マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕5・43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 ケセン語訳聖書の著者山浦玄嗣先生は、日本人の若者の多くが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というイエスの教えにつまずいて、キリスト教徒になるのを断念すると言います。それは、「敵を愛する」を「嫌な相手を好きになる」と思うからだと言います。そこから「愛する」を「大事にする」と読み替えることを提案しています。

 そう読み替えても、イエスの教えを実践するのはハードルが高いと思われます。

 対人関係療法の水島広子先生は、「自分を迫害する者のために祈る」のは、メンタルケアとして有効だと言います。

 怒りや恨みは、抱いている本人の精神を内側から焼き尽くします。相手のために祈ることによって、怒りや怨みを手放すことができるといいます。

 

 昔の公教会祈祷書の夕の祈りの中に、「生ける人と死せる人とのために祈らん」という祈りがありました。幼い頃は毎日朝晩の祈りをしていたことを思い出します。

 

 主願わくはわが親族、恩人、友人、またわれに害を加えんとする者にも御恵み(おんめぐみ)を垂れ給え。▲なおわれらの霊魂を司どる人々と、肉身を司どる人々とを助け給え。貧しき者、禍いに遭う者、身寄りなき者、病める者、および死に臨める者をあわれみ給え。主を知らざる者に救霊(きゅうれい)の御恵みを下し、また煉獄(れんごく)に苦しむ霊魂に御あわれみを垂れ、ことにわれらに縁あるものの霊魂に終りなき幸いを与え給え。アーメン。

 

祈り

主よ、あなたの民であるわたしたちを、

あたたかく見守ってください。

わたしたちに、あなたの愛を分けてください。

知識や理念でなく、生きた体験として。

わたしたちは互いに愛し合うことができます。

まずあなたが、わたしたちを愛してくださったのですから。

すべての人間の愛は、

あなたの大きな愛の反映であることが分かるよう、

あなたの最初の愛を教えてください。

無条件で、限りない愛を。

アーメン

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕5・20「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

 21あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 

 イエスは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言います。

 律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちが守っている通りに守ることができない人を罪人や穢れた者、異邦人として断罪していました。

 しかし、イエスは弟子たちにそれ以上を求めます。

 イエスの言葉どおりに行うことは不可能だと思ってしまいます。

 律法学者やファリサイ派の人の説く義は、断食、施し、礼拝など「何をしたか(doing)」によって実現されます。

 イエスは「どのような心(being)でいるか」を基準にします。現実に殺人を犯さなくても、心の中で怒り、他人を見下すなら、それは神の目には義ではないと言います。

 ファリサイ派の義は自己義認の義です。イエスが説く義は自分は「塵」であり、神の助けなしには神の掟を守ることができないことを認める「貧しい心」から出発する義です。

 律法を「罪を避けるための規則」として守る(doing)のはファリサイ派の義です。

 神に愛されているという確信に満たされ(being)、その喜びから、律法が求める以上の愛を隣人に注ぐこと。それがイエスの言う「まさる義」です。

 

祈り

わたしの魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。

主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく

わたしたちの悪に従って報いられることもない。

天が地を超えて高いように

慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。

東が西から遠いほど

わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。

父がその子を憐れむように

主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

──詩編103:2, 10-13

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕7・7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。9あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。10魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。11このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。12だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 

 イエスは「求めなさい」、「探しなさい」、「門をたたきなさい」と言います。

 求めることは、自分の欠乏と無力を認め、「わたしはあなたを必要としています」と言葉にする行為です。

 探すことは、隣人との出会い、静寂、苦しみの中に隠されている神の足跡を見つけ出そうとすることです。

 門をたたくのは、神のふところという聖域の入口に立ったときの所作です。門は同時にわたしたちの側にある「頑なな心」の門でもあります。門をたたく音は、神の聖域を叩く音であると同時に、自分の内側の頑なさを崩す音でもあります。

 この三つの行為を、イエスは一度限りでなく「……し続けなさい」と言います。

 「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる」と言うイエスの言葉は、イエスご自身が体験したことではないでしょうか。

 

祈り

神よ、わたしの内に清い心を創造し

新しく確かな霊を授けてください。

み前からわたしを退けず、

あなたの聖なる霊を取り上げないでください。

──詩編51:12-13