マタイによる福音

 11・25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 軛(くびき)は日本では先ず見かけることがありません。くびきは発音のとおり、家畜の頸にかける木のことで、鋤や荷車を引かせる道具です。

 軛には一頭用のものもあれば二頭用のものもあったと言われます。パレスチナでは軛は基本的に、ベテランの親牛と、力の弱い子牛をセットにして掛けられたと言われます。重荷は親牛が担い、子牛は親牛の横を歩くだけで良かったと言います。

 イエスは、「わたしが隣で一緒に軛を負ってあげるから、あなたはわたしの隣に寄り添って歩くだけでいいんだよ。実質的な重みは、わたしが全部引き受けるから」と言っているのです。

 イエスのみこころがどのようなものであるかを示すことばです。

 

イエスのみこころについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleA/a_sacra_cuore.php

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕10・7「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」

 

 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ汚れた霊に対する権能を授け、宣教に遣わす前に指示を与える場面です。

 彼らの権能は、彼ら自身のものではなく、イエスが授けたものです。

 イエスは「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」と言います。

 現代のわたしたちの感覚からすれば、まるで実行不可能な課題のように思えます。

 しかし、イエス時代のパレスチナ地方には、旧約聖書の時代から、見知らぬ旅人を家に迎え入れてもてなすことは、神に従う者として絶対の義務とされていました。ましてや、彼らは「神の国の到来」を告げて回る宗教的な伝道者です。弟子たちが町や村に入れば、必ず彼らを家に迎え入れ、食事や宿を提供する人々がいたという解説を読みましたが、実感がありませんでした。

 サティシュ・クマールさんは、インドで生まれ、1962年から核兵器廃絶を訴える13,000キロの平和巡礼を無銭、徒歩で2年半かけて行いました。

 クマールさんのことを知ったとき、十二人の弟子の宣教旅行に真実味が感じられました。

 

 聖バルナバについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=061101

 

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕6・1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 5祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 16断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

 人から偽善者と言われることは、非常に強い侮辱(あるいは痛烈な非難)として受け止められるのが一般的です。言われた側が深く傷ついたり、激しい怒りを覚えたりすることがほとんどでしょう。

 イエスは立派な人物のように見せかけながら、その実は真逆の生活をしているユダヤの指導的立場にある人を偽善者だと指弾します。