3期に続けて4期も挑戦することにしました。
実は、どうしようか?をかなり悩みました。
3期のチームの皆さんに本当にご迷惑もかけてしまったことで、
4期の学びについていけるのか?
私に理解できるのか?
また、チームの皆さんにご迷惑をかけてしまうのではないか?
と、逡巡もしたのですが
「絵本の絵を読み解く」
「翻訳」
2つのテーマにとても驚異を惹かれ、チャレンジを決めました。
そもそも、私が絵本について学びたいと思ったきっかけが
絵本は無駄がない言葉と絵が組み合わさって物語が生まれるもので、その生まれる物語の源流はどこにあるのだろう?と思ったことでした。
小さな頃の私は、なぜ『かばくん』が好きだったのだろう?
なぜ子どもの頃に読んだ絵本と、今読む絵本の印象が違うのだろう?
子どもの頃、あれほど好きだった絵本の世界に、また同じ感覚で戻ることはできないのだろうか?と言うような、私の疑問はものすごく個人的なもので、誰に何を聞いて良いのかもわからないようなものでした。
3期で学んでもまだ何かがわかるほどには理解出来ていないのですが、とにかく絵本の世界は広くて深いと言うことはわかりました。わかったと言っても感覚的に凄いと圧倒されている状態で、何かを言葉にできるほどにはわかっていないのが今の私です。
なので、今回は絵本の深さ・広さについて感覚だけではなく、言葉として自分がもう1度考えることができるように、何か少しでも学んだことを消化して言葉にしていきたいと思います。
終了時に「絵本について学んだことを誰かに伝える」まではいかなくても、何を学んだかのかを言語化して考えることができるようになりたい。これが、私の4期の目標です。
初回の宿題で選んだ翻訳絵本は
『空の飛びかた』
ゼバスティアン・メッシェンモーザー/作
関口裕昭/訳
光村教育図書
翻訳されている関口裕昭さんは、ドイツ文学者で『うんちしたのはだれよ!』も翻訳されている方でした。

今回、「翻訳」と聞いたときに、真っ先に思い浮かんだのがこの絵本でした。
ある日空から落ちてきたペンギンを、また空に戻すために試行錯誤する物語です。
もう20年ほど前に何かの展示会に行った時、ディスプレイとして飾られていたのがこの本の原書(ドイツ語)でした。ペンギンの絵に惹かれて手にとり、ドイツ語は読めないにも関わらずストーリーが面白いと思い欲しかったのですが、まだ翻訳が出る前で手に入れることができずに諦めました。その何年か後に日本語訳を書店で見た時に、絵だけで読み取っていたストーリーと少し違ってもいたのも面白い体験でした。
第1回目、翻訳についての講義の中で「声の文化」についてがとても興味深かったです。
「子どもたちは物語を声で聴く」
声の文化にいる人たちは文字の文化にいる人とは認識の仕方が違う。だから翻訳が必要となる。この説明を聞きながら、ふと思ったのがアイヌ文化でした。アイヌは文字を持たず、ユカラで物語を伝えてきました。アイヌの声の文化で伝えられた物語を、私は子どもの頃から絵本や物語で楽しんできました。口伝えであったアイヌの物語が文字の形をとって、そしてまた読み聞かせという声に戻って子どもに与えられること考えるととても面白いとも思いました。
もう一つ、蘇ってきた思い出として「アイヌ文化が滅びていったのは、文字を持たなかったからだ」という過去に聞いた話しです。これを聞いた時に、では文字を持っているものは滅びていないのか?滅ぼした側がその文字を禁止した場合は、やはり滅びるのでは?と考えたことを思い出しました。直接、絵本と繋がってはいませんが、歴史の中で残る絵本にふと思いが行き3期の学びも思い出しました。
絵本の魅力と私が感じている言葉と絵がバラバラに存在するのではなく一緒になってストーリーを語るというのも、まだ声の文化の中にいる10歳以下の子ども達に向けて作られているものだからというのもなるほどと思ったのですが、大人になった私たちが絵本の読み聞かせを聞いて何かを感じるということは私たちも声の文化を捨てているわけではないのだな、とも思いました。
どうでも良いことかもしれないですが。
今回、絵本をどう見るか?を『ちいさいおうち』を例にとって、作者と訳者の想いも併せながら具体的に提示していただけたのがとても理解しやすかったのですが、これを説明しようと何度か録画を見直しても言葉にするのは難しいです。
とはいえ、ちいさいおうちの視点に立つ見方で絵本を見ると、子どもの頃にはこの感覚が当たり前だったことに気がつきました。自分をおうちと重ねて、絵本の世界を内側から見ていました。

どの側から見るか?
誰が語る、誰に向けての物語なのか?
今後、意識していきたいと思います。
そうすることで『ちいさいおうち』の説明が、今よりももっと理解できるような気がします。