私が卒業論文を書いたのは、今から5年前のことになる。
早いものだ。
論文ではあるけれど、“物語”と言って差し支えはないだろう。
まぁ、内容はそれほどのものだった。
当時、学部生であった私は、さらに遡ること5年前、いまからすると10年前に訪ねた
地理学で論文を書くとき、フィールドをどこにするかが運命の分かれ道になる。
学者はどうだか知らないが、学部生レベルで論文を書こうとするとき、当てなど無い。
当てがあったとしても、それが自分の知りたい内容と合致するとは限らない。
私が10年前に
趣味が高じたわけで、そのときは、再びこの地に足を運ぶとは全く思わなかった。
新潟交通の電車線が無くなるとき、私は月潟に行った。
雪が時雨る、3月のことである。
それから数年して、大学生になった私は、なにやら論文なるものを書かなくてはならなくなった。
さて、何を書こうか。
この時、私は思った。
“卒業論文ぐらいだぜ、研究ということで何度でも通えるのは”
“でも、俺が鉄道のことをやっても、客観的な研究はできねぇな”
“かと言って、汽車ポッポの無いところへ行くのはヤボだろ”
と苦吟しているなか、大学図書館で、何故なんだろうか、
民俗芸能をやろうとは方向性を定めていたので、手当たり次第に本をめくっていたのかもしれない。
きっと、そうであろう。
民俗芸能を選んだのは、消え行くローカル線に、影を被せたからに他ならぬ。
地域の力が別方向へシフトしたときに、取り残される前時代の遺産。その性格が私には同じに見えた。
どうせやるなら、二つを兼ね備えている場所がよい。月潟はそういう場所だった。
2004年5月の末、単身新潟へ降り立った。
当時は学生の身の上、金がなく、ムーンライトえちごで未明の5時頃に着いた。雨が降っているし、心細いし、これから何が待っているかわからないから、新潟駅前のロイヤルホストで時間を潰すのが辛くて仕方がなかった。
朝一番の万代シティバスターミナル発の月潟行きに乗り、着いたのは10時頃だったと思う。
とりあえず当てもないので、かつて訪ねた月潟駅跡に行ってみた。
ここで、駅を管理しているご婦人にお会いしてからが良かった。
来訪目的を話したところ、村長も同じ大学の卒業生だというので、突然なのに連絡を取って下さった。
アポイント無しで、村長と面会して、村長の出張のついでに途中だということで、これまたアポ無しで、保存会の核となっている方を紹介してもらえた。
第一回のフィールドワークで、面通しがこれほどまでに叶うとは正直期待していなかったので、奇跡だと私は思った。
フィールドワークには奇跡が起こるのである。
これが文献研究が中心の学問と違うところであり、醍醐味である。
なんとか様々な方々にお話を聞いて、次への課題というか、生まれたての素材をどうするのか、高ぶる気持。
これはフィールドワーク、巡検をした人にしかわからない。
5時の閉館まで図書館にいて、帰りのバス、雨が止んだ越後平野で、私はベートーベン交響曲第九番“歓喜の歌”を聞いた。
ハイな気持ちと、卒論のためと辞めたサークルのことが、綯いまぜになって複雑だった。
それからがまた辛い。
月潟から万代シティバスターミナルまで一時間少しだから、11時過ぎに出るムーンライトえちごまでは時間がありすぎた。
万代橋で信濃川を眺めて、本屋にはいって、モスバーガーで閉店まで、来るべき大学院試験のために英語の勉強をしたような気がする。
この時すでに就職を諦めていたんだと思う。
かくして、深夜に新潟を発ち、また未明に池袋へ帰ってきた。
行きのムーンライトでは眠れずに悶々とした記憶があるが、帰りはまったく記憶が無い。
よく寝たのであろう。
2009年6月28日(日)
私はまたぞろ新潟へ出かけた。
既に私の新潟への足は新幹線に変わっていた。
今日は月潟で角兵衛獅子のお祭りがある日で、昨年行けなかったので久しぶりに見に行こうと思う。
月潟行きの電車代替バスが新潟駅前から出るようになっていた。
薄暗く、立ち食いのウドンソバのスタンドが時の流れを感じさせる万代バスターミナルに立ち寄る必要がなくなったのはラクだが、これまでの経験で、万代バスターミナルまで歩かないともの足りず、ターミナル前のバス停まで歩いた。
バスはかつて新潟交通電車線が走っていたルートに沿って走る。
旧東関谷駅は、初めて来たときまだ駅舎が残っていた。
旧黒埼駅にも古びた駅舎があった。
月潟には宿がないので、隣の白根に宿を借り、さらに自転車を借りて走り回った。
その時に立ち寄ったスーパーも無かった。
月潟は変わっていなかった。
ここは本当に変わらない。
消雪パイプの錆のせいで赤くなった街路、電車が来なくなっても駅前の看板はそのままだし、商店街をあるいても無くなった店がない。
越後平野のど真ん中に国道も鉄道もないエアポケットのような場所、それが月潟である。
観光ルートには絶対登場しないだろう。名前を知っている人も局地的にしかいないと思う。
私が卒論を提出した2005年3月に
そんな場所に、カメラを持った人間が蝟集する日、それが今日だ。
月潟の角兵衛獅子は、土地で割烹を営んでいる3代の女性が育成している。
常磐津“越後獅子”と長唄“角兵衛”は、ともにこの角兵衛獅子を題材にしたもので、邦楽と邦舞に興味を持つ人なら絶対に知っているくらいに有名な曲だし、舞である。
まぁ、裏を返せば、興味の無い人は知っていなくて良い。
私は全く知らないまま、知らない言葉を聞いたまま、読んだままに論文に書いた。
調べてもなんだか良くわからないから仕方ない。調べる気も起こらなかった。
ところが、3年後、そんな世界でお給料をもらうようになるんだから、人生は奇妙だと思う。
話がぶれた。
全国に名を轟かす角兵衛獅子を現在に伝える営為。
そこに至るまでのインパクトとどう向き合ってきたのかが私の論旨で、まぁ“論”などはなく、聞き書きに等しい代物であったが、内容は私の責任で、お世話になったおかみさんがいる。
角兵衛獅子の舞が行われる白山神社へゆく。途中、田園の風景を見ていたりしたので、着いたら既に始まっていた。
観客を見渡すと、卒論の時には大変お世話になった燕の方もいた。一昨年来た際にはお会いできなかったので3年ぶりになる。
見終わって、挨拶をして駅へ行き、最初のきっかけを頂いたご婦人に会う。
さらに、角兵衛獅子を指導しているおかみさんにお会いして、家へお邪魔させていただいた。
御歳80を越えるご母堂がいらっしゃり、今回もご挨拶ができた。
私を取り巻く環境は大きく変わったけれど、お世話になった小さな農村は、一見に近い旅人には変わらなかった。
世間は21世紀を迎えたけれど、世の中には変わらないものがある。
帰り、新幹線の指定席をとれなかったので、時間が許す限り、新潟駅に近いBARで呑んだ。
日曜でも営業している店だったが、開店と同時に入るような客はいないのだろう。まだ準備万端ではないところに入り込んでしまった。
ジンリッキーとギムレットを呑んで、カメラと映画の話を聞いていたら、時間の経ち方が急に早くなり、帰り際に土産の日本酒を探していたりしたから、新幹線のホームへ上がったときには列が延びていて、席を見つけるのがやっとであった。
行きたい場所へ行く旅をしているが、遠い故郷の無い私には、懐かしくなって思わず出掛けてしまう場所だと思っている。
そして、河。信濃川も、月潟村に沿って流れる中之口川も変わっていなかった。







