ヨハネによる福音10:1-10
〔そのとき、イエスは言われた。〕1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2 門から入る者が羊飼いである。3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
聖書と典礼の表紙に「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と書いてあります。復活節第四主日の主題は「良い羊飼い」です。
第一朗読は五旬祭の日に聖霊を受けた使徒たちを代表してペトロが集まった人々に対して宣教をする場面です。今の教会では洗礼を望む人は一定期間、礼拝に参加し、教えを学ぶ必要がありますが、ペトロが説教をするやいなや、その日に三千人ほどが仲間に加わったというのですから、ペトロの説教に人を揺り動かす力があったのです。
ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」と言います。
第二朗読はペトロの手紙です。今日の朗読箇所も、ペトロが洗礼を受けたばかりの信者に向けて行った教話のようです。ペトロの教話が各教会で朗読されるために手紙の形で残されたのではないかと思います。
「聖書と典礼」の欄外の註にあるように復活節第四主日は「良い牧者の主日」と呼ばれ、ヨハネ福音書10章の1節~10節が朗読されます。
1節から10節の話を踏まえてイエスは11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言います。
イエスが語る「良い羊飼い」のイメージは、生活のなりわいのために「羊を飼育する人」という枠を超えています。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出し、羊はその名を聞き分けます。たとえ百匹の羊を世話していても、その一匹一匹は名指しで呼ばれ、羊飼いと羊は深い信頼関係で結ばれています。
羊飼いは羊を棒で叩いて追うのではありません。羊飼いの「声」の声を聞いて、羊たちは羊飼いに自ら従います。
イエスは、「雇われの羊飼い」と「よい羊飼い」を対比させています。
「雇われの羊飼い」は、狼が来たとき、雇い人は自分の命を守るために逃げ出しますが、よい羊飼いは羊を守ろうとして踏みとどまります。
昼間は野原などで放し飼いにしている羊たちを、夜は安全のために囲いの中に入れていたようです。羊の囲いには扉がないことも多く、羊飼いは囲いの入り口に横たわって眠り、「門」となっていたことが、「わたしは羊の門である」という言葉の背景にあります。
羊を襲おうとする狼や泥棒は、最初に羊飼いの体を乗り越えなければなりません。羊飼い自らが門、扉となり、命を懸けて中にいる羊を守るという具体的な情景をイエスは語ります。
ひとこと
ディールという言葉がよくマスコミで取り上げられます。ディールの名詞の意味は、「取引、取り決め、契約、協定」です。ディールという言葉の背景には、「勝つか、儲かるか」が一番大事だとする価値観があります。
イエスの「羊飼い」は羊を自分の家族や、自分自身の一部のように愛します。また、羊を守るためなら自分のいのちさえ惜しみません。
人々が互いの違いを超えて、尊重し、愛し合う関係はディールという言葉になじまないものです。