ルカによる福音

 〔そのとき、〕10・38イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

 イエスをもてなすためにマルタはせわしく立ち働きますが、マリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入ってい」ました。

 イエスはご自分をもてなすためにせわしく立ち働くことよりも、ご自分の足もとに座って話を聴き入ることが唯一必要なことだと言います。

 ケアのために必要なことは傾聴だと言われます。相手の口から言葉がこぼれ出てくるのを静かに待つことが傾聴には必要です。

 ベネディクト会のモットーは、「祈りかつ働け」(ora et labora)です。祈りとは神のみことばを傾聴することです。

 主の前でせわしく立ち働くマルタは主の語る言葉を聴く心の余裕がなかったのだと思います。

ルカによる福音

 〔そのとき、〕10・25ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」という問いは、世界中の人びとが尋ね求めていることです。

 律法の専門家は、律法の書に書かれていることをイエスがどれほど知っているかを試そうとしてこの問いをイエスに投げかけました。

 イエスは律法には何と書いているかと問い返します。彼が律法の知識を披瀝すると、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と答えます。そこで彼は「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスに訊きます。彼は「隣人」の範囲を訊いたのです。それに対してイエスはたとえを話し、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」とさらに問います。

 隣人の範囲を決めた上で、その人びとに対して隣人としてふるまうのではなく、困窮した人の隣人になることをイエスは求めています。

 イエスの意図は明確ですが、その意図の通りにふるまうことは難しい、特に権力者にとっては不可能に近いことを、世界情勢は教えているように思います。

マタイによる福音

〔そのとき、〕21・33イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。

 40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

 

 ぶどうはメソポタミア文明の発祥の頃から栽培され、ぶどう酒が作られていました。また、紀元前2000年頃栄えたエジプト王朝の壁画にはぶどう酒の搾り機や壺が描かれています。

 古代オリエントやエジプトではぶどうの栽培、ぶどう酒の製造はなじみ深いものだったようです。

 旧約聖書と新約聖書にも、ぶどうの話はよく出てきます。

 

 第一朗読で、イザヤが「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。」と歌い出したとき、この歌を聞く人々は、イザヤの友人が恋人に裏切られたことを歌う失恋の歌だと思い、怒った友人が下す行動を当たり前だと考えたはずです。

 しかし、この歌に出てくるぶどう畑とは不実の女性のことではなく、イスラエルの家、ユダの人々、つまり自分たちを指していると聞き手は後で気づくのです。

 

 このイザヤの論法と同じ手法をイエスも用います。先週の第26主日でイエスがしたぶどう園のたとえを聞いた祭司長や長老たちは、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」というイエスの問いかけに、「兄の方です」と答えざるを得なくなりました。これによって、イエスから、彼らは神の救いから排斥されていると自分たちが思っていた徴税人や娼婦よりも心が頑なで、回心の実を結んでいないことを自分の口から告白させられました。

 

 今週のたとえはぶどう園の主人と管理を任せられた農夫のたとえです。ぶどう園の主人は「垣をめぐらし、その中に絞り場を掘り、見張りのやぐらを立て」とあります。

ぶどう園を拓くには、丘から石を取り除き、斜面に石垣を積み、段々畑を作り、垣根をめぐらせて動物の侵入を防ぐ重労働が必要でした。ぶどう畑の主人は丹精込めた準備をして、ぶどう園を作業をする農夫たちに貸し出しました。

 

 やがて、収穫の時が近づいたので、収穫を受け取ろうと僕たちをぶどう園に遣わしました。すると、農夫たちは、遣わされた僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺しました。主人は他の僕たちを更に多く送りましたが、農夫たちは同じ目に遭わせました。最後に「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と、主人が自分の息子を遣わすと、彼を見た農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言って、ぶどう園の外にほうり出し殺してしまったと言うのです。

 イエスのたとえは現実にはあり得ないような内容です。この話をした後、イエスは「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」と祭司長や民の長老たちに尋ねます。

 彼らは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」と答えざるをえません。

 するとイエスは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」という詩編の言葉を引用し、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」と言うのです。

 その言葉を聞いたとき、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしましたが、群衆を恐れて手が出せませんでした。

 イエスの言葉は、のちに、キリスト信者たちの異邦人宣教への手がかりとなりました。

 

ひとこと

 ぶどう園とそこで働く農夫のたとえは、わたしたちにとって何を意味しているのでしょうか。

 今日のたとえのぶどう園は、わたしたちの家庭、学校、社会という、この世界をたとえているともとれます。

 この世界の主人である神は、わたしたちの家庭、学校、社会が良い実を結ぶよう期待して、その世話をわたしたちに委ねておられるのです。

 神から委ねられた使命を身近なところで果たしていく勇気をいただくことができますようにと祈りましょう。