の運動部の連中が練習場所を占領して端へ追いやられるし、
「この学校ではオレが最高!」
のような得意顔。態度。その程度の競り合いの中での小山の大将の面々…
ただ一人の先輩を除いては、そういう先輩ばかりだったので
本人達はシャモジを持った戦国武将かナニカのつもりでも 
そんな小さな王国の王子様みてぇなのが嫌いな俺としては
その後ろに何時間も立ったままタマ拾いやってても
「つまらねぇ~。」
ということで、スグに帰宅部になった。
それでも夏休み前に、顧問の教師から
「黒いTシャツを買いなさい!」
と言われてアシックスの安いTシャツを自分の小遣いで買ってやって 
夏休み中も何度かタマ拾いの現場に顔を出してみたんだけど
やっぱり張り合いがない。くだらん。
顧問は年配の女教師で、担当教科が女子の家庭科だった。
日常的に俺の顔なんて覚えてなんかいなかったんだけど
2学期になってから、単に出席簿で名前を確認するたびに職員室へ呼び出して
「やる気ないなら他の部へ行きなさい!」
などと事務的な配慮が見え見栄の指導?… or 指図?
ワタシ立派にセンセイやってますの感じだった。
そのまま中学一年の3学期を終える間際の、そんなある日、
放課後の技術室の前を通りかかると
なにやら楽しげにワイワイやってる先輩の姿があった。
技術部というのは、俺が中学生だった時代(1980年代)には世の中に
自宅で音楽を聴くにはラジオかレコードしかなかったので
自作ステレオとかラジオ製作とかアマチュア無線とか、そういう電気系の分野でも
真空管とか半導体のプリント基板とか
今でいうところのアナログ系の趣味と実益の世界だった。
まだ「オタク」なんて流行語もなかったので、当時の若者の間では
優等生のちょっと下のランクで、運動ニガテな連中の集まり? 
まぁそんなとこだな。
んで、中学2年になる前にクラスの担任(機械体操部顧問)
「技術部へ入りたい」
と申し出たところ、
「ダメだ」
との一点張りで、俺の自由意志も尊重されなかった。
「どうしてですか?」
理由を訊くと、
「他へ移りたいなら運動部はいいけど、文化部はダメ。」
それしか言わなかった。山本先生わ。
そのまま2年生になった春の ある日、
「ウンドウ苦手な俺は今日も帰宅部!」
ということで、他の不良っぽい生徒と一緒に帰ろうとすると
今度は2年クラス担任の剣道部顧問が俺を呼び止めて
「おまえ、部活動、どうするつもりだ?」
と言うので
「辞めます」
するってぇと、
「辞めて、そのあとどうする? 明日までに決めてきなさい
宮沢賢治大好き人間の国語教師、田島先生は竹刀を片手にそう言っていた。
仕方ない。一晩考えて、翌日には返事をかえしてやったんだけど
その決意に至るまでの流れはこうだ。
「おめぇ、オレと一緒に陸上部でいいじゃん!
べつに出なくたっていいんだよ。名前だけで。
今はそういう部になってるから。
明日さぁ、先輩(陸上部部長 / 当時の不良番長)にもクチきいといてやっから…」

という、当時つきあいのあった不良を気取った生徒ヘンな学習塾も一緒の勧めもあって
球技全般が苦手でも長距離走(マラソン)は好きだったので
俺は3000メートル種目の部員として、その春 晴れ晴れ陸上部へ入部した。
それでも、
「今まで通り家へ帰って好きなことできるし、
顧問(技術部顧問兼任の教師)も煩くないならオバケ部員でいいな…」

ということで中学2年の一年間で放課後の部活動へ出たのは一日だけだった。
ところが、3年生になった春、いきなり陸上部の顧問が変わった。
するとなぜか、それまで
「3年の帰宅部の生徒は、ほとんどが陸上部の幽霊!」
という世界が崩れて変わり、街の公園の公衆トイレの裏でアンパンやったり
学校のプールの女子更衣室に隠れてタバコふかしてた
(俺はやってない!)
ような連中までもが、なぜか、中学生活最期の部活動に燃えていた。
「おめぇも出ろっ! 出ないなら明日、体育館ウラ へ来いっ!」 (俺に入部を勧めた同級生)
ということで、最初のうちは相手にしなかったんだけど
それからは俺の顔を見るたびに、殴る蹴るの暴行を働くので
いやいやながら出ることにした。
「オメェよぉ、オレ知ってんだぞ! 
それなりに足がはえぇんだから、ちゃんとやりゃぁ
今からでも大会に出れるんだからよぉ。なぁ…」

ということで、ソイツら(不良組み風の同級生の面々)
普段の体育の授業や年に一度のマラソン大会での俺の姿を見てたのかなんなのか
顧問の小暮先生にまで話を勝手に通していた。
「受験勉強が忙しいから毎日は無理だよ」 (言い訳する南)
「るせぇっ!オメェだけじゃねーだろがっ!」
てなわけで、3学期までは、ほぼ毎日の放課後がマジメな陸上部の部員になっちまった。
確かに、新任の小暮先生の指導は、
スクールウォーズの山下真司さんの如く(?)優れた指導で
その年までのダメ陸上部を県の大会のトップランクまで昇らせた。
あのままスンナリ技術部に入っていたなら今頃は爆弾づくりでもやってたかも知れない
という俺は、読者のみなさんもご存知の通り、競争社会に無関心で
何かのスポーツゲームの世界であろうとギャンブルであろうと、
社交性はあっても、強調性に欠ける人間なので、結局、
どの大会においても、3000メートルの補欠選手だったんだけど、
他の部員は自分の能力を引き伸ばしてくれる先生の指導に伴い、
下級生の女子からキャーキャー騒がれるのも、それなりの“やる気”につながったのか(?)
しばらくはタバコも酒も断って
当り前なんだけど、それぞれの種目で
義務教育生活最期の一年を充実させていた。
そんな中学3年の想い出の中にあった、当時の陸上部顧問、
小暮先生の台詞が幾つか脳裏に浮かぶ。
「オレは オマエたちの苦しんでる顔を見るのが楽しくてたまらない。もっと見たい!」
そう云いながら、やる気のない姿や中途半端な走りを見るとスグに
ソレの癖をつけさせないように、生徒のケツを おもいきり蹴飛ばしていた。
でもって、また、その生徒の限界までグラウンドを走らせる。
「どうだ、苦しいか? 肺がイテェだろ。だったらタバコやめろ。」
くやしい生徒は、また走る。
そしていつしか、走らされるのではなく、彼等は自分から走りたいと想うようになっていった。
ある日、短距離走(200,400種目)では県下いちばんという生徒が
自分の能力の壁にぶつかったときがあった。
するってぇと、小暮先生は日々の練習前の部員を目の前にして
「短距離ってのは、速いヤツは生まれつき速い。だけど、ある時かならず、
自分の記録をそれ以上は伸ばせないときが来る。必ず来る。
だからスタートで勝負するしかないんだ。タイミングの問題。瞬間の問題。
オレが知る限りのその技術を徹底的に教え込んでやる!」

「ハイ、先生!」 (手をあげる部員の一人。)
「なんだ長沼」
「長距離の場合は?」 (俺の後輩。同じく3000メートル種目。)
「ああ 長距離なんてのは馬鹿でいいんだよ。
走る距離が長い競技は、頭つかわなくていいからな。
長距離走は、馬鹿であれば馬鹿であるほど向いてるんだ。
わるいけど、そういうことだ。
だけど、短距離の場合は頭を使う。
要領のイイ奴でないとダメなの。
これはもう決まってんだ。オレが決めたわけじゃないよ。
でもそうなの。長距離は馬鹿であればあるほど、それに適してる。
なぁ、南。」
(爽やかな笑顔)
「あ、はい。(なんで俺?)
「だから長沼ぁ、オマエも余分なことは考えなくていい。
とにかく、自分の好きに走れ。
でも途中で諦めるなよ。
オマエが誰も見てないところで諦めても、そんなのオレには直ぐにワカルんだからな」

ということで、言葉は言葉なんだけど、実践的な部分では
その当時の陸上部の部員てのは、俺も含めてほぼ全員に一人一人、
400メーターなら400メーターのトラックを走らせると
スタートした場所から、ちょうど一周してラインを踏むまで60秒ジャストだった。
要するに、時計なしで自分の感覚だけを頼りに走る速度と時間を一体化させる。
そこに主だった指導はなかったけど
ストップウォッチを持った小暮先生は、最初は全員をトラック一周させる。
んで、運よく調度一周で一分間JUSTに入ったヤツの顔は見ないで
入れなかった連中を見て大笑いしやがる。心から嘲笑う。
するってぇと、頭にきた野郎どもは自分ができるまで
意地でも毎日あいてる時間に練習するわけだ。
それでも、できないヤツはできない
なので小暮先生は、ソイツが自分にできることを見つけさせる。
ハードルとか高飛びとか幅跳びとか砲丸投げとか…
陸上競技ってもんは種目が多種多様の己との闘いが多いので
走りがダメでも、ほかで自分自身を見つける可能性も用意されてるわけだ。
そうやって、帰宅部であろうと文化部へ移りたい者であろうと
小暮先生の場合は手を替え品を替え、
一人の生徒に自分の限界との勝負を教え込む先生だった。
それを趣味でやっていた。
んまぁ、俺の場合はともかく、
地域社会や他の教師連中から不良のレッテルを貼られていようとどうだろうと
小暮先生には そんなこたぁ、どうでもよかったわけだ。
体育の授業ひとつにしても、部活動のシゴキのように厳しかったけど
野球部からもサッカー部からも蹴球やバレー部からも
当時の小暮先生の陸上指導を楽しんで受ける生徒で人気があった。
その先生は自分自身が、かつては陸上のスプリンターだったんだけど
どちらかの脚を運動障害でダメにしてた身体だった。
それも生徒の前でちゃんと告白して、どんな怪我でも
怪我はすべて自分の責任であることも訴えていた。
やったのは自分。すべてにおいて、やってるのは自分ということだ。
    
んで、その連中と高校進学は一緒だったんだけど、
俺は
高校時代、新聞部。部員は独りだけだったので最初から最期まで部長
勉強なんてのは嫌いで、3年間、毎日ガムを噛んで授業を受けてた。どんなときも。
そんな奴なので、美術と音楽以外の成績は劣等性と同列だったけど
生徒会やってて、学校や教師の指導の仕組みを探ったりもしてた。趣味で。
当時、進学した公立高校が文部省配下の指導から
県の指定する模範高校の一つとして、あらゆるデータが県の教育委員会に流されていた。
進級して卒業するには偏差値で決められる数字の世界の厳しいルールがあって
不良品はすべて排除されてた。
退学した連中には中学時代に同じ陸上部だったやつらばかりでな。
いま想えば、学歴偏重教育常識 最前線の時代だったかもな。
なんだかねぇ、俺としては、いきなり昨日までいた野郎が
気がついたときには学校へ来てねぇので
どうしたかと思うと、どっかのスーパーでバイトしてたヤツもいたけど
ちょっと自分のカネが出来ると、街でバイクを乗り回したりして警察にも世話になったり
まだ未成年なのに、パチンコ屋でウロウロしてたり
そういうのが同級生にゴロゴロしてる時期があった。
ある独りの生徒は、わざわざ数学の期末試験の採点を小細工されて
たった一人の数学教師のひねくれた我侭から学校をクビにされてた。生徒なのに。
その問題の発覚一歩手前で、生活指導のベテラン教師の働きかけもあり
事は闇に葬られてた。当時の文部省配下の県の教育委員会指定の模範公立校なので。
やられた本人は しばらく社会に疑問を持って、その教師も憎んで、一時期は家出してたけど
いつまでもそんなこともやってはいられなかったのか、ちゃんと自分で職を見つけて
今でもそこで働いてるとするなら、勤続20年以上になるな。
俺としては、当時の教頭先生が許せなかった。
「校長先生が今年で定年退職なので、なんとか平穏無事に勤めあげさせたい」
あの一件の理由は、それだけのことでしかない。
ほかにも担任教師が個人的に抱えていた問題とか細かいことはいろいろあったかも知れないけど
大人の勝手な都合。
そういう、いつかは誰かが損をしなければならない世の中もあって、
「世の中には諦めざる負えないこともあるんだよ、南」
ってのが、俺という…表向きは生徒会長のツラでありながらも
俺の不審な気配を気にする生活指導の先生の汚い台詞もあったな。
あの人も、今はもう定年してると想う。教頭先生もしかり。
んまぁ、そういう生徒は一人だけじゃなく、後輩の世代にも色々あった学校なんだけど
俺の知る限り、学年の上下を考えても、
書類上の数字で評価されるやり方で、留年どころか退学になったのは、30人はいたな。男女共に。
「そういう時期だった」といえばそれまでなんだけど、今の時代はどうなのか? 
んまぁ、自分は自分。他人は他人の人生なので
今になってこんなことをとやかく云っても生姜ねぇので
八百屋よりスーパーで買う人が多いかも知れねぇけど。 
くさいよ。)
ああ、そうだ。
小暮先生には一度だけ、どっかで会ったことがあったな。
20歳のとき学童保育のバイトやってて
小学生の子供7~8人ひきつれて
バスで山の方へ遊びに行ってた日。
ちょうど、今くらいの時期だったかも知れない。
桜とか山菜とかの時期も ぜんぶ終わっちまって、田んぼでカエルが鳴いてた時期。
みんなでワイワイガヤガヤ、バスを降りると
目の前に見たことあるような顔の男が突っ立ってて、
それが小暮先生だった。
「こんにちわぁ!」って挨拶すると、
「おおっ!」
って、笑顔でも、なんだか あんまり元気なさそうだったな。
訊くと、もう学校の先生はやってないって云ってた…と思う。(記憶が定かでない)
    
以下、それらの学童と田舎道を歩きながらの会話。
    
「おめぇ、あの人、知ってんのかよぉ!」 (連れていた子供の一人が俺に質問。4年生。男)
「ああ。中学生の時の先生。いろいろ世話になった」
「おいっ、みんな聞いたか! あれがコイツの先生だったんだってよぉっ!」
「ねぇ、どんな先生?」 (女の子。3年生の質問)
「ああ? ときどき ちょっと恐かったけど面白い先生だったよ」
「なんて名前?」
「コグレ~…だったよなぁ…
「おいっ、あの人、コグレっていうんだってよぉーっ」 (一年生、男)
「どういうふうに こわかったぁ?」
「ああ? ケツ蹴っ飛ばされた。」
おおっ! みんな聞いたか! 
 コイツ、あの人にケツけっとばされたんだってよ!」
「ねぇ、なんでなんで?」
「おいっ! 白い線から出るなよな。」 (当時の俺。保育免許ナシの指導員)
「ねぇ!どうしてお尻 蹴られたの?」 (シツコイ3年生。)
「うん? 部活で中途半端な走り方しててヘラヘラ笑ってたときに
 『最期までちゃんと走れっ!』って注意されな…。」

「あっ! じゃぁオメェがわるいんじゃん!」
「そうだ。俺が悪い。」
「ダメだよ。ちゃんと最期まで走んねぇとよぉーっ!」
「そうだな。やるときはちゃんとやらねぇとだな。
 おいっ! クルマが通るとこへ ハミ出んじゃねぇっつーの!

    
あの日、俺が見た小暮先生は、今どうしてるのか? 
まぁそれも、自分は自分。他人は他人の人生なので
今になって想像してみても成るようにしか成ってないと想うけど
あの元気なさそうな顔は、ちょっと印象的だったな。
何があったのかは知らないけど、俺の知ってる小暮先生は、
もっと元気ハツラツ、『崑ちゃんのトンカチ歌自慢』…だったよ。 
…古すぎる?
    
それと、陸上部だった連中。
ときには俺をぶん殴った野郎も
今では、ほとんどみんな結婚もしてる。
んで、ソイツらのほとんどは20代後半から30代にかけて
自分で炉辺焼き屋を経営するとか、どっかの中小企業の社長に気に入られて
親会社の本社勤務へ推薦されるとか、夜のスナックのバイトから客を摑んで
暖簾ワケした看板を出すとか、なにかしら自分の生まれ育った街を利用して生きてた。
中には六本木で店かまえてるやつもいた。
今は、どうしてるか知らねぇけど、おそらく、
世間の敷いたレールに乗っけられた生き方には徹していない…と思う。
なぜなら、自分の技量、自分の限界を弁えてるので。
たぶんな。
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    梅雨はどこへ行っちまったのかワカラナイような季節だけど…
    今日の一曲。
伊丹哲也さん 、 
    
     
雨を見たかい  
    
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    降りしきる雨のひとつひとつが、
    ついさっきまでスズメがいたはずの地に当たると、王冠をつくる。
    時には楽しげに… 
    それはきっと誰もが、ずっとずっと むかしに
    自分の眼で観た世の中の神秘かも知れない。
    そんな情景を見事に描くギター伴奏に乗せて 
    いつの日にかの何かを振り返る、今日の誰かの心を歌ってくれています。
    晴れ晴れとした空を忘れさせない、あの歌声で。

    
    
    
    
    
    
    
    じゃぁな。
    
    
    
    
    
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    その Permanent Vacation も なんとかしようぜ!
    
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