樟脳寮駅に着いたのは14:47であった。どうなることかと思ってお客さんを見ていると、次々に降りてゆく。


裏道・横道の王道


漸く事情がわかってきた。


樟脳寮駅付近で土砂崩れがあったために、阿里山森林鐡路はしばらくの間運休になっていたらしい。

今回の計画をしているときにも、運行しているのかどうかが心配であったが、無事に運転はしているらしく、台湾東京事務所でも無事に時刻表をもらえていた。“自98518日起”と書いてあり、汽車が走っていることは安心していた。そして実際、ここまで乗ってきたが、まだ完全に復旧していないのだ。

不意の災害で線路が寸断されてしまった場合、その先と手前に車両がそれぞれ残されていれば、両者の間に代行バスなどの輸送手段を用意して接続させることができる。しかし、この樟脳寮からは阿里山鉄道のハイライトといわれる独立山ループ線が始まるため、地形が狭隘でバスなどを走らせるほどの道路も無いのだ。


しかれども全区間を運休させないのが、台湾の商魂であろうか。

台湾における観光に対する熱意はかなり強いらしく、こんなことでは運休にはしない。乗客たちを降ろして、登山道のような道を通らせて、反対側に待っている列車まで歩いて接続をとるという荒業をやってのけている。

アフターケアも忘れていないようで駅員が、これから歩いてゆく乗客たちに雨合羽を無料で配っていた。


裏道・横道の王道

裏道・横道の王道

樟脳寮駅にはいくつかの露天が商売をしている。

駅前は参堂のように狭く、お土産屋が並んでいる。

他の客たちは写真を撮りながらなかなか楽しんでいるようである。私は一人だし、周りの人が何を言っているのかもわからない。

黙々と歩くが、こんな目に遭うのかと嘆くようなことはない。むしろ、不思議な経験をしていることが楽しかった。


裏道・横道の王道

普段は住人と、登山客しか通らないであろう小道を過ぎて、やがて木道になる。反対側から下ってくる人もかなりいて、おそらく阿里山から下ってきた乗客であろう。道が狭いので、譲り合って通る。本格的に山登りらしくなってきた。

“接続処”まで300メートルなどと、親切にも看板までしつらえてあって、歩いている人たちはその前で写真を撮ったりしている。


裏道・横道の王道

裏道・横道の王道

10分程度歩き、残り100メートルの看板を過ぎると崖下に先ほどまで乗ってきた車両と同じディーゼルカ機関車と車両が見えた。汽車が止まっている場所の先にはブルーシートがかかっていて、工事中であることを歴然に物語っていた。工事箇所ギリギリに止めているので、編成の先頭はトンネルに突っ込んでしまっている。


裏道・横道の王道


裏道・横道の王道

それでも運行している阿里山森林鐡路は純然たる観光鉄道であることを証明しつつ、しかし観光鉄道がビジネスとして成り立つこと、いや鉄道が台湾の方々にとって大切な財産であるということを証明しているように思えた。


独立山のループ線はなんだかよくわからないうちに終了し、車内もハイキングを終えて空気が倦んできた。上ってきたときは珍しかった森林も馴れてきたし、居眠りをする乗客も増えた。

私もボンヤリとしてきて、もはや前傾姿勢で景色を見ることも無く背もたれに寄りかかっていると、棄てられた軌道敷が見える。トンネルは坑口がレンガで古さを感じる。


裏道・横道の王道

裏道・横道の王道

列車が急停車をした。何事かと、開かない窓に顔を近づけると、乗務員たちが何かをどかしている。きっと、枯れ枝か何かを挟んだのであろう。数分停車して、発車した。

阿里山森林鐡路が姉妹関係を結んでいる静岡県の大井川鐡道井川線に乗ったときも、倒木で急停車した。トロッコレベルの鉄道では珍しいことではないのかもしれない。


裏道・横道の王道

4:15奮起湖駅着。

駅弁売りがたくさん乗ってくる。奮起湖の駅弁は有名なようで、これから阿里山での夕食が待っているはずなのに、多くの客が買っている。私も一つ買った。まだ暖かかった。


裏道・横道の王道

多くの客がホームに降りているので私も降りる。時刻表を見ると5分程度は停車するらしいので、私も降りてみる。駅前は路地で樟脳寮よりも土産屋が軒を連ねている。奮起湖は阿里山森林鐡路の列車交換駅として発達したという。駅弁もその産物らしい。駅前は賑わっていて、台湾ならどこにでもあるセブンイレブンがここにもあった。


裏道・横道の王道

奮起湖を発車し、駅弁を開く。鳥の足が大きく載っていて、日本の駅弁のようなきれいに盛り付けをするということはせず、ひたすら実をとっている。味は中華圏らしい香りの強さも無く、食べられる。鳥の油で手がヌラヌラし、全部食べきると眠くなった。


裏道・横道の王道

目が覚めると心なし開けていた。“阿里山青年活動中心”なる建物があったり、久しぶりに踏切がり、間もなく終点が近いことを感じるが、それでもスイッチバックを繰り返す。50‰の勾配標識が見えた。


裏道・横道の王道

阿里山には5:43に着いた。駅の構内は広く、小さな客車たちが並んでいる。


裏道・横道の王道

乗客たちはすぐに改札口を出てプラカードを持った旅館の出迎えに集まって消えてゆく。私は“美麗亞山荘”なる宿泊施設を嘉義の婆に予約してもらっているはずだが、懐疑的に思っている。

このホテルだか旅館だか、それとも山小屋だかの出迎えはあるのであろうか。出迎えは阿里山一等のホテル“阿里山賓館”を初めとする優等客のためだけではないのだろうか。

麓で客引きをしなければならないような施設がわざわざ迎えには来ないだろう。新宿でも赤坂でも客引きをするような店に良い店は無いではないか。

ぐるっと見渡しても目指す看板は見当たらず、諦めて地図から探そうと駅舎の写真を撮って、明朝の御来光見学列車が出る時間を調べて、もう一度駅前に出たら、どこにいたか青年が当該の施設の看板を持ってバンに乗り込もうとしているところであった。

既に台湾人の夫妻が乗っていた。3分くらい走って大きなお土産屋やら、観光案内所やらある広場を抜けて、その裏手に下るといくつもの宿屋が並んでいて、そこに“美麗亞山荘”があった。

奇しくも“呉鳳賓館”の隣であった。けれども、“呉鳳賓館”の行灯は暗く、建物の外壁は解体されていた。


裏道・横道の王道


裏道・横道の王道


カウンターでチェックインをする。若い兄さんで、旅館の番頭という風情はない。お互い、たどたどしい英語で会話をし、嘉義の婆からもらった薄汚いバウチャーを見せたら、部屋の鍵をくれた。

部屋はこぎれいで、バス・トイレも付いていた。山小屋をも覚悟していたから、安心する。

部屋に一人でいても仕方が無いので、外へ出る。件の兄さんが出てきて、ディナーかと聞く。裏手に上がれば食べられると言うことを聞き、会釈をする。悪いホテルではない。

並んでいるホテルには日本語のキャプションがついているものが少なくない。しかし、我が山荘には無い。

薄暗くなってきて、私はなんとなく寂しくなってきた。

夜は長いが、長い夜を共にする仲間もいないし、飲み屋も無いようだ。早く酔っ払ってしまい、早く寝たかった。宮脇俊三は阿里山の夜を「早く眠ることによって早く朝を迎えたかった」と書いているが、私もまったくその気持ちであった。

長くなるであろう夜のため、嘉義で買い損ねた台湾ウイスキーを買おうといくつかの商店を回ったが、見つけることはできなかった。


明日は阿里山森林鐡路ではなく、バスで山を下るつもりである。

列車を待っていたのでは、遅くなりすぎて、台北までの間での途中下車ができなくなってしまう。念のため、嘉義で阿里山からのバスのキップを買っておいた。

バス停は先ほどのおみやげ屋やら案内所のある広場にあって、セブンイレブンの前が乗降所になっていた。場所がわからなくて右往左往していたら、ここだと言うことで、外に出て見上げると“阿里山公車総站”とあった。セブンイレブンとスターバックスが間借をしているのであった。


裏道・横道の王道

夕食は混んでいる食堂の隣が空いている食堂だったので、判官びいきで空いているほうに入り、五目ラーメンを頼んだ。

ビールを頼むと瓶が出てきて、蓋を開けてしまったのでそれを飲みきることになった。諸外国の、こと食堂では生ビールはあまり飲まないのであろう。私の後には誰も来ない。入ってきた集団があったが、席に着いたのに隣の店へ移ってしまった。ホール係のおばさんがメニューを片付けている。酒もまわってきて、なおさら寂しくなってきた。

おばさんは日本人かと日本語で声をかけて、麺を運んできた。先ほど食べたばかりの駅弁が残っていて苦しかったが、おいしかった。店を出ると、「アリガトウ」と言った。


裏道・横道の王道

宿に戻ると、私を駅から運んできた青年と、カウンターの兄さんと、どこから来たのかお嬢さんがバドミントンをしていた。

もう8時だが、台湾の夜はこれからなのだ。

しかし私は、シャワーを浴びて床に入った。

裏道・横道の王道-090810_2216~01.jpg
過日、夜の予定が空いてしまった私は、これから行く予定の旅先の勉強をしようと帰途についた。

私は埼玉県の田舎に住んでいて、私の部屋からは富士山が見えて、隣は市街化調整区域の畑である。まぁ、そんな田舎に住んでいる。

だから、周りの輩も田舎者の集まりで、ロクな奴等が住み着くわけはない。無論、私もそんな一人である。

呑み屋が少ない。
店がなくて、物足りない。地元で飲むという発想はまず生まれなくて、やはり都内で呑んでしまう。
ロクな人間がいないから、ロクな店も生まれない。それが私の地元観であった。

その夜、暇になったことを活かして、ビデオでも借りようとTSUTAYAに行こうとした。
私が使っているひとつ前の駅にある。

ここは終点になる列車があるためある程度大きいが、言っても田舎のお山の大将である。

その日は、ふと遠回りをして、街区ひとつを大回りをして歩いた。するとBARの看板がある。こんな店もあるのか。私は思った。

躊躇わず惹かれて階段を上がり、しかし雑居ビルの2階。妖しげなマッサージやらスナックが並んでいる。典型的な場末の雑居ビルである。その店は最も奥にあった。

おじさんが独りでマスターと話しているだけで、他に客はいない。

カウンターメインで、奥に幾つかテーブルがある。バックバーにはウィスキーとリキュール。本数は多くないが、その分ゆとりがある。

おじさんは私が席につくと、マスターと何やら会話をして、去っていった。私に気をつかってくれたのだろうか。会釈をして消えた。
良い店だなぁ、私は感じた。

一杯にビール。
二杯にジンをロックで。

週頭の平日、9時前にBARを訪れる客は私一人である。

マスターは一見で来る客は珍しいと言い、住んでいる場所から話が弾んだ。

私が通っていた小学校に行っていたと言い、懐かしい店の話が出た。聞くと私の8歳上だそうである。

するとマスターが“一斉下校知ってますよね”と言うではないか。15年ぶりに聞く言葉だった。酔った脳に幼い記憶が蘇った。

………

私が通っていた地域には、土曜日の授業終了後、朝の通学班ごとに校庭へ集められ、校長やらの話を聞いてみんなで帰るという仕組みがあった。
ただ、遠いところから順番に帰るので、ある程度近いところの班は暫く待たなければならないし、帰りの道は数珠繋ぎである。決して効率のよい制度ではなかったが、マスターもそれを経験していて、話題になった。

まことに懐かしい。

三杯目にグラスホッパーを頼むと、バーテンダーになってから2回目に作るという。変わったものを頼みますなぁ、と言われた。マスターなりのユーモアかもしれない。

他に客はいない。最初の初老の男性のみであった。しかも話をしているとその人はオーナーであるというではないか。いやいや、人によってどう感じるかは別れると思うけど、面白い。
BARのあり方も、東京都内で山手線に囲まれた場所で営業しているのと、遠く離れた郊外に店を持っているのとでは、姿が大きく違う。
そんなことを、初対面ながらベラベラと私は話して、マスターが酒の勉強をしていた頃の話を聞く。新宿で入ってみたら、シガーを吸う人しかいない店、必ず数万円を財布に入っていることを確認してから扉を押したこと。
いい話で、その道に生きている人の苦労というのは、心に感ずるものがある。

そんな話を聞いて、いやいや良き店を見つけたと思っていたら、このマスターはあと10日で店をやめるという。
おやおや、と思った。昼間の生活をしなければ暮らしは辛いときがある。暫くは昼夜を逆転しない生活ができればと言われる。私のような一般サラリーマンはは忘れてしまいがちだけど、夜に酒を呑むという行為には、酒を興してくれる人がいるのだ。

しかし他にもこの街にはなかなかな店があるというので、もう一件を紹介してもらう。
私はこの段階で結構酔っていたので、余勢を駆って乗り込んでみた。
BARの梯子とは、帰る時間を気にしなくても良い、地元でなければ出来ない余裕である。

先ほどの店はオーセンティックな雰囲気だったけど、こちらはスタイリッシュで都会的なスマートさがある。

先程の店のように雑居ビルの妖しげな場所でなく、通りに面した一階にあるから雰囲気を図りやすい。

中は若い人間が多少いて、賑わっている。マスターは銀座で修行していたということで、バックバーの数も多く、メニューにはイチローズモルトのビンテージがあった。
二件目の私は、イチローズモルトを頼み、残り僅かな時間を楽しんだ。

旅を謳歌し、遠出を楽しんできた私にとって、地元で時間をゆるりと過ごすのは、自分を見つめ直すに均しい価値をもつ行為であった。

私が見失ってしまった、見ようとしてこなかった事実を学んだ、短くも充実した夜だった。

私が卒業論文を書いたのは、今から5年前のことになる。


早いものだ。


新潟県西蒲原郡月潟村を舞台にして、物語を編んだ。


論文ではあるけれど、“物語”と言って差し支えはないだろう。


まぁ、内容はそれほどのものだった。


当時、学部生であった私は、さらに遡ること5年前、いまからすると10年前に訪ねた月潟村を再び訪れていた。


地理学で論文を書くとき、フィールドをどこにするかが運命の分かれ道になる。

学者はどうだか知らないが、学部生レベルで論文を書こうとするとき、当てなど無い。

当てがあったとしても、それが自分の知りたい内容と合致するとは限らない。


私が10年前に月潟村を訪ねたのには訳があった。

趣味が高じたわけで、そのときは、再びこの地に足を運ぶとは全く思わなかった。


新潟交通の電車線が無くなるとき、私は月潟に行った。


雪が時雨る、3月のことである。




それから数年して、大学生になった私は、なにやら論文なるものを書かなくてはならなくなった。

さて、何を書こうか。

この時、私は思った。

“卒業論文ぐらいだぜ、研究ということで何度でも通えるのは”

“でも、俺が鉄道のことをやっても、客観的な研究はできねぇな”

“かと言って、汽車ポッポの無いところへ行くのはヤボだろ”



と苦吟しているなか、大学図書館で、何故なんだろうか、月潟村の芸能である“角兵衛獅子”についての本を手に取った。

民俗芸能をやろうとは方向性を定めていたので、手当たり次第に本をめくっていたのかもしれない。

きっと、そうであろう。




民俗芸能を選んだのは、消え行くローカル線に、影を被せたからに他ならぬ。

地域の力が別方向へシフトしたときに、取り残される前時代の遺産。その性格が私には同じに見えた。



どうせやるなら、二つを兼ね備えている場所がよい。月潟はそういう場所だった。


20045月の末、単身新潟へ降り立った。


当時は学生の身の上、金がなく、ムーンライトえちごで未明の5時頃に着いた。雨が降っているし、心細いし、これから何が待っているかわからないから、新潟駅前のロイヤルホストで時間を潰すのが辛くて仕方がなかった。




朝一番の万代シティバスターミナル発の月潟行きに乗り、着いたのは10時頃だったと思う。


とりあえず当てもないので、かつて訪ねた月潟駅跡に行ってみた。




ここで、駅を管理しているご婦人にお会いしてからが良かった。


来訪目的を話したところ、村長も同じ大学の卒業生だというので、突然なのに連絡を取って下さった。



アポイント無しで、村長と面会して、村長の出張のついでに途中だということで、これまたアポ無しで、保存会の核となっている方を紹介してもらえた。


第一回のフィールドワークで、面通しがこれほどまでに叶うとは正直期待していなかったので、奇跡だと私は思った。




フィールドワークには奇跡が起こるのである。
これが文献研究が中心の学問と違うところであり、醍醐味である。


なんとか様々な方々にお話を聞いて、次への課題というか、生まれたての素材をどうするのか、高ぶる気持。


これはフィールドワーク、巡検をした人にしかわからない。


5時の閉館まで図書館にいて、帰りのバス、雨が止んだ越後平野で、私はベートーベン交響曲第九番“歓喜の歌”を聞いた。


ハイな気持ちと、卒論のためと辞めたサークルのことが、綯いまぜになって複雑だった。

それからがまた辛い。

月潟から万代シティバスターミナルまで一時間少しだから、11時過ぎに出るムーンライトえちごまでは時間がありすぎた。

万代橋で信濃川を眺めて、本屋にはいって、モスバーガーで閉店まで、来るべき大学院試験のために英語の勉強をしたような気がする。



この時すでに就職を諦めていたんだと思う。


裏道・横道の王道

かくして、深夜に新潟を発ち、また未明に池袋へ帰ってきた。

行きのムーンライトでは眠れずに悶々とした記憶があるが、帰りはまったく記憶が無い。

よく寝たのであろう。




2009628()


私はまたぞろ新潟へ出かけた。


既に私の新潟への足は新幹線に変わっていた。



今日は月潟で角兵衛獅子のお祭りがある日で、昨年行けなかったので久しぶりに見に行こうと思う。

月潟行きの電車代替バスが新潟駅前から出るようになっていた。

薄暗く、立ち食いのウドンソバのスタンドが時の流れを感じさせる万代バスターミナルに立ち寄る必要がなくなったのはラクだが、これまでの経験で、万代バスターミナルまで歩かないともの足りず、ターミナル前のバス停まで歩いた。



バスはかつて新潟交通電車線が走っていたルートに沿って走る。

旧東関谷駅は、初めて来たときまだ駅舎が残っていた。

旧黒埼駅にも古びた駅舎があった。




月潟には宿がないので、隣の白根に宿を借り、さらに自転車を借りて走り回った。
その時に立ち寄ったスーパーも無かった。


月潟は変わっていなかった。

ここは本当に変わらない。

消雪パイプの錆のせいで赤くなった街路、電車が来なくなっても駅前の看板はそのままだし、商店街をあるいても無くなった店がない。




裏道・横道の王道


裏道・横道の王道

越後平野のど真ん中に国道も鉄道もないエアポケットのような場所、それが月潟である。




観光ルートには絶対登場しないだろう。名前を知っている人も局地的にしかいないと思う。

私が卒論を提出した2005年3月に月潟村は周辺市町村と新潟市へ編入された。既に地図の上では南区となっている。




そんな場所に、カメラを持った人間が蝟集する日、それが今日だ。


月潟の角兵衛獅子は、土地で割烹を営んでいる3代の女性が育成している。




常磐津“越後獅子”と長唄“角兵衛”は、ともにこの角兵衛獅子を題材にしたもので、邦楽と邦舞に興味を持つ人なら絶対に知っているくらいに有名な曲だし、舞である。

まぁ、裏を返せば、興味の無い人は知っていなくて良い。




私は全く知らないまま、知らない言葉を聞いたまま、読んだままに論文に書いた。

調べてもなんだか良くわからないから仕方ない。調べる気も起こらなかった。




ところが、3年後、そんな世界でお給料をもらうようになるんだから、人生は奇妙だと思う。

話がぶれた。


全国に名を轟かす角兵衛獅子を現在に伝える営為。

そこに至るまでのインパクトとどう向き合ってきたのかが私の論旨で、まぁ“論”などはなく、聞き書きに等しい代物であったが、内容は私の責任で、お世話になったおかみさんがいる。




角兵衛獅子の舞が行われる白山神社へゆく。途中、田園の風景を見ていたりしたので、着いたら既に始まっていた。

裏道・横道の王道


裏道・横道の王道


観客を見渡すと、卒論の時には大変お世話になった燕の方もいた。一昨年来た際にはお会いできなかったので3年ぶりになる。



見終わって、挨拶をして駅へ行き、最初のきっかけを頂いたご婦人に会う。


裏道・横道の王道

さらに、角兵衛獅子を指導しているおかみさんにお会いして、家へお邪魔させていただいた。

御歳80を越えるご母堂がいらっしゃり、今回もご挨拶ができた。



私を取り巻く環境は大きく変わったけれど、お世話になった小さな農村は、一見に近い旅人には変わらなかった。



世間は21世紀を迎えたけれど、世の中には変わらないものがある。








帰り、新幹線の指定席をとれなかったので、時間が許す限り、新潟駅に近いBARで呑んだ。


裏道・横道の王道


日曜でも営業している店だったが、開店と同時に入るような客はいないのだろう。まだ準備万端ではないところに入り込んでしまった。



ジンリッキーとギムレットを呑んで、カメラと映画の話を聞いていたら、時間の経ち方が急に早くなり、帰り際に土産の日本酒を探していたりしたから、新幹線のホームへ上がったときには列が延びていて、席を見つけるのがやっとであった。




行きたい場所へ行く旅をしているが、遠い故郷の無い私には、懐かしくなって思わず出掛けてしまう場所だと思っている。




裏道・横道の王道

裏道・横道の王道


そして、河。信濃川も、月潟村に沿って流れる中之口川も変わっていなかった。