マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕21・28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 

 新共同訳は「兄」と「弟」と訳していますが、ギリシャ語本文は「初めの〔子〕」、「二番目の〔子〕」となっています。また、二番目の子の答えは「わたし(こそ)が、主よ」です。

 

イエスのたとえはマタイ福音書7章21節以下の教えを思い出させます。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」」

 

 父である神の御旨を行うことができますように。

マタイによる福音

 〔そのとき、〕21・23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

 イエス時代のエルサレム神殿の運営、礼拝、祭儀に関わることは大祭司を頂点としたユダヤ人の指導層の管理下にありました。

 神殿内で教えるためには、神殿管理当局の許可、少なくとも届け出が必要だったのではないかと思います。

 神殿で教える許可、あるいは届出の有無について問いただした祭司長や長老に、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」とイエスは問い返します。

 人間からの許認可について訊いた祭司長たちに、イエスは神の権威について問い返したのです。

 祭司長たちの反応はいかにも官僚的なものでした。

 

 さまざまな教会の取り決めではなく、神の御心は何かを第一に考えたいものです。

マタイによる福音11:2-11

 

 〔そのとき、〕2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 わたしにつまずかない人は幸いである。」7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

 

 お手元の聖書と典礼の表紙には、「来るべき方は、あなたでしょうか」という言葉と共に洗礼者ヨハネの絵が掲載されています。

 

 待降節第三主日のテーマは入祭唱の「主にあっていつも喜べ(gaudete)。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」です。伝統的に喜びの主日と呼ばれます。

 

 来るべき方であるイエス・キリストの訪れが近いことを喜ぶ象徴として、司祭はバラ色の祭服を身に着けました。

 

 第一朗読のイザヤ書は、不毛の場所である荒れ野や砂漠が花々で埋め尽くされ、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」と歌います。

 そのとき、「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去」ります。

 

第二朗読の使徒ヤコブの手紙は、農夫が雨を待つように、忍耐して主が来られる時を待ちなさいと勧告します。この勧告の中でヤコブは何度も忍耐せよと言います。

 

 マタイ福音書に登場する洗礼者ヨハネは荒れ野で叫ぶ行者のようです。イエスがヨハネから洗礼を受けに来たとき、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(3:14)と洗礼を思いとどまらせようとします。その時点で、ヨハネはイエスが誰なのかを彼なりに知っていたはずです。

 やがてヨハネは領主ヘロデの不法な結婚をとがめたことが原因でヘロデに捉えられ牢獄につながれます。ヨハネが待ち望んでいたメシアとは「良い実を結ばない木」をみな、切り倒し火に投げ込む厳しい裁き主でした。ところが牢獄でヨハネが耳にしたのは病人や罪人を慈しむイエスの姿でした。それで彼は自分の弟子たちをイエスのもとにつかわし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせました。これに対してイエスが応えたのは本日の第一朗読で預言されていることの実現でした。

そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。

そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。

 このイザヤの預言は、先週の第一朗読イザヤ11章の「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。」の預言と共に普通ではあり得ない出来事です。

 

 洗礼者ヨハネが自分の期待したとおりの行動をイエスはするはずだと自分のメシア観に固執するなら、イエスにつまずくことになります。

 ヨハネの弟子たちが帰った後、イエスはヨハネについて群衆に語ります。イエスによればヨハネは預言者以上の者です。しかしイエスは、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と結びます。

 

 救いは人間が期待したようにではなく、神の無償の恵みとして、全く思いがけない仕方で人間にもたらされます。

 

 この待降節のあいだも、命の危険にさらされている人たちがいることをわたしたちが忘れることがありませんように。

 

 人間たちが交渉の末、妥協して作る平和ではなく、神の平和、キリストの平和が実現するよう待ち望みましょう。